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太陽との終わらない恋の歌 月の盗人 9.

 

 ルザーン市警の夜間警ら隊が、ゴダールを連行しにドロレス病院に到着したころ、空はゆっくりと白みはじめていた。
 いぜん及び腰な副院長に代わり、市警とのやりとりを済ませたのはダヴィッドだ。
 逮捕の最中に目を覚ましたゴダールは、抵抗したが、いかんせん証拠が揃いすぎている。
 それでも諦めきれないのか、とても医師であるとは思えないような汚い悪態を吐き続けながら、夜警に両脇を抱えられて引きずられていくゴダールの姿は、ひどく醜悪だった。
 市警はいくつかの質問を副院長とサイモンにしたあと、わめき続けるゴダールを馬車に乗せて、ルザーンの街へ戻っていった……。
 警ら隊の姿が見えなくなったころ、太陽はすでに西の空にその片鱗をのぞかせていた。

 すべてが片付き静けさを取り戻したドロレス小児病院の病室の一角には、まだ寝たきりのサイモンと、その隣に寄り添うマノンの姿があった。
 ダヴィッドが病室に戻ると、まるでつがい鳥のようにくっついている少年少女が目に飛び込んできて――
 ダヴィッドはこめかみのあたりがぴくりと痙攣するのを感じた。
 そもそも、発作を起こしたサイモンが死の縁にあるように感じられたからこそ、わざわざマノンをここへ連れて来たというのに……今のサイモンはすでに大丈夫そうで、風邪を引いたあとの少し疲れた子供という風情で、くしゃくしゃに乱れた赤毛を枕に流したまま、ベッドの上から負けん気の強そうな瞳でダヴィッドを見返している。
 副院長の腕か、若さの賜物か。
 もちろん、彼が無事だったことは喜ばしいのだが。
「どうやら気分はいいようだな、サイモン」 ダヴィッドは言った。
「うん、発作さえ収まれば……後はいつも平気なんだ。もう少し寝てれば、普通に歩けるよ」
「それはよかった」
 とダヴィッドは答えた。
 そう、サイモン少年は無事一命を取りとめ、病院は横領された金を取り戻し、すべては一件落着である。
「では俺たちは失礼するよ。サイモン、君は大事にしているといい。盗られていた金はきちんと病院の資金に戻るようになったし、治療費も元の金額に戻るだろう」
「うん、来てくれてありがとう、おじさん」
「…………」
 最後の呼称は聞かなかったことにした。
「マノン、来なさい」
 ダヴィッドが呼ぶと、マノンは素早くサイモンのそばを離れ、ダヴィッドの斜め後ろにぴたりとくっ付く。
 サイモンは残念そうに眉を下げていた。
「おじさん、また……屋敷に行ってもいい?」
「構わないが、副院長がいいと太鼓判を押したらだ。前のように無断で忍び込むことは絶対にないように」
「分かったよ。だめなら、遊びに来てくれよな、マノン」
 マノンはさっとダヴィッドを見上げて、その顔色をうかがう。
 端正なダヴィッドの横顔はいつになく冷たく見えたが、かといって怒っている風ではなく、マノンはこくりとうなづいた。
「うん、また、いつかね。それまでにもっと元気になってね」
 そうしてドロレス病院を後にするダヴィッドとマノンを、サイモンはいつまでも窓際から見送っていた。

 

