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 僕は息がしたかっただけだ――生きる者として。
 死にながら息をし続けるのは、もうごめんだった。この人生を生きたかった。

 あの頃の僕は、きっと、自分が何を求めているのか知らないまま、それを求めていた。



太陽との終わらない恋の歌 Viva La Vida 2



 朝、目を覚ますことを何よりも嫌悪していた頃があったのを、リーは覚えている。
 目を覚ました瞬間に、すでにそのことを後悔していた。
 そう昔のことじゃない。

 しかし今朝、冷えきった冬の朝日に瞼を照らし出され、ゆっくりと目をひらく瞬間――静かに血が巡りはじめ、朝の活動を身体が予感するとき――リーはたしかに、ある種の歓喜を感じながら目を覚ましていた。
 いい匂いがする。
 朝食のかぐわしい香りと、澄みきった空気。深く息を吸って肺をふくらますと、ある実感がリーの全身に走った。

 生きている。
 そのまま手足を伸ばし、長椅子に放り出していた足を床に下ろすと、正しくない格好で眠っていたのか肩の辺りがきりきりと軋んだが、それ以外の気分は最高だった。
 目の前のテーブルには、朝日を受けて輝くクリスタルのグラスの横に、空になったバーボンのボトルが置かれたままでいる。
「おはようございます、ドクター」
「ああ……どうも」
 通りがかった女中に挨拶されて、リーは適当な返事を返した。
 サイデン家の使用人は執事バトラーをはじめとして、概してよく訓練されていて物静かだった。屋敷の規模からすると人数は少ないが、皆真面目に働いているので不自由な感じはしない。そもそも男一人の屋敷だし、マノンもあまり手の掛からない子だ。
 両腕を上にして大きく背を反らして伸びをすると、リーはゆっくりと立ち上がった。
 空のバーボンのボトルを横目に、滅多なことでは二日酔いをしない自分の体質に感謝しながら、ずっと昔のことを思い出してクスリと忍び笑いを漏らす。
(でも、ダヴィッドにだけは、敵わなかったんだよね。酒飲み)
 リーは、当時は苦かった思い出を楽しげに回想しながら、クリスタルのグラスがつむぎだす七色の光のプリズムに目を細めてみせた。
(まあ、あの頃飲んだ酒は、これとは比べ物にならないくらい酷い銘柄だったけど)
 時の流れが物事を遠くまで運んできたのは確かだった。
 リーの運命を。ダヴィッドの運命を。


 ――ダヴィッドは良い意味で諦めることの上手い少年だったと、リーは考えている。
 あの頃「ラ・メゾン」 にいた子供たちの大部分は、今はもう死んでしまっているか、運が良くても波止場できつい日雇いの肉体労働を続けているのが関の山だ。時代が開けてきたとはいえ、そうそう孤児だった人間が腕一本で成功できるほど、社会はバラ色ではない。上から転がるのは恐ろしいほど簡単なのに、下から這い上がるのはあまりにも難しい世界。
 多くの者は、今の自分の地位にしがみつくばかりで、そこから抜け出す努力をすることはなかった。
 新しい人生に漕ぎ出す勇気がなくて。
 その先に何が待っているのかを確かめるのが、怖くて。
 酒場でまずい酒を飲みながら、自分の悲運を嘆くのだ。本当は、そこから抜け出す道があったとしても、怖くて進めないくせに。
 ダヴィッドもリーも、そういう意味では勇敢だったのだろう。


 リー・レジェは固くなった肩をほぐすように腕を前後に回しながら、食欲をそそるバターの焼ける香りがしてくる方向を目指して歩きはじめた。
 これはタルティーヌだな……と、リーは簡単に予想することができた。
 バターたっぷりの熱々に焼けたバゲットを思い浮かべながら、リーはダヴィッドの現金さをくすりと笑った。タルティーヌはマノンの好物だ。あまり健康的な食べ物ではないので普段は娘に出すのを渋っているのだが、こういう時は急に甘くなる。
 昨夜の様子からして、マノンはもうだいぶ良くなってきているだろう。
 皆で朝食のテーブルを囲みながら、ダヴィッドをからかってやるのも面白いかもしれない。リーはそう考えて、妙にうきうきとした気分で広いサロンを横切った。


