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太陽との終わらない恋の歌 O Holy Night 13

 

 冬が深まり始めると、街は雪の訪れを待つかのように灰色に染まる。
 太陽が遠くなり、あまり顔を見せてくれなくって、どんよりとした厚い雲が意地悪く空を覆い続ける。水が凍り、木が枯れ、多くの動物は冬眠にはいる。
 この寂しい季節に祝日が続くのは、人間という動物だけが自然に抵抗しているようだと、ダヴィッドは常々考えていた。
 もうすぐ、聖誕祭と新年がくる。
 冷える街を暖めようとするように、軒先に明るい装飾が次々と掲げられ、人々は祝いの日を待ち浮き足だつ季節だ。
 路上で演奏する音楽家くずれが、この季節にしか歌われない歌を歌い始める。

 聖なる夜よ、聖なる夜よ――。

 そのたび、ダヴィッドの胸は締め付けられる。
 帰る家がなかった少年のころ、この歌を耳にするとひどく悔しくなった。――何が聖なる夜だ。今夜だって俺たちに食べ物なんかないし、冷え切った身体を温めてくれる暖炉もなければ、夢も未来もない。他の全ての夜と同じように。
 あれから年月は流れ、今のダヴィッドの手中には、あの頃欲したほとんど全ての物がある。
 大きな屋敷、暖炉のある部屋、豊かな食事に料理人、大きな蔵書を抱える書斎、人々からの賞賛。努力は実を結び、成功という名の熟れた果実を手に入れて、生き残ったのだ。
 それでも。

 聖なる夜よ、聖なる夜よ――。

 それでも、この歌は未だにダヴィッドの心を苦くした。
 物質的な満足とは裏腹に、心はどうしても満たされなくて、夜の街を駆ける。『助けたい』。なにかに憑かれたような渇望、満たされない渇きに突き動かされて。
 そうして漆黒の衣装に身を包み、夜を徘徊するこの哀れな男を、ルザーンの街は『黒の怪盗』 と呼んだ。

 

 聖誕祭5日前――。

 曇り空で迎えた昼下がり、サイデン邸でマノンの歓声が響いた。
「ダヴィッド、ダヴィッド、見て!」
 屋敷一階の広間に、大きな木箱が出されていた。
 ふたが開けられると、中から煌(きら)びやかな聖誕祭の飾りが出てくる。
 玄関に掲げるリースや、天使の形をした白い陶器の人形などだ。特にオリジナリティのあるものではないが、屋敷の規模に合わせて選んだものなので、豪華ではあった。
 しかし、マノンはすっかり魅せられているようだった。
 花から花へと忙しく移る蝶のように、次々と出される飾り物に飛びついては、歓喜の声を上げている。なんとなくリーの髪の件で気付いていたが、マノンは光ものに弱いらしい。キラキラと輝く星型の飾りなど、もう夢中だ。

「これ、みんなダヴィッドのものなの?」
 マノンは頬を紅潮させながら、背後のダヴィッドを振り返って聞いた。
「ああ、ただ、毎年使用人たちに飾りをさせるだけだから、自分でじっくり見たことはなかったが」
 ダヴィッドはしごく正直に答えた。

 新しくダヴィッドが買い揃えた服の一つを着て、女中の手で結われたみつあみを左右に垂らしたマノンにはもう、数週間前に裏路地で凍え死にかけていた孤児の面影はあまりない。
 明るく人懐こい、将来の見事な開花を約束された可憐な少女がいるだけだ。
 それが、ダヴィッドの屋敷を気ままに歩き回って、生活している――。
 いつのまにか、もう一日、もう一日と、束の間の滞在は引き伸ばされていた。

 使用人たちが聖誕祭の飾りつけをする光景に夢中になっているマノンを広間に残し、ダヴィッドは足早に書斎へ向かった。
 いくつか、祝日が始まる前に締結しておきたい取引があって、その書類を片付けたかったのだ。
 書斎兼仕事場としている部屋に入ると、机の上の書類に立ったまま目を通して、必要な数字や名前を頭に叩き込んでいく。そのうちのいく枚かには署名をした。
 今、ダヴィッドは新しく水運業へ乗り出すかどうか検討しているところで、リシャード造船社という小規模だが優秀な会社と取引の打診をしている真っ最中だ。早ければ年明け頃から、ダヴィッドが所有することになる客船が着工される。そのための仕事が山ほどあった。
 文字通り山積みになった書類や手紙を一つ一つ調べていく――。するとその時、ふいに、中から一通の手紙が出てきた。
(ああ……そうだ……)
 ダヴィッドは手紙を手に取り、それを慎重に眺めた。手紙は上質な白の紙で丁寧に畳まれ、真紅の封蝋で仰々しくシールされている。
 いや、されていた。
 今朝、ダヴィッドはこの手紙の封を切ったのだ。
 内容はもう知っている。
 例の、子供のいない中年夫婦の中の一組で、ぜひマノンを引き取りたいという……申し出の内容だった。それも、できれば祝日が始まる前に。そして、聖誕祭と新年をマノンと一緒に過ごしたいというのが、彼らの希望だった。
 ダヴィッドは黙って手紙を眺め続けた。
 どうやってマノンに伝えるべきか、まだ考えていない。

