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A Remain of July 4



新学期が始まると、夏の静かだった大学は、すぐ元通りの活気を取り戻していった。
「ねえ、リナ。この授業終わったら建築科に行ってみない?」
――と、隣の席の友人に声を掛けたれたとき、リナは心を読まれたのかと思って、つい、走らせていたペンを落としそうになった。辺りはまだ講義中で、リナは慌てて、声を落として友人に聞き返す。

「ど、どうして? なんで建築科?」
「すっごく格好いい講師が新しく来てるんだって。建築科の子に聞いたの。見に行ってみようよ」
「新しい講師……」

ハリーのことだ。リナはすぐ直感した。
新学期、新しい講師が入るのはそれほど珍しい事ではないけれど、学生が騒ぐようなのは滅多にいない。友人は続けた。

「特別講師っていうのかな? 短期集中講座を担当してる外部の人らしいんだけど、そっちの世界では有名な人らしいよ」
「う、うぅん……」
リナは言葉尻を濁した。

友人はそれをただの躊躇と見なしたらしく、「ランチを奢るから」 と食い下がってくる。ここは逃げるべきところなのだろうか? リナはなんとか考えを巡らせようとしたが、同時に頭がぽうっと熱くなって、思考がまとまらなくなる。

これは間違いなく、建築科までハリー・フレスクの姿を見に行くということだ。
行ってみたいという素直な欲求と、行くべきではないという自制心が、どちらも同じくらいの主張を胸の中で繰り返し始める。

そこへ、
「その講師、背も高くて、どこかの金持ちの息子でもあるんだって。お願い! ね、少しだけだから付き合って」
という甘い誘いも加担すれば、やはり、そもそも本心に逆らっている自制心など、弱いものだった。



建築科の入った校舎に入ると、リナは一々目当ての人物を探す必要もなかった。
広い吹き抜けのエントランス・ホールには十人ほどの学生達の人垣ができていて、その中央辺りに"彼" の姿が見えた。目立つ長身のお陰で、周囲に埋もれることもない。
「最初にされた建築の定義についての話がとても面白かったです。で、質問があるんですが――」
と、真面目そうな男子学生。
「講師、いつまで大学にいる予定なんですか? ここが母校なんですよねぇ?」
明るいブロンドの女子学生が、それに構わずハリーの前へ割り込む。

良くも悪くも、彼の周りは小さな戦場の様相をしていた。――それはハリーの講義が成功を収めたことをも意味していて、リナは誇らしい気持ちになった。同時に、わずかな嫉妬も感じたけれど。

「あれ、あのスーツ姿の人の事だよね! わぁ、本当に素敵な人じゃない!」
「う、うん」
例の友人は、リナの腕を揺すりながら、瞳を輝かせている。
「ああー、すでに囲まれてるっ。いいなぁ、建築科の子達は。私も話してみたいな、こっち見てくれないかしら」

(確かに、あらためて見ると目立つというか……人目を惹くひとよね)
ハリーを中心にできた人垣をさらに周囲から遠巻きに眺めている学生も多く、リナ達はその一部に過ぎなかった。今までならリナはこういった騒ぎも、騒がれるタイプの華やかな異性にも、あまり興味がなかったのだ。しかし――

講師然と学生達を相手にしていたハリーが、ふと顔を上げて、こちらを見る。
(あ……)

眼鏡の奥の漆黒の目と、リナの目が合った。
つい、リナは挨拶に手を上げそうになって、慌てて引っ込めた。それを見たハリーが柔らかく微笑む。「ごめん」 と言外に謝っているような、優しくて大人っぽい表情だった。

「きゃーっ! 今、こっち見たよね! しかも一瞬微笑んだみたいじゃなかった!?」
隣の友人はすっかり紅顔して、さらにリナを揺すった。
「そう、かな……」
答えながら、リナは、恥ずかしさと満足と、夢見心地と切なさと――沢山の思いが込み上げてくるのを感じて、唇をきゅっと結んだ。