 さて、朝食は一階にある温室風に造られたテラスで行われていた。
 だいぶ朝が冷え込む季節になってはいるが、このテラスだけは太陽が当たりやすく設計されている上に、暖炉が置かれているので暖かい。
 リーがそこにたどり着いたとき、テーブルにはすでにダヴィッドとマノンが座っていた。
 二人の父娘――世間体的には、そういうことになっている――は、仲睦まじく隣り合わせの席につき、なにやら互いの皿を干渉し合っていた。
「でも、ダヴィッド、これ」
 と、ささやくように言いながら、マノンは皿にのっている細長い野菜を当惑気味に転がしてみせた。「このままじゃ食べられないわ。たぶん、切ったり煮たりしないと」
「それは……そうかもしれないが」
 対するダヴィッドは、真剣そうに眉を寄せて、端正な顔を渋くゆがめている。世界で最も難しい法律文を読もうとしている男のような表情だが、その目の前にはポワロといわれるネギの仲間が置かれていた。
「リーの話では、これは熱に効くそうだ。くそ、調理方法は聞かなかった」
「料理人さんならなにか知っているかもしれないわ」
「そうだな」
 そう言って、ダヴィッドは、マノンの皿の上にのっていた白と緑の細長い野菜を片手で掴むと、席を立って調理場に続く扉の中へと消えていった。
 相変わらずの素早い身のこなしには感心するが、やっていることが見当外れなので、リーは口元に浮かんでくる笑いを止めらずにいた。
 他のことは全て完璧といっていいダヴィッドだが、マノンのこととなるとうまくいかないらしい。まったく、恋とは恐ろしいものだ。
 食卓に残されたマノンに分かりやすいように、リーはテラスの入り口でゴホンとわざとらしい咳をしてみせた。
 マノンが顔を上げる。
「おはよう、お嬢さん。今朝はもうだいぶ具合がいいみたいだね」
 と、明るい調子でリーが言うと、マノンはきらびやかな朝日のように美しい笑顔を見せた。
「リー先生、おはようございます。先生が泊まっていてくれたなんて知らなかった」
 マノンの大きな瞳は、太陽の光に透かした宝石のようにきらめいている。なめらかな肌は白い絹のようで、ダヴィッドでなくても触れてみたいと思わずにはいられないだろう。つややかな金髪は三つ編みにまとめられていたが、後れ毛が柔らかい曲線をかいて肩まで流れていた。
 ――ご愁傷さまだね、ダヴィッド。
 友人の苦悩、もしくは煩悩を思って、リーは心の奥で十字をきりつつ呟いた。「禁断の恋に溺れる若き実業家に幸あらんことを」
「? リー先生?」
「いや、なんでもないよ。ところでダヴィッドはどこに行ったのかな」
 本当は分かりきっていることだが、リーはもったいぶって面白半分に訊いてみた。マノンは肩をすくめてみせる。
「調理場だと思うわ……さっき、風邪に効くっていう野菜をどこからかもって来てくれたんだけど、生のままで、ちょっと食べられなくて」
「そうとう焦ってたんだろうね。早く君によくなって欲しくてしかたがないんだよ」
 マノンは一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに笑顔に戻って、少し頬を赤らめた。
「それは……ダヴィッドは優しいもの」
「それには全面的には賛成しかねるなぁ。あの男は僕にナイフを突きつけてきたことがあるよ」
 ――ダヴィッドと優しさが同じ文節の中で語られる日が来たというだけで、リーには十分、感無量だ。当のマノンは、突然の告白にショックを受けたのか、しばらく大きな瞳を見開いたままリーの顔をまじまじと見つめている。
「嘘よ、嘘でしょう?」
「あれは熱い夏の夜だったなぁ。僕はちょっとダヴィッドをからかってやりたかっただけなんだ。でも、まあ、やつはそうは取らなかったみたいだけどね」
 うつむいたマノンは、テーブルの上に置かれた空の皿とフォークを眺め、きゅっと唇を結んだ。
 まるで自分がなにかの屈辱を受けたように、小さな手を膝の上できゅっと結ぶ。そして数秒後、決心したように顔を上げた。
「それは、リー先生がよっぽどひどいことをダヴィッドに言ったんだわ」
 すると、リー・レジェは声を上げて笑った。
 この小さな恋人は、あくまでダヴィッドの味方のようだ……素晴らしい、素晴らしいじゃないか。


 そうだ、ダヴィッドはそんな愛情を受けるに値する男だ。
 ついに、ついに、長かった惨苦と試練の時をこえて、彼は自身の「人生」 を見つけたのだろう。生きる目的を。息をするわけを。
 その、理由を。


 いつまでも笑い続けるリーに戸惑ったマノンは、ふたたび肩をすくめて両手をわずかに上げ、降参のポーズをとってみせる。
 可愛らしい仕草に、リーは我慢できなくなった。
 ――この娘は、知らなくてはいけない。俺は、語らなくてはならない。
 あの苦しみのときを。
 あの、生きるために戦った、試練の日々を。彼女に教えなくてはならない……。


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