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 花のつぼみを無理に開いてはいけない。
 太陽に照らし、水を与え慈しみ、いつか大輪の花を咲かせる日を待つのだ……

 

太陽との終わらない恋の歌 月の盗人 10.

 

 そして半月後――

 まだまだ春らしい穏やかな陽気のもと、ドロレス小児病院の門の前に立つ二人の姿があった。
 鮮やかな黒に塗られた背の高い馬車から、まず軽やかに降り立ったのは、長身の若き実業家だ。続いて水色のドレスをまとった華奢な少女が、差し出された彼の手を支えに、地面に降りる。
 ふわりと風に揺れてはためいた少女のドレスを、彼は、丁寧に、しかしどこか忌々しげに撫で付けて元に戻していた。少女は彼の意図を理解しているのか、いないのか、無邪気に礼などを口にしているようだ。

 そんな二人の様子を窓越しに見つめる傍観者は、ニヤリと可笑しそうに口の端を上げて、腕を組む。
 ――まるで妖精と守護者のようではないか。
 もしくは、幼き王女とその護衛騎士か。
 もしくは……ただ互いを恋する男と女なのか。女の方がまだ幼すぎるだけで。
「楽しそうだな、ダヴィッド」
 そう独り言を呟いたあと、ひらりと白衣をひるがえした銀髪の男は、いたずら好きの猫のように軽快な足取りで、病院の入り口へ向かった。

「リー先生!」
 白衣姿の男を見つけたマノンは、ダヴィッドの手を離して建物の入り口へ向かって駆け出した。マノンは両手を広げて白衣の男に抱きつこうとするが、すぐに男に両脇をつかまえられて、高々と抱き上げられる。
 高い高いをされて、マノンは嬉しそうに笑い声を上げた。
「どうしてリー先生がここにいるの? 新しい院長はリー先生なの?」
「そうだよ、僕の天使」
 男は、そう言って目を細める。
「どうやら僕の友人は君に何も言わなかったようだね。おまけに久しぶりだ。元気にしていたかい?」
「ええ、おかげさまで」
「おかげさま? これはずいぶんと大人びたことを言うようになったものだ! 我が友人は君への投資は惜しまないらしい。素晴らしい実業家だな!」
 賞賛を装った台詞の裏にある真意に、すぐに気付けるほど、マノンは大人ではない。
「家庭教師がお屋敷に来るの」
「へえ」
「もう、文字も読めるし、礼儀作法も習ってるんだから」
「それじゃあ立派なレディーじゃないか。社交界に出る日も遠くはなさそうだ」
 ふふ、と微笑を漏らすと、白衣の男はマノンをすとんと地面に戻した。
 すると、男にしては少し長めに切りそろえられた彼の銀色の髪がさらりと揺れて、春の太陽を浴びながら眩しく輝くのだ。いくつかの賛辞を浴びたマノンは、機嫌よくその銀髪を見つめた。
 彼の髪を見ていると、猫が光りものに惹かれる気持ちがよく分かる。
 キラキラと揺れ動いて楽しげで、どうしても触れてみたくなる……リー・レジェ医師の最大のトレードマークにして、彼の浮世離れした性格を最も体現しているのが、この髪だった。どんなに目の悪い人間でも、どれだけひねくれた美的感覚を持つ人間でも、彼の銀髪を美しいと思わない者はいないだろう。真っ直ぐで、細いのに、それでいてしなやかだ。
 マノンのような少女でなくても、彼をおとぎ話の聖人のようだと思うだろう――

 しかし、その時。
 ざっ、と挑戦的に土を踏む音がして、ダヴィッドが銀髪の医師の前に立った。
「……この悪魔が」
 そう言って、マノンを外套の影に隠す。
 悪魔と呼ばれた銀髪の医師は、しかし、天使のような微笑を浮かべながら嬉しそうに応えた。
「何とでも言うといいよ。それより、あんな急な要請を受け入れてあげた僕に、まず言うべきなのは礼の言葉じゃないのかい? 親友」
「申し出、だ。要請じゃない。大体、礼を言われるのは俺の方だ。昼間からふらふらとルザーンの酒場をうろついてたお前に、職場を提供したんだからな」
「ちょっと楽しんでただけだよ……マノンの前で変なことを言わないでくれないか」
 そう言って、ダヴィッドが背後に隠したマノンの方を覗き見る仕草をする。
 当のマノンは、好奇心に溢れた瞳でリーのさらさらの銀髪を追っていて、不穏な男達の会話はほとんど耳に入っていないようだった。
 リーは肩をすくめる。
「……まだまだ子供だけどね。そんなのあっという間さ。今に、ルザーン中の男という男を虜にするだろうよ」
「煩(うるさ)い」
「ああ、分かってはいる訳だ」
「煩い、と言っている」
「へえ」
 銀髪の医師は心底嬉しそうな顔をしながら、くつくつと漏れる笑いを口元に当てた片手で隠しつつ、ダヴィッドとマノンを建物の中へ招き入れた。
「ようこそ、新生ドロレス小児病院へ」