――静かだった七月。
それに続いた八月は、前月の静けさを後悔しているかのように、盛大に熱く過ぎていった。
あれ以来……具体的にはあの夜以来、リナとハリーの二人は付き合うようになったからだ。
一月抑えていた想いの決壊に、溢れる愛情を御しきれないのか、それともそれが地だったのか――ハリーはリナが戸惑うほど甘く、ステディーな男に豹変した。

会えるのはハリーの仕事がない日だけに限られたが、それでも週に二、三日は必ず都合を付けてくれた。
この間の二人の関係は、"息子の俺に語ったところによれば"、一緒に美術館へ行ったり、映画を見たり、食事を共にしたりするだけだったらしい。

それでも二人は沢山のものを共有した。
会話を始めると時間を忘れるほどで、生まれ育った環境も年齢も、何もかもが違うのにも関わらず、まるでお互いの心が解け合って一つの完全な何かが生まれるような、不思議な感覚を味わっていた。

「その結果が、デーナ君だったのよ」
彼女はよくそう言った。

事の真偽はともかく、二人は最期まで呆れるほど仲のいい夫婦だった。







「"その結果が、デーナ君だったのよ"」
リリアンはささやくような声でその台詞を反復した。ほのかに火照った頬と、透き通るような肌、繊細な身体の線、甘い声。
それは、夜の闇と静けさをも、光と温もりに変える。
「素敵……」
「どうかな。その時はまだ親父に婚約話が残ったままだったし、身分は講師と生徒だ。だから大学内では他人として過ごすことにして、二人の仲は秘密のまま進んだ」
「秘密っていうのも、素敵」
「こら、一児の母が」

俺が言うと、リリアンは微笑んで、俺から逃げるようにベッドの上で身じろいだ。勿論、逃がしたり出来ない。
身を乗り出してシーツの上から彼女の腰をすくうと、それがくすぐったかったのか、リリアンはまた小さな笑い声を漏らした。

笑い合う――そんな単純なことが、欠けたお互いの心を補うのだと、今は知っている。

最初からその為にあるのかもしれない。
太陽と月。昼と夜。親には子がいて、男と女がある。どれも片方だけでは不安定で、誰に教えられた訳でもないのに、気が付けば己の半身を探している。

「しばらくはそのままだった。彼女はまだ学生だったし、将来を考える所までは行かない。親父の方は……まあ、考えてはいたんだろうが、親が決めた婚約はそう簡単に振り切れない。仕事も――」

そこまで言って、俺は一息置いた。
しんと静まり返る一瞬が、逆に、細い弦を鳴らしたように反響して辺りに響く。無音という音。
今まで、こんなものを気にしたことは無かった。

「――本当なら二人はそのまま自然消滅してもおかしくなかった。どちらも心の何処かでは、いつか別れが来ることを前提にしてたんだ。色々と葛藤はあったんだろうけどね。ところが半年後、そうも言っていられなくなる」
「それは……」
「そう、俺が出来たんだ」







ハリーが担当していた大学の講座は、当初から半年間の契約で、それも終わりに近づこうとしていた。
授業は期待していた以上に好評で、大学側から延期の願い出も受けている。しかしハリーは、それを受け入れるつもりはなかった。
半年、これも無理を通してやっと手に入れた期間だったからだ。
「ずっと若手に教えたいと思ってたんだ。今主流の視野の狭い専門論じゃなくて、そもそも人が暮らす場所を造る意義とかを」
「ハリーだってまだ若手なのに……でも、叶ってよかったですね」
「そうだな――」

それは二人が初めて共に食事をしたレストランで、早めの夕食をとりながら普段通りの会話をしていた時だ。
マネージャーが気の利いた人で、二人の仲を黙認していてくれたため、お互いの部屋で会う以外はよくここを使った。

「どうした? 少し顔色が悪いんじゃないか」
ハリーはテーブルの上にあったリナの手を取って聞いた。その日、確かに、普段なら明るい彼女の様子がどこかおかしかった。口数も少なく、ハリーの言葉にも空返事だ。

「なんでもないです。試験前で少し寝不足なのかも……」
「違うだろう。これでも、君の事はよく分かってるつもりだ。今日のリナはおかしい」
「それは――っ」
と、言いかけたところで、リナは急に背筋をぴんと伸ばして、口元を手で覆った。「ごめんなさい!」、そうくぐもった声を上げると、立ち上がって口元に手を当てたまま、洗面所がある方向へ消えていった。

