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 聖なる夜よ――星のきらめくこの夜空に誓って。
 新しい愛が生まれる奇跡に、あなたの前に膝を折り、祈ろう。

 

太陽との終わらない恋の歌 O Holy Night 10

 

 ダヴィッドが扉を開くと、ベッド上にマノンの姿は見えなかった――。
 焦りを感じて大股でベッドに近寄ると、ダヴィッドはようやく、シーツの山が不自然に盛り上がっているのに気が付いた。くわえて、そのシーツの端から細い金髪が一束、二束、のぞいている。
 とりあえず胸を撫で下ろして、ダヴィッドは深く息を吐いた。
 寝室には暖炉があって、今も弱火ではあるがパチパチと燃え続けている。
 時刻はもう、夕方というよりも夜の方に近くなりはじめていた。
 子供にはそろそろ夕食が必要な時間だ。
 ――恵まれた家庭の子なら。

「マノン」
 と呟いて、ダヴィッドは片手でシーツの小山をなでた。
 上半身を屈めて顔を近づけると、確かに、鼻をすすりながら泣いている声が、シーツの谷間から漏れてくる。ぐず、ぐずという断続的な音に混じって、小さい悲鳴のような泣き声も聞こえた。
 ダヴィッドは頭を振りながら言った。
「なにも泣くことはないだろう……誰も、お前を傷つけないよ。熱もじきに下がる」
 すると、シーツの山がぴくりと震えた。
 すぐに顔を出すだろうと思ったが、しかし、マノンはしばらくシーツの下で動かなかった。泣き声は落ち着いていったが、鼻をすする音だけは続いている。
 意外と、頑固なのだろうか。
 ダヴィッドはもう一度シーツの上から彼女をなでて、今度はもう少し顔を近づけると、低い声でゆっくりと言った。

「出てくるんだ、マノン」

 効果は上々だったらしい。
 マノンは、静かに、しかしおずおずと身体をよじって、シーツから頭を出した。
 クシャクシャになった髪と、涙に濡れた頬――大人の女なら恥じ入ってしまいそうな姿だったが、マノンはまったく羞恥を感じている風ではなく、蜂蜜色の瞳を小刻みに瞬きながらダヴィッドを見上げている。
「マノ……ン……って」
 まだ小さくしゃくり上げながら、マノンは喋りはじめた。
 しかし続きが上手く言葉にならない。
 とりあえず、「マノン」 という名前について何か言いたいらしいのは分かった。それに、今までずっとそう呼んできたが、本人に確認したわけではないのだ。
 ダヴィッドは先を促すように続けた。
「それが君の名前だろう? マノンだ――マノン・オルフェーヴル」
 マノンはシーツから出された頭を縦に振った。
「どうして……?」
「どうして知っているのか、か? 君のドレスからロケットが出てきた。そこに名前が刻まれていたから、それで判断したんだ」
 そう言って、ダヴィッドはサイドテーブルに手を伸ばし、一番上の引出しを開けた。
 中にしまわれていたロケットを取り出し、宙にかざす。鎖がしゃらりと下に垂れて、ロケットの部分がマノンの目と鼻の先にぶら下がった。
「君のものだろう」
 どういう訳か、これが盗品であるという疑いはほとんどなかった。
 楕円形の、上品で小柄なロケットは、子供が目をつけるには繊細すぎたし、不思議なほどしっくりとマノンの雰囲気に合っていて……彼女が、このロケットを手にして生まれてきたのだといわれれば、納得してしまいそうなほどだったから。
 マノンはベッドの上で上半身を起こして、ロケットに手を伸ばした。
 まだ微熱でふらふらしたマノンの身体が、あまりにも細くて、おまけに不安定に揺れるので、ダヴィッドは慌てて彼女の背に片手を回した。
 ロケットを手にしたマノンは、それをきゅっと両手で握り、感慨深そうに胸元へ押し当てる。
 そして、
「ありがとう……おじさん」
 と、ダヴィッドを見上げながら言った。
 安心しきったような笑顔まで見せて、つい先刻まで泣いていたのが嘘のようだ。
 ダヴィッドはどうも、このロケット一つで、少女の信頼を勝ち取ることに成功したらしい。それは悪い気分ではなかった。まったくもって、悪くない気分だった。
「君の名前がマノンだと分かったのなら――」
 ダヴィッドは言った。
「俺の名前も覚えてもらえると助かる。まだおじさんと呼ばれる年じゃないつもりなんでね」
「そうなの?」
「そうだ」
「なんていうの?」
「ダヴィッド」
 ダヴィッドの答えに、マノンは興味深そうに瞳を揺らした。
「ダヴィッド……」
 マノンは繰り返して言った。「きれいな名前」
「よくある名前だよ」
「いくつあっても、きれいなものは、きれいよ……。それに、ダヴィッドのための『ダヴィッド』 は、きっと特別な『ダヴィッド』 よ」
「ふうん……?」
 少女らしいといえば、少女らしい、意味の通るような通らないような曖昧な台詞に、ダヴィッドは適当にうなづいた。
 しかし、やはり気分は悪くない。
 マノンはいつの間にかダヴィッドに対する警戒をすっかり解いていて、ダヴィッドがマノンを買った男だという誤解は捨て去っているらしかった。
 彼女の屈託のない喋り方は、それなりの場所できちんと育てられていたのを感じさせる。
 ――帰るべきところのある子なのだろう。
 ダヴィッドはなんとなく、マノンの背を支えているのとは逆の方の手で、彼女の額に触れた。やはり熱の名残が感じられて、眉をしかめる。マノンはロケットに夢中になっていて、そんなダヴィッドの心配顔には気付いていないようだった。
「これ……お父さんが作ったの」
 マノンは、慣れた手つきでロケットを開きながら、言った。
「工房で、作ってくれたところも見たの。名前も……ほ、ほってくれたの……よめないけど」
 そう言いながら、ロケットの中に彫られた名前の部分を指でなぞる。
 ダヴィッドの胸に、妙な疼きが走った。
 ――彼女には帰る場所がある。そうだ、もうすぐ、俺の手からすり抜けて何処かへ行く。

