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 子供というのは罪深いものだ。
 こんな風に無邪気に積んできた幼少の頃の罪へ対し、大人になった今、清算を迫られているのかも知れない――

 

太陽との終わらない恋の歌 月の盗人 4.

 

 若くして命に限りのある、腕白ながらも聡明な少年は、普段のダヴィッドなら真っ先に助けてやりたいと思う種類の相手だった。
 病気の身を押して馬車を乗り継ぎ、一目惚れをした少女に会いに来ようとは、そう誰にでも出来ることではない。
「お願いだよ……少し、話をさせて貰うだけでもいいんだ」
 ダヴィッドが答えないでいると、サイモン少年はそう、譲歩のようなものをしてきた。
「俺、何でもするよ」
「そういう問題じゃないんだ、サイモン、君は病院へ戻って安静にする必要がある」
「そうやって死ぬのを待ってろって!? 俺はそんなの嫌なんだ。あ、あんたなら分かってくれると思ったのに!」
「だから――」
 と、ダヴィッドが言い掛けたところだ。
 うっと肺が詰まったような呻き声を短く上げて、サイモンは咳込んだ。
 急いで水を渡すと、サイモンは何とかそれを飲み込んで、しばらく荒い息を繰り返した後に、やっと少しずつ落ち着きを取り戻していく。
 同時に、ダヴィッドはサイモンの肩を抱いて、背を軽く撫でた。
 先日病院で副院長が彼にそうしていたのを見たからだ。多分、これが彼の症状を少しは和らげるのだろう。
 少年の肩は、本来なら大柄に成長しそうな、年のわりに広い骨格を持っていたが、痩せて肉がひどく落ちている。――何か深刻な病気なのは確かなようだった。
「とにかく今は戻りなさい」
 ダヴィッドが言うと、サイモンは苦悶と落胆の瞳を隠さなかった。
 ――何の試練なのか。
 少年独特の、純粋ながらも情熱的な瞳に映された自分に、ダヴィッドは苦いものを感じた。
(くそ)
 これには弱いのだ……。
 今のダヴィッドを形作ったものも、これに似た情熱だった……から、だろうか。
「……明日、あの子を病院へ届けよう」
 これが、ダヴィッドの最大の譲歩だ。
「ほ、本当!?」
「ただし、話をするだけだ。君はそれでいいと言ったのを忘れるな」
「分かったよ。勿論だよ、ありがとう!」
「時間もあの子次第だ。彼女が帰りたいと言えば、それでタイム・オーバーになる。勿論、連れも付けておく」
「う、うんっ」
 提示された内容は、よくよく考えれば中々厳しいものだったのだろうが、今のサイモンがそれに気付くはずもない。
 ダヴィッドの、苦虫を噛んだような渋面さえ気付かず、サイモンは瞳を輝かせて礼を言った。
「ありがとう! 俺、頑張るよっ」

 