――それが、何を意味するのか。

ハリーにはすぐ分かった。 後にも先にもないほど、頭の中が真っ白になった。呆然としながらも、なんとか理性で記憶を繋ぎ合わせようと……する、までもない。確かにリナとハリーは何度も愛し合った。気を付けていたつもりだが、一度、激情に流されたこともあり……

(ああ……)
まるで、心を覆っていた鎧が落ちたようだった、と。

(そう……か……)
これからどうするべきか。それさえも分からなかったというのに……世界の謎が全て解けたような、妙な開放感がハリーを包んだ……という。



その足で病院を訪れた二人は、その夜の内に、結果を手にしていた。
――リナは妊娠している。もうすぐ三ヶ月。
二人がずっと避けていた話題を、否が応にも切り出さざるを得ない時が来た。つまり……この恋には期限があったのだという、苦い事実を。
「すまない……君はまだ若いのに」
「謝らないで下さい。若くても、大人です。お互いが了解しての行為の結果だから……」

気丈にも、リナはそう言った。しかしそれが精一杯の強がりから来ているのを、ハリーはよく分かっていた。小さく震える彼女の手が、その証拠だ。
リナは母子家庭で育っていて、この妊娠が何を意味するのか、誰よりもよく分かっているはずだった。

しかし彼女は泣きも喚きもしない。
"本当の悲しみは、心の中でしか泣けない" ――そうだろう。

これから自分たちがどんな道を進むのか。規定的に行けば、ハリーはこのまま別の相手と結婚、建築は諦めるか趣味の範囲にとどめて、親の会社を継ぐのだ。そしてリナは……どうすればいい?
幸いハリーには金がある。が、それは、不幸になるのをいくらか止めることは出来ても、幸福を意味するものではない。

病院を出て車を走らせる。
ハリーはリナを下宿まで送り、その駐車場で一旦車を停めると、助手席で硬くなっている彼女の手に自分の手を重ねた。そして

「ずっと考えてたんだ。俺と、君が一緒になる方法を」
そう言った。リナはぎこちない動きでハリーの方に向き直る。その瞳は、不安で揺れていた。

「これは、君を不幸にしてしまうのかもしれない。それでも……何もない俺でも構わないと言ってくれるなら、俺は君と人生を歩んでいきたい」

ハリー・フレスク一世一代のプロポーズの言葉だ。

リナが答えられずに呆けていると、ハリーは車を降りた。リナもつられて外へ出る。

「部屋の中で待っていて欲しい。二時間、くれ。そうしたらもう一度同じ質問をする」
それだけ言って、ハリーはリナを玄関まで送ると、颯爽と車を走らせ夜の街へ消えていった――

もしこのまま二度と彼と会うことが無くなっても、不思議ではない。
人生で一番長い二時間。
リナがそれを乗り越えられたのは、まだ大した形さえ出来上がっていなかった、腹の中の俺が励ましてくれたからだったとか……



まるで用意されていたように、その夜、突然の豪雨が街を襲った。
実家へ辿り着くと、ハリーは駐車場に車を乗り捨て、玄関へと走った。その短い間でさえ、ずぶ濡れになってしまうような激しい雨で、遠くでは雷雲が低く唸っている。
インターフォンを鳴らすと、出てきたのは父親だった。普段なら家の手伝いが出るが、多分、ハリーの車が入ってくるのを見たからだろう。
驚いた顔をした初老の父に、ハリーは唐突に言った。

「父さん、一つだけ教えて下さい。僕を愛していますか」
「ハリー? 何を言っているんだ、とにかく中へ入りなさい。濡れ鼠じゃないか」
「いいえ。頼みます、今、答えて下さい。父さん、貴方は僕を愛していますか」

父は一瞬呆けたようだったが、ハリーの真剣な顔を見ると、短い咳払いをして答えた。

「当然だ……。お前は私のたった一つの半身だ。だからこそ血汗を流して育てた会社の跡を、お前に継いで欲しいと思うんだ」

老いのとば口に立った父の、しゃがれた声で紡がれる言葉に、ハリーは胸を締め付けられるのを強く感じた。
それは余りにも皮肉な――
初めて、父の想いを理解した瞬間。それは、その父との、決別の時でもあったからだ。

