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太陽との終わらない恋の歌 Viva La Vida 4



 僕がはじめてダヴィッドと出会ったとき、彼は薄汚くて古い灰色のコートに身を包んで、波止場の大衆食堂のテラスで誰かが食べ残したパンを皿から奪おうとするところだった。
 夕方と夜の狭間(はざま)、太陽が西の空に消えかけ、選ばれた最も輝かしい星だけが紫の空の先にうっすらと姿を現し始めていた時刻だ。長い一日の労働に疲れ切った漁師や商人や船乗りが、それぞれの社会的地位や財布の具合にしたがって店を選び、潮の匂いのする波止場に連なっている食堂で、おのおのの腹を満たそうとしていた。
 食べ物のあるところが、人のあるところだ。
 おかしいかな、これはどんな上流社会でも、魚臭い波止場でもあまり変わらなかった。
 ぼんやりとそんなことを考えながら、僕は、荒っぽい男たちが群がるように集まっているテラスを眺めていた。あからさまに場違いな僕を見て、冷やかしの声を上げる連中もいたけど、さらりと無視した。
 僕は11歳、ダヴィッドは12歳の夏の終わりだ。

 そのパンの破片は堅そうで形が悪くて、僕の家だったら、まるで害虫のような扱いを受けてまっすぐに捨てられてしまうような粗末なものだった。
 でも、客が立ったあとのテーブルに残されたそれを、ダヴィッドは鋭い動きで素早く奪い取ると、最後のひと粉まで味わい尽くすかのように貪欲に口に含んでいた。ついでに彼は、テーブルにあった別のなにか……魚の尾とか、そんな他人の食い残しをさっと奪うと、それも同じように口の中に放り込んだ。

 マノン、そんな顔をしなくてもいいんだよ。
 正直、ダヴィッドのような生き方をしなければならない貧しい子供は、当時も今も、掃いて捨てるほどいる。
 あの時も、あの場所に、同じような子供達が何十人もうろうろしていたはずなんだ。
 でもなぜか僕はダヴィッドに魅入ってしまった。そしてダヴィッドも、指を舐めながら顔を上げ、テーブルから離れようとするとき……僕を見つけた。
 ダヴィッドは路上の孤児にありがちな、他人を信用しないけぶった瞳を僕に投げかけた。そして、すぐにふいと目を逸らして歩き去ろうとした。
 今でもどうしてあの時、僕はダヴィッドのあとを追いかけたのか、不思議に思うよ。

 とにかく、僕はダヴィッドのあとを追ってうらびれた裏路地に入っていった。
 狭くて薄暗くて、渦巻くような霧が肌にまとわりつく、陰気な通りだった。馬車はおろか馬も通れない幅だったから、人気は一切といっていいほど、ない。
 ダヴィッドはまるで走っているかのような速さで、ぐんぐんと路地の先に消え入ていった。
 遠ざかる黒い影のかたまりを、僕は急いで追いかけた。
 港独特の湿った石畳が、背後にある波止場から漏れるわずかな光を受けて、ぎらぎらと脂ぎって見える。僕はダヴィッドの影をふと見失い、あわてて彼が見えなくなった地点まで走りつくと、そこから右手にさらに細い通路が伸びているのを見つけた。
 建物と建物の背中が重なり合った、もう道とは呼べない、真っ暗な空間だった。
 大人は通れそうもない……通ろうとも思わない、洞窟のような道先。
 なぜか僕に迷いはなかった。
 わずかに背を屈め、ゆっくりと暗闇に足を踏み入れると、侵入者に驚いた溝ネズミが細い金切り声をあげて逃げていくのがわかった。

 どのくらい進んだか、どれだけ時間が経ったかわからないけれど、気がつくと僕は引き返せない闇の中にいた。
 この時はじめて、僕は自分の先行きというものに不安を覚えた。
 繰り返すけど、僕はやんごとなき貴族のお坊っちゃまで、世間を拗ねていて、自分の未来に対してなんの希望も抱いていなかった。自分の命なんて、いつでも捨てられると思っていた。
 それが、右も左もわからないよう深い闇に包まれて、生まれてはじめて生への執着のようなものを覚えたんだ。こんな薄汚い場所で、野良犬のように誰にも看取られずに、一人で死にたくない……ってね。

