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 ダヴィッドのいない世界は、太陽のない空のようだった。
 旋律のない歌。翼のない鳥。鍵のない扉……起きる理由のない朝。
 あなたの腕の中にいるときだけ、私は家を見つける。遠く離れた夜も、私の心はいつもあなたの傍にあることを、どうか覚えていて。

 

太陽との終わらない恋の歌 月の盗人 7.

 

 静まり返っていた夜のサイデン邸に、ガタリと物音が響いたのを感じて、マノンはうっすらと瞼を開いた。
「んん……」
 うつむけで寝る癖のあるマノンは、目に入ったふかふかの白い枕をしばらく眺めてみたものの……しかし、また気だるげに顔を枕に押し戻す。
 まだ丑三つ時と思われる深夜だ。
 ダヴィッドが帰ってきたのかもしれないという淡い期待もわくにはわいたけれど、育ち盛りの少女の眠気は深く、振り払いようがない。マノンはベッドの上でもぞもぞと身をよじった後、再度、睡魔に誘われるまま目を閉じた。
 もしダヴィッドならこのまま二階へ上がってくる。
 マノンは目を閉じ、再び眠りに落ちるまでのあいだ、屋敷の気配にそっと耳を澄ませていた。
 そうしてしばらくすると、遠くからトントンと規則的な調子で階段を上る足音が聞こえてきた――やはりダヴィッドだ。マノンは期待半分、怖さ半分でシーツの中で身を縮めた。
 ダヴィッドはマノンの部屋に顔を出してくれるだろうか? くれないだろうか?
 夜の仕事を終えた後のダヴィッドは、時に闘牛を終えたばかりの闘牛士のように気まぐれで、うんと優しくなってマノンの寝顔を見にきてくれることもあれば、自室に直行して鍵を掛けて篭ってしまうこともある。
 白いシーツの狭間で、マノンは少し緊張していた。
 ダヴィッドが部屋に入ってきて、おやすみと言いながら優しく髪をなでてくれる甘い感触を想像して、おなかの辺りがキュッと締まるのを感じた。
 しかし同時に、このまま素通りされて朝まで会えない可能性も拭いきれず、少女は少女なりに悶々としていたのだ。たとえうたたかの眠りの中でも。
「ん……」
 細い手足をシーツの上で泳ぐように這わせながら、マノンは、寝返りをうってあおむけになった。
 ――そのほんの数秒後だ。
 マノンの寝室の扉が静かに開き、ダヴィッドが入ってきたのは。
 扉のノブが回る音がして、ろうそくを掲げた長身の影が、開いた扉の隙間をすり抜けて入ってくる。マノンは思わず寝たふりを続けてしまった。ダヴィッドの素早い動きに、起きる機会を逃した、ともいえる。
 春とはいえ夜間はまだまだ肌寒く、野外も部屋内も空気はぴんと冷え切っている。
 そこに現れたダヴィッドは、しかし、冷気とは対照的な荒い息づかいをしていた。もちろん彼らしく抑制はあるのだが、それでも明らかに普段の彼より熱く弾んだ呼吸が、マノンの耳へ届く。
 なにか……良くないことが起こったのだろうか。
 直感して、マノンはますます動けなくなった。
 寝たふりを続けながらも、逆に意識はますます覚めていくようだ。
 ダヴィッドは滑らかな動きでマノンのベッドの脇まで進むと、サイドテーブルにろうそく台を置き、その場で膝を折って身をかがめた。多くの背の高い男性が総じて大雑把な動きをするのに比べて、ダヴィッドのそれは非常に洗練されていて、無駄がない。だからこそ彼は黒の怪盗として多くの『成功』 を収めてきたわけであるが……彼もまた人の子であり、失敗が一度もなかったわけではない。多くの失敗があった。その度に彼はふさぎ、反省し、そしてさらに強くなっていくということを繰り返して、今の実力を手にしたのだ。
 サイドテーブルに置かれたろうそくの炎が、ダヴィッドの横顔と、マノンの寝顔を照らす。
 月のない夜。
 ――は、不吉なことが起きやすいと、なにかの本か、噂話かで聞いたことがある。
 薄明かりの中、マノンは瞳を閉じたままでいた。
 そして、すっとダヴィッドの指先が伸びてきたのを感じたときも、眠ったふりをしたまま、動かずにいた。
「マノン」
 ダヴィッドがそう、呟くように言ったのが聞こえたが、マノンを起こそうという意図で名前を呼んだわけではなさそうだった。もし本当に眠っていたら気付けなかったような低く小さな声だったからだ。
 ゆるい三つ編みにした長い髪に、ダヴィッドの指が触れるのを感じる。
 同時に、ダヴィッドの息が、さらに深くなるのを感じた。
 マノンはわけがわからなくなって、心臓がいやに高鳴って、結局、こらえきれずにゆっくりと瞼を開けていった。ゆるやかに開けた視界に、ろうそくの明かりで橙色に照らされたダヴィッドの顔が映って……その距離が思ったより自分に近くて、マノンは短く息を呑んだ。
「ダヴィッド……帰ってきたの」
 淡々とした口調でマノンが言うと、ダヴィッドは少し背を引いて後ろに下がった。驚いている風ではなかったけれど、マノンが目を覚ますことを想定していたわけでもなかったらしく、どこか硬い表情で。
「――ああ、ドロレス小児病院へ行っていた。お前は気付いていただろう」
「うん……昨日のお昼、院長っていう人を見たわ。本当に怖そうな人で、いつかやっつけてやるって、サイモンが息巻いていたもの」
 サイモンの名前に、ダヴィッドがぴくりと反応する。
「そうだったらしいな」
 まるで苦虫を噛みながら絞り出すような声だ。
 マノンは枕に顔を乗せたまま首をかしげ、ダヴィッドの表情をしげしげと見つめた。
 疲れているのだろうか? ダヴィッドは肩をいからせ、唇を結び、眉間に深いしわを寄せている。どこかなにかに焦っているように見えなくもなかった。
 彼らしくない、というのが第一印象だ。
「怪我をしたの……?」 不安げにマノンが聞く。
「いいや」 ダヴィッドは首を振りつつ答える。
「院長が逃げちゃったの」
「違うよ」
「じゃあどうして、そんな顔をするの……?」
 マノンの質問攻めに、ダヴィッドは徐々に降参を覚悟しはじめたらしかった。渋面を崩し、諦めたような微笑を顔に張り付ける。そして彼の口から出た質問は、マノンには意外なものだった。
「マノン、サイモンが好きかい」
 マノンは首を振る。
「私が好きなのは、ダヴィッドだけよ」
 毅然として答え、ダヴィッドを見据えるマノン。
 ダヴィッドも同じく毅然とした表情でマノンを見返していた。
 燃え続けるろうそくの炎。
 ちりちりと音を立てながら揺れる火影(ほかげ)。二人はしばらく無言でお互いを見つめ合っていた。
 そしておもむろに、「分かった」 とダヴィッドは言った。
 何が分かったのかマノンにはちっとも分からなかったが、すっと立ち上がったダヴィッドに合わせ、マノンもベッドの上で上半身を起こす。
 ダヴィッドはくるりとマノンに背を向けると、壁際にしつらえてある衣装棚へ向かい、その中にハンガー掛けされているマノンの外出着を素早く選び出し、それをマノンの側に放った。きょとんと瞳を瞬くマノンに、ダヴィッドは短い説明を加える。
「着替えなさい、今からドロレス小児病院へ行く。サイモンがお前の顔を見たいそうだ」