「ハリー、中へ」
「ウェルダーの娘との話は破棄して下さい。私は貴方の跡を継げない……分かっていたでしょう。それでも僕は踏み切れなかった。僕も貴方を愛していたからです、父さん」
「いいから中へ入るんだ」
「俺にはずっとそれが重かった。当然です、今やっと分かった。これほどの気持ちになれるなら、重くて当然だ。貴方が僕を愛しているように、僕も、俺の子を愛してる。まだ影も形もないのにだ!」
「ハリー!」

海千山千のビジネスを切り開いてきた男に、ハリーの台詞は十分で、余計な説明は必要なかった。
怒りに、父の顔がみるみる険しくなる。

「許さんぞ……お前が持っている栄光は全て、私のお陰であるんだ……間違ったことをすればどうなるか……」
「分かっています。それでも」

父の拳が震えるのを見た。殴られるのは分かっていた――が、ハリーは敢えて避けなかった。
肌を強く打つ音がして、ハリーの身体は玄関先の水溜りへ跳ね飛ばされる。

「二度とこの家へ戻ってくるな! そして、覚悟をしろ……そう簡単に私が許すと思うんじゃない!」

苦い叫びと共に、父は玄関を激しい勢いで閉めた。
ハリーは玄関先に腰をついたまま、雨に濡れて、締め出された扉をしばらく見つめていた。



約束の二時間を少し過ぎた頃、リナの下宿の呼び鈴が鳴った。
――入ってきたのは、ずぶ濡れのハリーだ。
リナはハリーを部屋の中に招き入れ、タオルを貸した。
まずシャワーを、というリナの申し出をハリーはやんわりと断って、狭い部屋の中央で、リナの手を取った。

「もう一度……聞きたい。俺に、リナと生きる権利があるかどうか」
「お家は……」
「俺の家は、もうここにあるんだ」

ハリーは片手をリナの腹部へと滑らせた。そして続ける――

「俺はもう御曹司でも何でもない。仕事も、多分親父が邪魔してくるだろう。小さい所から始めることになる。大学を続けさせてやるくらいの蓄えはあるが、しばらく休学してもらうことにも……」
「大変、そうね……」
「大変になるよ。逃げるかい」
「……ううん」

そのまま、リナはハリーの胸に身を任せた。そして、きつく抱き合う。
それが彼らの出した答えで、元御曹司のハリーと、苦学生のリナの慌しい新婚生活は、それからすぐに始まることになる。







「――案の定、父は……つまり、俺の祖父は、ハリーの仕事を邪魔した。可愛さ余って憎さ何とかってやつだったんだろう。お陰で最初は小さい一戸建ての設計なんかでずっと食い繋いでた。まぁ、それが最初の望み通りでもあったから、幸せそうにしてたよ」
俺がそこまで話すと、リリアンは続きを待つように瞳を瞬かせていた。
ただ、時計に目を移せば深夜近くなっている。

「そろそろ寝るか? 眠そうな顔してる」
「もう少しだけ……駄目……? デーナが生まれるところまで」
「次の七月に、普通に安産で生まれたよ。母さんはそれから一年と少し休学して、その後は……まぁ、母側の祖母やら、隣人のベルネットやらが協力してくれて、なんとか」

ベルネットはリリアンとも面識がある。
懐かしそうに目を細めて、枕に横顔をうずめた。「退院したら、ベルネットさんの所にも行きたいな……ディーンも連れて」

「あぁ……」
短く答えると、少しの間を置いて、リリアンは瞳を閉じた。

しばらくすると、細いが規則的な呼吸が聞こえてくる。俺はリリアンにシーツを掛け直すと、窓に視線を移し、外に浮かぶ夜の景色を眺めた。
――頭の奥に、彼らの声が聞こえてくるような気がした。弟達の笑い声さえ。

目を閉じると、あの頃の情景がまた蘇る。
幸せだった日々。そして……



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