 はじめてダヴィッドの声を聞いたのは、その時だ。
「あいにく、この先にはなにもないよ」
 暗闇の先から、少年のかすれた声が冷えた空気を揺らした。「食い物を探してるんなら港にいた方がいい……ここから先は、家(ラ・メゾン)だ。あんたみたいなお坊ちゃんが、遊びに来る場所じゃない」
 家?
 僕は息をひそめて暗闇を見わたそうとした。
 その時はじめて、この寒さにもかかわらず、手がじっとりと汗ばんでいるのに気がついた。
「僕は……」
 なにを言おうとしたんだろう?
 僕は、なにをしていたんだろう? なにを探していたんだろう?
 答えがなくて黙っていると (僕には珍しいことだ)、ダヴィッドはしばらくの沈黙ののち、短くささやいた。
「来い」

 僕は声が聞こえた方にゆっくりと足を進めた。
 ダヴィッドはだいぶ速度を緩めて歩き始めたようだったから、それになんとか食らいつくようにして、ついて行った。すると、ほどなくして、僕らは崩れかけた廃墟の前にたどり着いていた。

 橙色の小さな炎がぽっかりと浮かんでいて、それを囲むように、五、六人の汚い子供達がずんぐりした灰色や黒のかたまりのようになって座り込んでいる。どの顔も、僕をよどんだ目で見上げていた。

 僕は、すぐに、誰かに身分を問いただされるのだろうと思って、身構えた。
 しかしそれはなかった。
 皆、さっさと僕に対する興味を失い、頼りなく揺れる炎のほうに視線を戻して、小さく小さく身を縮めている。ダヴィッドもその輪に加わり、座り込んだ。
 僕は彼に従って、隣に座った。

 僕も、ここにいてもいいのかい?
 そんな質問は野暮なようだった。
 君たちは、ここでなにをしているんだい?
 そんな質問は、明らかな時間の無駄だ。彼らのような惨めな孤児は、たった一握りの精力も、たった一つだけの慎ましい炎も、無駄にはできないのだろう。

 僕はダヴィッドの隣にうずくまって、生まれてはじめての本物の寒さに震えながら、静かにその夜が明けるのを待った。



 朝になっても、廃墟には薄靄が立ち込めていて、明るいとはいえなかった。
 それでも夜の闇が消えると、今にも崩れ落ちそうなその全景がすっかり見渡せるようになって、僕は周囲を見渡しながら低くうなっていた。
 どこか、なにかの廃工場のようだった。
 いまだに建っているのが不思議なくらいの危うい二階建てが、灰色の霧の中に佇んでいる。子供が遊ぶ人形の家のように、一面がすっかり倒壊してむき出しになっていた。四方は他の建物の壁に囲まれていて、外の世界から切り離されたような場所だ。
 朝。
 僕は、給仕係が運んでくる暖かい朝食を、さも当然のように待っている昨日までの自分の幻覚を見た。
 湯気の立つふわふわのバゲットに、酸味のきいた苺のコンフィチュール……そして母は、銀のスプーンが汚れているといって、給仕係に意地悪に文句を言うのだ……。
「おい」
 ダヴィッドの威圧的な声に、僕は我に返った。
 周りにいた他の孤児たちも、いぶかしげに僕を見ている。ぐるりと連中を一見しただけで、ダヴィッドの強い存在感がわかり、彼がこの顔ぶれの中の長的な立場らしいのが察せられた。
「朝飯が欲しかったら、ぼうっと突っ立ってないで、俺たちと来い。ここにはなにもない。居続けたいなら働くんだ」

 あらためて聞くと、ダヴィッドの喋り方には下町独特の訛りが、一切といっていいほどなかった。
 言葉遣いは荒っぽいが、どことなく……教育熱心な親のいる裕福な家の子供しか操れないような、語彙の豊かさと抑制のきいた喋り方をする。僕は彼に強く興味を惹かれた。
 でも、そんなことよりまずは腹を満たす方が先だった。
 僕はおとなしくダヴィッド達について、廃屋を後にした。家に帰るつもりなんてさらさらなかったよ。


 僕はね、マノン、こうしてダヴィッドに出会ったんだ。
 信じられないかい? 僕も、時々、あの頃のことは夢だったんじゃなかったかと思うことがある。悪夢ではないよ。でも、良い夢でもないかな。寒くてひもじくて、でも、生まれて初めて生きていることを強烈に実感した。
 あの経験があったからこそ、僕は医者になろうと思ったんだ。
 続きも聞いてくれるかい……


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