 帰りの道程は行きと違い、ゆったりとしたものだった。
 また一つの不正が、黒の怪盗の手により制裁されたのだ。これも氷山の一角に過ぎないのは分かっているが、それでも幾人かの人々を救ったことに変わりはない。
 もっと喜んでもいいはずなのに、ダヴィッドはきっちりと口を結んだまま前方を睨むように手綱を握っていて、気軽に話し掛けられるような雰囲気ではなく――二人は無言で馬に揺られていた。
 郊外から街へ続く道は、穏やかでとても牧歌的だ。
 緑に溢れ、ところどころで馬や牛の放し飼いされた農場が見えると思ったら、急に広々とした野原が目に飛び込んできたりする。
 両脇の木の上からは、小鳥が朝の歌をうたっているのが聞こえる。
 可愛らしい鳴き声で、心地良かったが……マノンが聞きたいのは、それよりもダヴィッドの声だった。
 馬の動きに揺られながら、マノンは時々ちらりとダヴィッドを振り返ってみる。
 ダヴィッドはまっすぐ前だけを見ていて、なぜか、わざとマノンを視界に入れないようにしているように感じられた。
 ――こういうのは嫌だ。
 せっかくそばに寄り添っているのに、遠くに感じられるなんて。
「……ダヴィッド?」
 おそるおそる、聞いてみる。「どうしたの? 何か、嫌なことがあったの?」
 すると、
「いいや、何も」
 という、いかにも素っ気無い、とりようによっては投げやりにも聞こえる、短い返事が返ってくる。
 ダヴィッドの視線は相変わらず前を据えたままだった。
「こっちを見て、ダヴィッド」
「マノン、俺は手綱を持ってる」
「ちょっとだけならよそ見しても平気よ」
「少し黙っててくれ。考え事をしてるんだ」
 今度の声は、ダヴィッドにしては早口で、苛立っているようにも聞こえた。マノンは諦めたようにしょんぼりと下を向いて、風に揺れる馬のたてがみを眺めながら、小さく呟いた。
「そう……」

 マノンの世界の中心は、ダヴィッドだった。
 誰がそう決めたわけでもない。気が付いたとき、それはすでに動かない事実としてマノンの心の底に根付いていたのだ。
 ダヴィッドは父親で、想い人で、兄で、家族で、保護者で、英雄で、王子様で、想像しうる全ての男としての役割を担っていた。
 ――彼に愛されているとき。彼に大事にされているとき。
 マノンは世界の全てから祝福されている。
 でも、
 彼を遠くに感じるとき。彼を冷たく感じるとき。
 世界は真っ暗で冷たかった。まるで太陽が消えてしまったように。

 しばらく馬に揺られていると、胸の奥がむかむかとしてきた。
 咥内にいやな感じの唾液が上がってきて、頭が支柱を失くしたようにぐらぐらと揺れる。吐き気がして、いつもは桃の実のように鮮やかなマノンの頬が、徐々に青ざめていく。
(気持ち……悪い……)
 そう思った瞬間、マノンは馬上で、ぐったりと前のめりに倒れそうになっていた。
 ぐらりと揺れた少女の肩にハッと気付いたダヴィッドは、すぐに彼女を抱きとめ、馬を止める。しかし時は遅しで――マノンはそのまま、自身のスカートとダヴィッドの外套の袖に、嘔吐してしまった。
「ご……ごめん……なさ、ダヴィッド」
 マノンは慌てた。
 それでなくとも余り機嫌の良くない今のダヴィッドに向かって、吐いてしまったのだ。怒られそうな気がして、マノンはとっさに謝っていた。
 しかしダヴィッドは怒ったりしない。
 素早く馬を降り、まだ小刻みに咳き込んでいるマノンを両手で優しく地上に降ろした。
「謝らなくていいんだ。俺が少し荒く走らせすぎた。馬はすぐに乗り手の感情を移す」
「そ……う」
「悪かった。すぐ近くに小川がある。そこで休もう、大丈夫か?」
「ん……」
 ダヴィッドはマノンの手を引こうとした。しかし、彼女の足元がふらついているのを見ると、苦笑いのようなものを口元に浮かべて、そして彼女をさっと横抱きにした。
「おいで。馬よりは揺れないだろう」
 そう言って、馬と馬車に踏み慣らされた道を外れ、マノンを抱いたまま颯爽と脇の草原へ別け入っていく。
 草原はダヴィッドの腰のあたりまでの高さがあって、マノンが立って歩いていたら草が肩まで届きそうなくらいだ。爽やかなハーブの香りがして、穏やかな風が頬を撫でる美しい場所だった。
 マノンは横抱きにされた格好のまま、太陽に照らされるダヴィッドの横顔を仰ぎ見た。
 骨董品の彫刻のように端正で、神秘的なほど男性らしい輪郭が、朝日の逆光を受けて浮き彫りになる。
 しかし――マノンが何よりも好きなのは、彼の漆黒の瞳だった。
 こんなまっさらな黒を、マノンは他に知らない。
 深くて優しい色だ。
 世界中の全ての知恵と、優しさと、強さを映す鏡がこの世に存在するとしたら、それはダヴィッドの瞳の中にあるのだと、マノンは思っている。
 つ……と、片手を伸ばして、マノンはダヴィッドの顎の線に触れた。
 冷たく細い指の感触に、ダヴィッドはなぜか短く鼻を鳴らして、少女を抱く手にさらに力を込める。