 

 サイデン邸から郊外のドロレス小児病院まで、馬を走らせて掛かるのは一時間強程度だった。
 馬車ではなく素乗りで、手綱を握るのはダヴィッドだ。
 マノンはダヴィッドの前にまたがり、ピタリと彼にくっついている。――大人になったら、こんな抱っこのような二人乗りは難しいだろう。ダヴィッドの息も、鼓動も、香りも全てを独り占めできるこの乗り方ができるのが、マノンがまだ自分が子供で良かったと思える数少ない事項の内の一つだ。しかし今夜ばかりは、そんな喜びに浸ることもできなかった。
 馬を走らせながら、ダヴィッドはいくつかの事情をマノンに説明した。
 すなわち、黒の怪盗はゴダール院長の宝箱――横領した金の成り果て――を奪いとるのに成功したが、そこに絡んでいたサイモンが発作を起こして倒れたこと。
 病院内には当のゴダールしか駐屯しておらず、そのゴダールも気絶していて使い物にならない。
 副院長はすぐ近くの村で風邪をこじらせた子供がいたとかで、そちらに夜通し出ていたところだった。黒の怪盗は年長の患者に副院長の居所を聞きだし、彼を迎えに行き、そして……
「私達がサイモンの元に駆けつけたのは、『黒の怪盗』 が呼びに来たからだということにしておいてくれ」
 とダヴィッドは念を押した。
 ――実際、その通りでもあるのだが。
 マノンはダヴィッドの胸にすがりながら頷いた。
 サイモンは駆けつけた副院長の治療を受けることができたが、その結果までは分からない。黒の怪盗であるダヴィッドが、旧知の人間の前に居続けるわけにはいかなかったのだ。
 ダヴィッドはルザーンの自宅に帰ってきた……なぜならサイモンが、発作を起こして苦しんでいる間中、訴え続けていた言葉のせいだ。
 マノンに会いたい。
 死んでしまう前に、一度でいい、好きになった女の子の唇に触れたい、と。息も絶え絶えにそう繰り返したという。
 思えば、病気の身体をおしてまで屋敷に乗り込んできたのも、これが動機だったのだ。
 ダヴィッドも一度はサイモンと同じ年頃の少年だった――この頃の、異性に対する神聖なほどの憧れを、覚えていないわけではない。
 そして……マノンに対する……
「とにかく」 ダヴィッドは低い咳払いをしてから、続けた。「俺達はサイモンの願いを聞いた黒の怪盗に頼まれ、病院へ駆けつけたことになる」
 マノンは不安げに、どこか納得がいかないというような表情で、ダヴィッドを見上げる。
「サイモンは死んでしまうの……?」
「死なないよ。そう願おう」
 ダヴィッドは前を見据えたまま答えた。
 二人が乗った馬が、夜明け前のドロレス小児病院に着いたのは、それからほんの十数分後のことだった。