 当初の予定通り、マノンはすっかり回復し、ダヴィッドは彼女のために恵まれた養子縁組を整えてやった。
 もうすぐ聖誕祭をふくめた祝いの時期が始まる。
 彼女は新しい家で温かい新年を迎え、ダヴィッドは今までどおりの生活へ戻る。――完璧じゃないか。

 他に、選択肢があるのだろうか。
 このまま……今日まで引き伸ばしてきたように、明日も、明後日も、年が明けた後も、このままマノンと暮らし続ければいいのだろうか。
 そして……。
 そして、どうする?
 何年も一緒に過ごしたあと、時期が来ればマノンは結婚相手を見つけて、ダヴィッドの元を飛び立っていく。ダヴィッドは、世間の父親が皆そうするように、彼女に持参金でもつけてやるのかもしれない。いや、マノンなら無一文でも構わないという男がいくらでも出てくるだろう。
 それは、今よりもさらに始末が悪い未来だった。
 今、マノンを手放す方がずっと楽だ。何年も彼女をそばに置いた後より。
 そして何よりも、『夜』 の問題がある。
 マノンを拾ったあの夜から、ダヴィッドは一度も黒の怪盗として外へ出ていなかった――しかし、もう限界だと感じ始めていた。
 今朝も新聞で不正を働く会社の記事を読んだ。表向きはその会社の成功を賞賛する記事だったが、経験と知識を使って行間を読めば、不正に労働者を扱使った結果だとすぐに分かる。
 ダヴィッドは自分の性分を呪いたいような気分にもなったが、それでも、それを変えることは難しかった。

(マノンは養子へやる……もう決めたことだ)

 しかしなぜ、こうも苦い想いに捕らわれるのだろう?
 ダヴィッドはこれまでに何十、もしかしたら何百もの子供に手を差し伸べてきたつもりだった。黒の怪盗としてだったり、孤児院への寄付など間接的な方法だったりしたが、貧しい子供たちは常にダヴィッドの慈悲の筆頭にあった。
 なぜ、マノンだけが特別に思える……。

 ダヴィッドは手紙を机の上にそっと戻した。
 そうだ。
 もし、この感情が愛であるなら、今すぐマノンを遠ざけなくてはならない。

 

 聖誕祭のために飾りつけられた屋敷は、いつもより華やかになっていて、ダヴィッドをさらに落ち着かない気分にさせた。
 正直なところ、ダヴィッドは信仰深い男とは程遠く、できるなら聖誕祭など無視したいところだ。装飾も毎年、度々訪れる仕事の客をもてなすため、体面のためだけに飾っているにすぎない。

「聖誕祭の夜には、みんなで一緒にお食事して、そのあとは眠くなるまでゲームをしたりお喋りしたりするでしょう? リー先生も来られる?」
 夕食の席で、マノンが無邪気にダヴィッドに聞いた。
 よく煮込まれた鹿肉と野菜のソテーがだされていて、マノンは行儀よくフォークとナイフを使って食べている。
 マノンは小食なのか、量はあまり食べないのだが、好き嫌いなく大抵のものは残さない。
 料理人たちももうそれを知っていて、マノンのために小さく盛り付けられた皿が彼女の前に給仕される。こんな風に、マノンはダヴィッドの人生に溶け込みはじめていた。これは多分、良くない兆候なのだ。
 おまけに聖誕祭は――家族が集まる祭りだ。
「マノン」
 ダヴィッドはカトラリーを皿の上に休め、白いナプキンで口元を拭くと、感情を抑えた声で言った。

「そのことで話がある。夕食が終わったら、すぐ寝室へ上がりなさい」

 すると、無邪気に輝いていたマノンの顔が、急に曇りだした。
 何かを言いた気に小さな口を開きかけたが、結局それは言葉にならず、しばらくの沈黙のあとに「はい」 という蚊の泣くような答えが聞こえただけだった。
 下を向いて、睫毛を伏せて、手の動きを鈍らすマノン。
 ダヴィッドは早くも後悔を味わっていた。
 今すぐマノンを抱きしめて、ああそうだ、聖誕祭にはリーも呼んで一緒に楽しく過ごそうと言ってやりたい気分になった。――しかし。
(これでいいんだ。これで、いいはずなんだ)
 一度決心したことは揺るがない。揺るがせない。今までずっとそうして生きてきた。
 マノンが黙ってしまったことで、すっかり静かになった食卓で夕食を終えると、ダヴィッドは無言で席を立って食堂を出た。