 小川はすぐに現れた。
 まったくダヴィッドは、どうしてこれほど地理に詳しいのだろう?
 彼が、北に何かがあると言って、それが無かったことは一度もないし、南でも西でも東でも、街中でも田舎でもそれは依然変わらなかった。
「休む前に、スカートを洗おう」
「ダヴィッドの裾も」
「ああ」
 今、気が付いたという感じで、ダヴィッドは手元を見て頷いた。
 目の前に広がる小川は、季節によっては枯れてしまうのではないかと思えるほどのささやかな流れで、石底が浅く水に透けて見える。
 ダヴィッドはまず汚れた袖先をさっと水にさらして洗って、その後、濡らしたハンカチを手に、川瀬から少し離れたところに座らせたマノンの元へ戻ってくる。
「すぐに落ちるよ」
 そう言ってダヴィッドは、器用にマノンのスカートの汚れを落としていった。
 ――普通、大富豪の男がこんなことを上手くこなせるものだろうか。多くの者を知る訳ではないが、多分、彼らの大部分は碌に服さえ一人で着れないはずだ。そういうのは召使いにやらせるものであって、金持ちが自らの手を煩わせるものではない。
 しかしダヴィッドは違う。
 大抵のことは何でも器用にこなした。
 彼はボタンを服に縫い付けることができるし、目にも留まらぬ速さで魚をさばくことができる。
 はたして、マノンのスカートを汚していた汚物はすぐに消えた。
 ダヴィッドは川瀬に戻ってもう一度ハンカチを絞ると、仕上げにもう一度跡を拭い取って、これで終わりだと短く言った。多少の染みは残っているが、傍目にはもう分からないだろう。
 マノンは礼を言った。
「ありがとうダヴィッド。……粗相をしてごめんなさい」
「言っただろう、悪かったのは俺だ。お前の気分が落ち着いたなら、後はもう気にしなくていい」
「だいぶ、楽よ。少し休めば、また馬に乗れると思うわ」
 微笑みながらマノンは答えた。
 すると、ダヴィッドも微笑み返す。
 しかしダヴィッドのそれは、わずかに皮肉っぽく、どこか疲れたような笑みだった。おまけに彼は、急に空を仰ぎ見たと思ったら、こんなことを口にする。
「……まったく、嫌な年だ。大人のような口の利き方をすると思えば、まだまだ子供でしかない」
 マノンはきょとんと瞬いた。
 分からないと言いたげに、ダヴィッドの顔をじっと見つめる。ダヴィッドは急に首を振った。
「お前は分からなくていい。分からない方が……いい」
「?」
「とにかく休もう。地面には岩があるから、ここに横になるんだ」
 ――と示された先は、ダヴィッドの胸だった。
 そこに身体を預けろ……という意味らしい。もちろんマノンに二言はない。いそいそと彼の胸元に納まると、その逞しく安定した感触に身をゆだねる。
 ダヴィッドは、そんなマノンを片手で抱きながら、ごろりと川瀬に寝そべった。
 柔らかいウェーブを描いたマノンのくすんだ金色の髪が、流れて、ダヴィッドの腕に絡む。
「ダヴィッド……」
 マノンが頭を上げてダヴィッドを見ると、彼は目を閉じていた。
「…………」
 マノンはしばらくの間、ダヴィッドの寝顔を見つめていたが……気が付くと小川のせせらぎに誘われるまま、彼と同じように目を閉じていた。
 トクン、トクン。
 重なり合った身体から、鼓動が伝わる。
 熱くて、速い鼓動が。

 

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