 ほんの数分前まで、ダヴィッドの方から彼女を帰す決心を固めていたというのに、その未来予想図は想像以上に耐えがたいものだった。

 ダヴィッドはしばらく、複雑な思いでロケットをいじるマノンを見つめていた。
 ずっと寝込んでいたせいで、まだ汚れが残っているし、汗もかいている。
 今夜は風呂に入れてやるべきだろう。
 しかし、孤児を競売に掛けようとしていた連中が「上玉」 と評しただけある……マノンには、どれだけ汚れていても、将来の大きな開花を予想させる美しさの片鱗があった。
「マノン、お父さんはどこにいるんだい?」
 ダヴィッドが聞くと、マノンはぴたりと手を止め、じっとロケット見つめたまま黙っていた。
 しばらくして、わずかに震えた声で答える。
「……わ……分からないの」
「正確に場所を言う必要はないよ。ただ、家にいるとか、街にいるはずだとか教えてくれればいいんだ」
「ううん……分からないの……本当に……」
 マノンは首を横に振った。
 そして、途切れ途切れの弱々しい口調で、続けた。「ある日、怖いひとたちが家にきて……お父さんを連れていっちゃったの……お父さんの、『腕がいる』 んだっていって。それで一人にぼっちになって……ずっと泣いてたら、近所のおばさんが、孤児院っていうところに連れていってくれたの……そこに」
 ここで、マノンは一息置いてロケットから顔を上げた。
 大きな瞳がダヴィッドを見上げる――。
 ダヴィッドは、言葉を挟みたいのを我慢して、辛抱強く続きを待った。
「そこに……しばらくいたの。寂しかったけど、院長さんはやさしいひとだった。ご飯は少なかったけど、でも、たくさん本をよんでくれた。そこで……ある日……お使いにいくことになったの。もう一人の男の子といっしょに。でも、門を出たところで、急に大きな馬にのったおじさんが来て――」

 つたないマノンの説明を要約すると、こうだった。
 その男は、マノンの顔を見ると、ニタリと不気味な微笑を浮かべて、無理に彼女の腕を取った。
 ――こりゃあ金になるぜ!
 そう叫ぶと、男はマノンを乱暴に馬にのせて、そのまま走り出した。
 一緒にいた少年が声を上げて馬のあとを追おうとした……。マノンの悲鳴に気付いた院長が門から飛び出し、さらに悲鳴を上げた……。

「そうしたら……あの、変なひとたちの屋敷に連れていかれたの……。いやなお化粧をさせられて、それから、ドレスを着ろって……ほかにも、たくさん……。怖くて……すごく、怖くて……にげたの」

 そこまで語ると、マノンは口を閉ざした。
 そしてダヴィッドを見つめたまま、なにか言って欲しいとでも言いた気に、唇をきゅっと結んでいる。
 ダヴィッドもまた彼女を見下ろしながら、雷に打たれたような激しい衝撃を感じていた――なんだろう、この感情は。何千年も探してきた何かを、やっと発見したような気分だ……。

 太陽が月を。
 月が、太陽を見つけた。

 二人が静かになると、暖炉に燃える火の粉が弾ける音が、いやに大きく寝室に響いた。
 薄暗い明かりの中でも、金色の髪が優雅に輝いてみえる。
 ……嗚呼。

 気がつくと、ダヴィッドはマノンを腕の中に抱いていた。

 

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