/Site Top/Novel Index/

 

 あれは黄色くて大きな満月が浮かぶ夜だった。
 そして、ダヴィッドの人生を「それ以前」 と「それ以後」 に分けた、神聖なる夜だった。

 

太陽との終わらない恋の歌 O Holy Night 1

 

 ダヴィッド・サイデンは上等の黒の外套を海風になびかせながら、ルザーンの港に泊まる船のデッキに佇んでいた。
 くっきりと男らしい線をひく眉の下では、漆黒の瞳が静かに海洋を眺めている。
 大海原から運ばれてくる塩っぽい風に髪が揺れ、ダヴィッドは自然と目を細めた。
 時刻は夕方で、太陽は下の端っこを地平線に沈め始めていて、気のはやい星々がすでに橙色の空に淡く現れはじめている。
 ダヴィッドはそんな夕暮れの空に目を移した。
 すると、潮風に乗って、真新しい塗装の匂いがツンと鼻をつく。
 三日後に処女航海を控えたこの新しい旅行客船は、サイズこそ中規模だったが、最新鋭のエンジンを備えており、速さと安定では他の客船の群を抜くのだろうと誰もが期待している。
 所有者は他の誰でもない、ダヴィッド・サイデンその人だった。

 今夜は満月らしい……。
 うっすらと浮かびはじめた白い月の影を見て、ダヴィッドはそんな事実に気がついた。今夜は満月だ。マノンと出逢った夜と同じ。
「もう三年か」
 ダヴィッドは無意識に呟いた。
 呟いてみて、我ながら、と感心してしまう。湧いてくるのは、我ながら馬鹿なことをしているという自嘲と、我ながらたいした自制力を持っているものだという感嘆の入り混じった、可笑しな感情だった。
 わずかに口の端を上げながら、キシリと乾いた音を立てる木板のデッキをゆっくりと進む。ペンキが乾いているのを確認してから、枠になっている鉄の柵を握り締めた。
 デッキから人や物が海に落ちないように備えられたありきたりの棒枠だが、背の高いダヴィッドがそれを掴んで海を臨むと、少し背を曲げて屈むような格好になる。
 明日は、もっと早い時間に、マノンをここへ連れて来ようか。
 海を見せてやれる。
 背後を何人かの作業人があわただしく行き交ったが、ダヴィッドはかまわず海の先の地平線を眺め続けた。

 ――あの遠い地平線の彼方に、いつか辿り着く日が来る。
 その時振り返って見てみれば、今自分が立っているこの港こそが、遠い地平線の彼方となるのだ。ダヴィッドは波乱に溢れた自らの半生の中で、そんなことを学んでいた。
 だから、
 だから、

 いつもそう自分に言い聞かせて、マノンとの関係を続けている。

 いつか、
 いつか。

 あの満月の夜に出逢った、救いの月。
 マノン――
 マノン・オルフェーヴル。

 

inserted by FC2 system