「そんなの、嫌……っ!」
 予想通りといえば予想通り――当人のマノンは、ダヴィッドの決定に抗議した。
「マノン、ただ見舞いに行って、会話をするだけだ。バトラーも付けておく」
「そ、そんなのじゃなくて……」
 結局サイモン少年はあのまま、ダヴィッドが呼びつけた馬車でドロレス小児病院へ帰っていた。
 そして夜――
 ダヴィッドがマノンの部屋を訪れ事情を説明すると……案の定、彼女は飴色の瞳を曇らせて嫌悪の情を示した。
「ダヴィッドは……いいの?」
 否――それは、嫌悪というよりは傷ついた顔で、ダヴィッドを真っ直ぐに見つめるマノンの瞳は、悩ましいほどに澄んでいる。震える声は、どこか女の香りさえした。
 本当に、一体何の因果だというのか。
 "いい" 訳がない。
 しかしダヴィッドは、明日をも知れぬ少年の小さな願いを無下に出来る人間でもないのだ。
 マノンはベッドへ逃げ込んで、口元までシーツを引き上げると、恨めしげな瞳をダヴィッドに向けたまま、黙り通した。
「マノン」
 低い、ダヴィッドの声が響いた。
 少女用の華奢なベッドは、ダヴィッドが乗ると、ぎしりと音を立てる。
「いい子だから、俺を困らせないでくれ。あの少年は病気なんだ。少しでいい」
「……っ」
 ベッドに乗り入れたダヴィッドは、すっと片手を伸ばした。シーツを盾にしていたマノンの耳元へ、骨ばった大きな手が近づき、そっと触れる。
「バトラーがいるから、変な真似はさせない」
「…………」
「お前にも、少し外の世界を知るいい機会だ。そうだろう?」
 ダヴィッドの片手は、そのままゆっくりと、マノンの髪へ滑り込んだ。そして、柔らかくウェーブを描いた金糸の髪の隙間を、優しく漉いてゆく。
 その感触に、マノンは少しずつ警戒を解き、うっとりと恍惚に似た表情を浮かべ始めた。
 これに彼女が弱いのは、ダヴィッドが誰よりも知っている。――それを利用するつもりは無かったが、だんだんと懐柔されていく少女の姿に、卑怯な安心を感じたのも……事実だ。
 顔を伏せると、マノンは小さく頷いた。
「……ん」
「嫌になったらすぐに帰ってきていい」
「がう、の……」
「?」
「違うの、ダヴィッドが……ダヴィッドが、それを決めたから……」
 細い喉から、なんとか絞るように出される声。
 少女の心ほど複雑なものはない。そして、最も困るのは、マノン本人さえ自分が何を言いたいのか良く分かっていないことだ。
 言いかけた台詞の先を探しながら、ぐずぐずといじけているマノンに、ダヴィッドは深い溜息を吐いて見せた。
「そんなに嫌なら、行かなくてもいい。彼にはそう伝えておこう」
 するとマノンは顔を上げた。
 ダヴィッドの顔をじっと見て、そして小さく首を振る。
「ううん……行く……」
「無理をする必要はないよ」
「平気、だもの」
 するするとシーツから手を離して、マノンはダヴィッドの前に対峙した。
 ――時々、お互いをひどく遠く感じる時がある。
 それは意外にも、マノンが大人の様な顔をする時だった。
 この、危うい均衡の上に立った微妙な関係を崩されそうな気がして、ダヴィッドの心も自然と硬くなるのだ。マノンもそれを敏感に感じ取る。
「……ダヴィッド、好きよ」
 甘い、声を。
 ダヴィッドはわざと心にまで届かないようにした。
「知ってるよ」
 それだけ言って、ダヴィッドはマノンのベッドから降り立った。
 そして、ダヴィッドが出て行って閉まる扉を、マノンは静かに見つめ続けた。

 

 そして深夜近く――

「東の砂漠の王国では、十二の少女はもう結婚をされる御歳だとか」
 一人、サロンの安楽椅子で酒を傾けていたダヴィッドの背後から、執事の声がした。
「――何が言いたい」
 ダヴィッドは振り返らずに答えた。
 カツ、カツ……と執事の足音が後ろから近づいてくる。食えない奴だと、ダヴィッドは思った。
 背後を取るまで、足音など一切響かせなかったくせに、今更、と――
「そんな顔をされるくらいなら、いっそ移住でもなさったらどうです。貴方なら何処でもやっていける。五、六年、異国も悪くないでしょう」
「何の冗談だ」
「私が、冗談を言ったことがありましたか」
 しれっとした口調で、執事は言い切った。
 ダヴィッドは、少し考えて、皮肉っぽく口の端を上げる。
「無いな……」
「そう、そして、これからも無いでしょう」
「…………」
 壁際の淡い明かりだけが、この広々としたサロンに光を落としていた。
 高級な家具、異国からの珍しい調度、壁に飾られた大きな絵画たち――実業家としてのダヴィッド・サイデンが築いてきたもの。
 どれだけの努力があったか。それだけの血と汗を流してきたか。
 常人の想像を絶する世界さえ、嫌と言うほど見てきた。
 しかし……
 それでも、それよりも、ずっと……

「月を盗られて泣くよりは、まだ良いのではないかと、そう思っただけです」

 大切なものがこの世にはある――そんな事はとうの昔から分かっていた。

 

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