 

 新しいリネンと石鹸の香りが、ほんのり消毒液の匂いとあいまって溢れていた。
 ゴダールが逮捕された後のドロレス小児病院は、新しくリー・レジェという小児科医を向かえ、確かにその雰囲気をがらりと変えているようだった。――それも、良い方へ。
 静かなモノトーンばかりだった内装に、色彩豊かな子供の絵がいくつも飾られている。
「銀のブローチを売った金で、絵の具と紙を買いつけたんだ。中々上手い子もいるからね、いわば将来への投資だな。ダヴィッドだけの専売特許ではないんだよ」
 子供達の表情も明るく、騒いで怒られることにびくびくしている子はもういない。
 全体が明るく華やかになったようだ。
 使い古されていたシーツも、大部分が買い換えられ、診察料が下げられたからなのか、患者の数も増えているようだった。
「でも、一時的なものさ。僕が院長になったからには、どの子も治ってすぐに出ていくことになるよ」
 冗談を混ぜながら、リーは一通りの説明をする。
 副院長は残念ながら村への往診へ出かけている最中で留守だったが、ダヴィッドへの感謝の手紙をリーへ託していた。

「さて、」
 と、前置きして、リーは自らが親友と呼ぶ男の横顔に向かって、顎をしゃくった。
「色々と話して欲しいな。街にいれば君の噂はいろいろと聞くよ。どうも着実に成り上がってるみたいじゃないか」
 はたしてダヴィッドは、白い部屋の大きな窓から望む景色を凝視している。
 ――正確には、彼が凝視していたのは景色ではなく、その中で戯れる少年と少女の姿だったが。
 ダヴィッドは何も答えないにも関わらず、リーは楽しげに続けた。
「造船にも手を出してるんだって? ルザーン中の男たちは君と事業をしたがってるし、女たちは皆、君と結婚したがっているという話だ」
「どうせ、酒場の酔っ払いどもの話だろう」
「そうかもね。でも、酔っ払いどもにさえ語られるというのも、一つの栄光だと思うけどな」
 再会したサイモン少年とマノンは、無邪気に敷地内の木陰で遊んでいる。
 ダヴィッドとリーは、窓のある病室の一角で、そんな彼らを眺めていた……。しかし、ダヴィッドの注意は明らかに外を向いていて、リーの言葉はどうも耳からすり抜けているようだ。
 リーはダヴィッドの肩を叩いた。
 するとやっと、首だけでリーの方を向く。
「サイモンなら大丈夫だよ。彼の病気は、持病ではなく一過性のものなんだ。ちょっと珍しい薬が必要だったから長引いてたけど、じきに良くなるだろう」
「……家族は?」
「両親は亡くなってるらしい。叔父夫婦がいて、ルザーンでパン屋を経営してるとか。金はちゃんと送ってくるけど、見舞いに来たことは一度もないね」
 ダヴィッドは眉をひそめた。リーは頷く。
「そんなものさ……彼はまだ幸運な方だ。君が一番よく分かってるだろう」
「ああ」
「気分がいい時は僕らの手伝いなんかもしてくれる、いい子だよ。ちょっと腕白すぎるが、頭の悪い子じゃないし、そのうちちゃんと自分で道を見つけるさ」
「分かってる。それを心配してるんじゃない」
「マノンを盗られるんじゃないかって?」
 直球を投げられ、ダヴィッドは少しむっとした顔で視線を窓の外へ戻した。
 サイモン少年は、マノンを喜ばせたり笑わせたりしたいようで、あれやこれやの手や話題を使って一生懸命に道化を演じているようだった。
 時々、マノンはそれを見てクスクス笑う。