 またしばらく書斎に篭ったあと、ダヴィッドはマノンが使っている寝室の扉を叩いた。
「マノン、俺だ。開けるぞ」
 返事が聞こえなかったので、そのままドアノブを回した。
 穏かにくすぶっている暖炉の火と、燭台のろうそくの明かりで照らされたベッドの上に、マノンは小さく膝を抱いて座っていた。
 ダヴィッドが部屋に入って来ると顔を上げて、うっすらと赤く充血した瞳を覗かせる。
「私、もう、ダヴィッドのおうちにいちゃだめなの……」
 それは質問ではなく、確認のような、もしくは独り言のような響きだった。
 ああ、子供というのはどこまで鋭いのか――。
 特に、マノンのような境遇の子は、『この』 話題に嫌というほど鋭くなるものだ。ダヴィッドはそれを身をもって知っている。
 ダヴィッドは短い溜息を一つ吐くと、ベッドサイドまで近付いていき、マノンを見下ろして静かに言った。

「彼らの名前はポーリン夫妻だ。二人ともとても穏かで優しい人達で、ここから少し離れた郊外で大きな牧場を経営してる。動物は好きだろう、マノン。馬が沢山いるよ」

 ダヴィッドの台詞に、マノンは瞳を潤ませながら首を横に振った。
「私がすきなのは、ダヴィッドよ。馬なんていらない」
「そう思うのは今だけだ。豊かな牧場主の娘になって、年相応の楽しみを見つけて……しばらくすれば俺のことなど、名前も思い出せなくなる」
「そんなことない……」
「いや、必ずそうなる。そうならなくちゃいけないんだ」
「どうして? どうしてそうならなくちゃいけないの? 私がじゃま? もうおうちにいて欲しくないの?」

 咥内に唾が溢れてくるのを感じて、ダヴィッドはそれをごくりと飲み干した。
 ――ここで、マノンを慰めるのは楽だった。
 しかしそれは、お互いの為にならないのだと、ダヴィッドは知っている。嘘でもいい、ここで、彼女を突き放せなければ二度目の機会はない。

「そうだ」
 と、ダヴィッドは言った。
「凍えていたところを慈悲で助けてやっただけなんだよ。それを調子に乗って、本を読めだの聖誕祭だの騒がれても、迷惑なだけだ」
 心の中では、もっと優しい慰めの言葉を捜していた。しかし、それがなんの助けになる? マノンは、それこそ本当に身体が凍ってしまったかのように、背筋を強張らせてダヴィッドを見つめていた。
 大きな瞳がさらに大きく見開かれて、震えている。
「いや……」
 マノンは絞り出すように言った。「いや……ダヴィッド」
「俺には迷惑なだけだ。それにひきかえ、ポーリン夫妻は子供を欲しがってる。競売の連中のような汚い理由ではなくて、きちんとした人たちだ」
「私、私、ダヴィッドのお手伝いをするわ。女中さんのお手伝いをする。だからここにいさせて」
 マノンはダヴィッドへ手を伸ばした。細くて白い手が、ダヴィッドの指に触れる。
 ダヴィッドはそれを振り払って言った。
「お前では、食事分の働きさえできないよ」
 しかし、マノンは諦めずにもう一度手を伸ばしてきた。ダヴィッドは再びそれを振り払う。それでも「ダヴィッド」 と呼びながらもう一度手を伸ばしてくるマノンに、ダヴィッドは大人気なく苛立ちはじめた。

 ――やめてくれ、マノン。
 つらいのは自分だけのような顔をしないでくれ。俺だって好きでこんなことをしているんじゃない。好きでこんな運命の下に生きているわけじゃない。

 愛も結婚も遠ざけて生きてきていた。そうする必要があったからだ。
 そうしなければ生き抜けなかった。
 それを、
 いまさら、
 こんな風に手を差しのべないでくれ――。

「いい加減にしろ! 迷惑だと言っているのが分からないのか!」

 壁を震わせるようなダヴィッドの怒声に、マノンはぴたりと動きを止めて硬直した。
 ダヴィッドは息を止めた。ひどい頭痛がした。吐き気さえした。握り締めた拳が、震えている。そして、マノンの瞳を見ることが出来なかった――。
 結局、ダヴィッドはそれ以上何も言わず、マノンに背を向けると大股で寝室を後にした。
 逃げ込むように仮の寝室にしている客間に入ると、乱暴に扉を閉め、力任せに上着を脱ぎ去り、そのままベッドに仰向けに倒れた。

(これで、終わりだ――)
 ダヴィッドはこめかみが痛むのを感じた。
 これでマノンはもう、どちらにしてもダヴィッドを振り返らないだろう。天井を仰ぎ見れば、ほんの少しの安堵と引き換えに、押し潰されてしまいそうなほど大きな後悔が襲ってくる。

 聖なる夜よ、聖なる夜よ――。

 あの忌々しい歌が脳裏にこだましてくる。
 目を閉じて片手で顔を覆うと、目じりの辺りが濡れているのが分かった。――なんてことだ。
 ダヴィッドは苦し紛れに、マノンに言ったのと同じことを自分自身に繰り返した。今だけだ。元の生活に戻って、しばらくすれば、もう彼女のことなど名前さえ思い出さなくなる、と。

 そんなのは嘘だと、分かってはいたが。

 

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