 突然病院に現れたダヴィッドとマノンに、副院長は目を見開いた。
「これは……サイデン様! 本当にいらっしゃるとは! あり得ないと思っていたのに、なんてことだ」
 そう叫びつつも、ダヴィッドとマノンをいそいそと中へ案内する。
 彼も長い夜を過ごしているのだろう、灰色の髪は乱れ、白衣は皺だらけになっていた。しかし興奮は隠し切れないらしく、早口でダヴィッドに捲くし立てる。
「私は隣村に泊まりの検診に出ていたのです……すると突然黒ずくめの男が……いや、あれが噂の黒の怪盗という奴なのでしょうか……現れまして、サイモンが発作を起こして倒れたと知らされ、取るものもとらず戻ったのですが」
 ダヴィッドもマノンも病院の構造はだいたい分かっている。
 すぐにサイモンの病室へ辿り着いた。
「サイモンがあまりに……発作の中でマノン様の名前を呼ぶものですから、黒の怪盗は同情でもしたのでしょう。呼んできてやるから安心しなさい、頑張るんだとサイモンに言い残して、消えてしまったのです。だがまさか本当に呼んできて下さるとは!」
 副院長の説明を聞いて、マノンはダヴィッドを見上げた。
 ダヴィッドは固い無表情で副院長の言葉に頷いている。
「それで、サイモンの容態は」
「今は小康状態です。大丈夫でしょう、意識もありますよ……まったく、無茶をすれば次はないかもしれないと何度も言い聞かせたのに、とんだ暴れん坊で」
 困ったものです、と言って副院長は頭を振った。
「実は……お恥ずかしい話ですが、院長であるゴダールが着服した金を隠していたようなのです。私は、医師としては一人前のつもりですが、そういった世事にだけは本当に疎く……。サイモンはそれを暴こうとして……」
「それはでは、そのゴダールは」
「今さっき小姓をルザーン市警へ使いにやらせました。本人は気を失っている上に、腕も縛られておりますから、逃げ出すことはないかと……」
 お手上げだという感じで、副院長は両手を上げる仕草をする。
 彼は本当に、善良で医師としては優秀だが、世事には疎いというより苦手で逃げ回っている人物らしかった。
 大人の男二人の会話を聞きながら、マノンはベッドに横たわるサイモンのもとへ、ゆっくりと歩み寄っていく。肩までシーツを掛けられたサイモンの顔色は悪く、明るかった赤毛までが色を失っているように見えた。
 しかし、
「マ……ノン……?」
 彼には意識があった。
 うっすらと目を明けて、枕元にやって来たマノンを、不思議そうに、しかしうっとりと眺める。
「マノン……か……? 本当に、来て、くれたんだ……。黒の怪盗は、本当に……」
「まだ喋っちゃだめだわ、サイモン」
 "ませた" 口調でマノンが言うと、サイモンは嬉しそうに顔をくしゃくしゃにした。
「俺、黒の、怪盗を見たんだ……手伝いだって……したぜ……多分」
「本当?」
「本当なんだ……よ」
 そこまで言って、サイモンは軽く咳き込んだ。
 マノンは不安げに後ろの副院長を振り返った。が、副院長は大丈夫だというように小さく首を縦に振るだけだ。サイモンに視線を戻すと、確かに咳はすぐ収まったようで、しっかりマノンを見つめている。
「死ぬかと思った……だから、俺、必死で……黒の怪盗に頼んだんだ……最期に、お前に会いたいって」
「最期なんて、」
「黒の怪盗は、本当に……いたんだ。本物の英雄だ。本当に、強かった」
「……そう……」
 今度はマノンが顔をくしゃっと崩す番だった。
 大好きな人の賞賛を、他の男の口から聞くのは妙な気分だ。誇らしくて、でもくすぐったい。
「この通り、サイモンはもう大丈夫ですし、かといって悪さをする力もありません。ここは少し、彼らを二人きりにさせてあげませんか」
 背後でそう、院長がダヴィッドに耳打ちするのを、マノンは聞いた。
 マノンは再び振り返る。
 すると、固い表情のダヴィッドとすぐに目が合った。
 ――それは、一瞬だったのだろうけれど。
 マノンはダヴィッドの瞳に苦悶が浮かぶのを見た。一瞬、さっと横切って彗星のように消えていく、迷いのようなもの。
 しかしそれは、すぐに冷静な実業家ダヴィッド・サイデンの顔にとって変わってしまうのだった。
「そうですね」
 とそっけない口調で言って、ダヴィッドはサイモンとマノンをその場に残し、副院長の肩を抱きながら病室を出て行った。

 

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