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Deep End of the Ocean 4



真夜中、急に激しく叩かれた部屋の扉――
だが部屋の中のダンは、特に驚いた様子も見せなかった。
客が誰かはよく分かっていたし、想像したよりも来るのが遅いくらいだ。ダンはのそのそとドアの鍵を解くと、憮然とした顔のデーナを中に招き入れた。

「何、なんか思い出さんかった? こう、ショック療法とか、色々――」
すれ違いざまにそう言ってみるものの、デーナはそれについて何も答えなかった。

ただ部屋の奥に進むとダンの方を振り返り、射抜くような視線でこちらを見据えてくる。ダンは空の両手を上げた――降参、の格好だ。そもそもデーナに電話をしてこいとたきつけたのは、ダンなのだ。

「……考えたんやけど。そう上手くはいかんか」
「いい加減にしろ、ガルに何か言ったのもお前か? それともあいつらは元から親しかったのか?」
「おっ」

ダンが興味深そうに眉を上げた。
間違いなく状況を楽しんでいる、それは嬉しそうに。逆にデーナは苛立つばかりだ。それがますますダンを面白がらせると分かっていても、このまま黙っているつもりはデーナにはない。

「気になるか? 気になるよな、気になるやろ?」
「遊ぶな。いいから――説明してくれ、一体どうなってたのか。知ってるんだろ」
「説明ってもなぁ、何か色々長いし」
ダンはそう言うと髪をかき上げて、部屋の中へ進んだ。

「まぁ、座れよ。茶は出さんからな、欲しけりゃ自分で淹れろ」







ダンの説明は、一応整然としていたし、納得のいくものであった――の、だろう。
惹かれ合い、愛し合った、その過程と理由。

しかしその全てを受け入れ、更に自分の中で消化するのは、そう楽なものではなかった。
リリアンはカーヴィング指揮官の娘だ。
それを告白された夜のことは覚えている。丁度その辺りで記憶がプツリと切れているのだ。そして、気が付けば彼女は自分の妻の座におさまっている。

長男にディーンと名付けたのは自分らしい――
幾つもの、タブーでしかなかった事項が、まるで自然に、思い出せない過去の中で昇華されていた。

理性はそれを納得している。そして、心か、記憶か、そんなどこかの深層では、その通りだとうなづいている自分がいるのだ。
しかし感情は納得しない。
あの宝石のようなリリアンの瞳は、真っ直ぐ、デーナの最も触れられたくない場所に踏み込んでくる。だからどうしても遠ざけたくなる。

遠ざけておいて、そして、別の男に取られそうになれば逆に嫉妬していた。
その感情が何であるか分からないほど、愚かではない。しかし――
しかし……?

デーナは自室に戻って服を脱ぎ捨てると、シャワーへ向かった。途中、鏡に映った背中の傷跡が、否応なしに視界に飛び込んでくる。

(…………)
リリアンを受け入れるということは、"これ" を乗り越えるということだ。
記憶があった頃ならともかく、今は、乾いていない生傷にいきなり塩を塗りこまれるようなものでしかない。

"貴方が嫌なら、俺が代わりに行きます"

ガルがリリアンを想っているのは、一々説明を受けずともすぐに分かった。
リリアンに会いたいのか会いたくないのかは、自分でもはっきりしない。

――多分両方なのだろう。







自分は何をしているのだろう、これを、浮気と呼ぶのだろうか?
ガルは一瞬だけそう躊躇したが、結局、受話器を取ると暗記している番号を手早く押した。
まず病院の科の受付が出て、ガルだと分かるとすぐにアメリアに回線を回す。
こんな慣れたやり取りが、いつの間にか、自分とアメリアは随分と頻繁に連絡を取り合っていたのだということを、あらためて思い直させた。回線はすぐに繋がる。

『……ガル君でしょ、こんな時間にどうしたの?』
アメリアのさっぱりとした、しかし女性らしい声が受話器から響く。

『リリアンちゃんの旦那さまの事なら聞いたわ。大変でしょう。もしかして、そのこと?』

相手の返事を待たずに話を進めるアメリアに、ガルは声なく笑った。彼女のこの察しの良さと機転の速さが、ガルは好きだった。心地良い、と言っていい。
リリアンへの感情とは違う、もっと落ち着けるもの。