 ――嗚呼。
 そうだ、確かに。
 そう遠くない未来、マノンは男という男を魅了するようになるだろう。
 柔らかいくすんだ金色の髪、それに似た色の大きな瞳とそれを飾る長い睫毛。小さいが綺麗に伸びた鼻筋と、ぽってりとした形のいい唇。白い肌。桃色の頬。素直で明るい性格。
 彼女の全ては「その」 将来を約束していた。
 だからこそダヴィッドの杞憂は晴れない――マノンというダイヤモンドの原石を磨いているのは自分だ。しかし、自分が磨き上げたからといって、最終的に彼女を手に入れるのが自分だという保障は、どこにもないのだから……。
 急に、執事バトラーに言われた台詞が、沸々と現実味を帯びて湧いてくる。
 どこか砂漠の国にマノンを連れ隠して、そのままそこで暮らそうか、と。

 しかし、
「無理だよ」
 と、リーが口を挟んだ。
 まるでダヴィッドの心を読んだように。
「マノンを連れてどこかに隠居してしまいたいって顔だ。そうはいかないよ。君は生粋のルザーンっ子で、勝負師で、活動家だ。街を離れることなんて出来やしないさ」

 リー・レジェはダヴィッドの夜の顔を知らない。
 しかし、ダヴィッドの過去はよく知っている。
 底辺の底辺から這い上がったダヴィッドに比べ、リーは上から転げ落ちた人間だった。
 しかも、自ら。
 何不自由ないが、窮屈な上流階級を嫌い……家出を繰り返した若き日のリー・レジェの本来の出自は、貴族だ。
 二人が出会ったのは、家のない子供たちが最終的に集まる巣窟のようなところで、どういう訳かそれ以来、つかず離れずの不思議な腐れ縁を続けている――が、別々の道を進み、一時期はほぼ連絡の途絶えた二人の仲を再び繋いだのが、実は、他でもないマノンの存在なのだ。

「ねぇ、ダヴィッド。僕みたいに腕のいい小児科医がいなかったら、あの子は助からなかったからね」
 リーは続けた。
「あの頃、俺は気楽に、時々やってくる患者を診て宿代を稼ぐだけの生活を楽しんでいたんだ。そうしたらある日突然、夕方のカフェでブランデー入りの珈琲をやっている僕の所に、真っ青な顔をしたどでかい男が乱入してきて――正直に告白するとね、僕はあの時、君に殺されるんじゃないかと思ったよ。
 夜道で拾った女の子が死にそうだ。診てくれって。
 もう数年顔も見ていなかった友人に、急にそんなこと言われるなんて、まったく誰が想像するっていうんだい? まぁ、マノンは最初こそボロボロで捨て犬みたいだったけど、綺麗にしてやったら見違えるように可愛くなったし、僕にも懐いてくれたし、今となってはいい思い出だけど」
 思い出話をしたいのか――それとも、単に恩を売りたいだけなのか。両方か。
 リーはそこまで語ると、満足げに鼻を鳴らすのだった。

「分かってる」
 と、ダヴィッドは短く答えた。
「当時のことにはお前に感謝してる。他の医者じゃ、多分、駄目だった」
 すると、リーは感心したように軽快な口笛を鳴らす。――今でこそ好き勝手に生きているが、元が貴族として育ったこの男は、そんな仕草にも品がある。
「君も柔らかくなったものだ! ラ・メゾンでの君のあだ名は、"岩" だったのにな」
 ラ・メゾンは、二人が出会った巣窟のような場所の、呼び名だ。
 懐かしい響きにダヴィッドは口の端を上げた。

 そう――岩だって心を解く。蕾だって咲く。
 不平等だらけのこの世界の中で、時間と、時の流れだけが万人に平等だった。
 生きている限り。

「とにかく、上手くやっているようならいい。副院長にも宜しく伝えておいてくれ」
 首を左右に振りながら、ダヴィッドは言った。
「心配してくれてたのかい?」
「マノンがサイモンの見舞いに行きたいと言ったから、来た。それだけだ」
「嬉しくて涙が出るね」
 そんな風に軽口を叩き合っている時だ。
 患者の一人、背の低く手足の細い七歳前後の子供が病室の入り口にちょこんと現れて、おずおずと言い出した。
「リー先生……僕、もうすぐお薬の時間なんだけど、来てくれる?」
「ああ、もうそんな時間かい」
 リーは白衣のポケットにある懐中時計に手を伸ばし、時間を確認する。
「本当だ。すぐに行くよ。ベッドに戻りなさい、坊や」
 甘いリーの声に、今度はダヴィッドが短い口笛を吹く番だった。言われた通りに去っていく子供の横顔を見つつ、感心したような、からかうような笑みを口の端に漏らす。
「……ちゃんと医者なんだな」
「医者だよ。君が実業家なのと同じくらいにはね」
 リーは、少し照れたような声で答えた。
 お互い嫌な大人になったものだと、二人の男たちは声なく同意していた。

 リーが仕事に戻ったので、ダヴィッドはマノンたちのいる外へ出た。
 温かい太陽の光の下で、マノンとサイモンの他にも数人の子供たちが、日向ぼっこをしたり、地面に棒で何かを描いたりして遊んでいる。マノンはすぐにダヴィッドに気付き、嬉しそうにこちらに手を振ってきた。
 サイモンは逆に、しばしの別れの時が来たのを直感したようで、がっくりと肩を落としている。

 ――月の盗人。
 私の月をさらっていってしまう者。
 サイモンにとってのダヴィッドは、そんなものだろう。
 しかし、ダヴィッドにとってのサイモンもまた、将来的にそうなり得る存在なのだ。
 大人げが無いのは分かっていたし、ダヴィッドは、サイモン個人については好意的に思っているが……間にマノンがいるとなると、少し話が違ってくる。
 そもそもマノンをサイモンに近づけたのも、元はといえばダヴィッドのサイモンへの温情が発端なのだが。
 こう仲の良さそうなところを見せ付けられた後では、これもまた、少し話が違ってくるのだ。
「おいで、マノン」
 ダヴィッドは言った。
 するとマノンは素早く立ち上がり、ばねに弾かれたようにダヴィッドの元へ駆け寄ってくる。柔らかい金髪が風に揺れて、そのままダヴィッドが広げていた腕の中に入ってゆく、その様子を……サイモンはため息とともに見惚れていた。
「さぁ、リーに挨拶をして、帰ろうか」
「またここに来られる?」
「たまになら」
 そんなやりとりがあって、リーとサイモンに別れを言った二人は……早めの家路につくのだった。

 今回は馬車だ。
 いつかマノンが吐いてしまった日のような、鞍乗りではない。
 御者はその道の者で、さすがに、ガタゴトいう揺れも比較的穏やかなものだった。馬車の中でダヴィッドとマノンは向かい合って座り、ダヴィッドは主に、あれこれ喋るマノンの話を辛抱強く聞いている。
 ダヴィッドが妙に優しいのに安心したのか、マノンも上機嫌だ。
「ダヴィッド、さっきから、なんだか嬉しそう」
「そうかな」
「優しいし、顔色もいいわ」
「へえ」
「本当よ……なにか、いいことがあったの?」
 おまけに、普段はご褒美でしか貰えない砂糖漬け菓子を与えられて、はしゃいでいるマノンだ。ダヴィッドはそんな無邪気な笑顔を見つめながら、自らも目を細めて、彼女の頬についた砂糖の粒を指で拭う。
「もしかしたら、な」
 頬を伝うダヴィッドの指が気持ちよくて、マノンはきゅっと片目を閉じて、身をよじる。
 すると、ダヴィッドがふっと笑うのが聞こえた。

「俺は、本当に素晴らしいものを盗んできたのかもしれない……あの、夜」

 その言葉に、どんな意味があるのか――もちろん、マノンにはさっぱり分からない。
 ただ、それを言うダヴィッドの表情が本当に穏やかで幸せそうなので、やはりなにか素晴らしいことがあったのだろうと、なんとなく理解出来るくらいだ。
 疑問に首を傾げるマノンに、ダヴィッドは諭した。
「お前はまだ分からなくていいんだよ」
「そればっかり……」
 と、言ってうつむくと、マノンはうーんと考え込むように唸った。
 その間も、ダヴィッドはマノンを観察するように眺め続けていて、目を離さない。マノンはその視線には気付かず、しばらくうんうんと考え込んだ後、あっと声を上げる。
「分かった! 久しぶりにリー先生に会えたから、嬉しいんでしょう?」
 それを聞いたダヴィッドは、一瞬驚いたような顔をした後――短く声を上げて笑った。

「そうだな……そういうことに、しておこう」

 ――そう、最後に呟いて。

 今はそれでいい。
 そう、月が、本当に空高く上るまでは。

 

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