「隠せないな。今、その旦那に視線で殺されそうになったとこだよ」
『あら、なんだか聞き捨てならない感じね』
すでにこの展開をある程度予想していたのだろうか。アメリアはくすくすと小さく笑って、『それで?』 と訊き直してきた。

「それで、か。こっちが聞きたいくらいだよ、どうするべきだと思う」
『あのねぇ、ガル君。私は精神科医じゃないのよ』
アメリアの声が、少しトーンを落とす。
ガルは大体の経緯をアメリアに語った。デーナに啖呵(たんか)を切ったことも含め、特に何を隠すでもなく。

ガルが話し終えると、アメリアの小さな溜息が受話器を通して聞こえて、囁くような語りがそれに続いた。

『私に言えることは一つよ、あの2人を邪魔しちゃ駄目』
言葉は厳しかったが、それとは裏腹に、戒めるような響きはアメリアの声にない。
『――嫉妬して言ってるとか、そういうんじゃないわ。でも2人には子供も居るし、彼ならきっと、思い出せなくても彼女を傷つけたりはしないと思うもの』

「邪魔してるつもりはないよ、ファス指揮官の言葉を間に受けてる訳でもない。でも、放ってはおけないんだ」
『それで? それで旦那さまの代わりにデートしてやるって?』
「そういうんじゃないよ……」
『そういうの、よ。どんな違いがあるの』

小さな沈黙。
ガルが自分からは次の言葉を切り出さないでいると、アメリアが変わって続けた。

『そうね……いい案があるの。どうしても放っておけないって言うなら、その週末の遊園地、私も一緒に行かせて』







「あしただね、おとーさん、かえって来るよね!」
毎朝毎晩と、ディーンが嬉しそうに日数をたずねてくるせいで、リリアンは否応なしに"その日" をカウントダウンしていた。
子供達の期待に満ちた瞳に、否定の言葉を言うのは難しい。
毎回なんとか明るく繕ってみるものの、不安は伝わるのか、母親を慰めようとディーンはさらに空騒ぎをする。

それをなんとかなだめながら、それでも毎回、子供達が居るのだからデーナは家に帰って来てくれるかもしれないという――切なくて、卑怯な考えが胸をよぎってしまう。
その瞬間が苦しかった。
きっと今、デーナと自分を繋げる希望があるとすれば、それは子供達だけだ。

デーナの性格からして、自身の子供を見捨てることはない。たとえ記憶にない存在でも。
逆に、もし彼らがいなかったら、デーナはそのままリリアンを通り過ぎて、何処かへ手の届かないところへ行ってしまいそうな気がするのだ。
夜も、そんな夢を見ては、時々汗びっしょりになって目を覚ます。

そんな感じで一週間は過ぎていった。
医者に言われた通り、リリアンからデーナに連絡はしなかったし、デーナからも連絡は一切なかった。

しかし予定では明朝……早ければ、今夜。
デーナは家に帰ってくる。この家さえ記憶にないのだから、どう辿り着くのかも謎だが――
多分、ダン辺りが案内してくれるのだろう。

期待と不安が、同じくらいの重さで圧し掛かってくる。そんな複雑な思いで、リリアンは夕食のために台所に立った。
料理を始めようと手を伸ばしかけて、そして、途中で手を止めてしまう。

デーナの分を用意しておくべきだろうか?

いつも、どんなに遅くなっても、デーナはリリアンの用意した料理を残さなかった。
夜の予定が朝にずれ込んで食べられなかった時でも、夜越しの料理を朝、何の文句も言わずに空にしてくれる。
大して味の違いも気にしない人なのに、「美味しかった」 と言って、礼も忘れずに。

しかし"あの頃のデーナ" は?
リリアンが料理を差し出そうとしただけで嫌な顔をされて、避けられてた。

それが"今のデーナ" でもある、のだ。多分に。

(な、泣かない……っ)
リリアンはきゅっと唇を結んで、そして、どういう運命になるのか分からないデーナの分を含めた食事を作り始めた。



そしてそれは、すでに夕方を越し、夜と呼べる時間に入り始めた頃だ。
子供達は食事を終え、リビングでじゃれ合っている。リリアンはそんな彼らをカウンター越しに見ながら、食器を洗い始めていたところだった。
玄関先に車の止まる音がする。
続いて、ドアを開閉する乾いた音が二回、夜の空気に響いた。

「おとーさんだ!」
「うー!」
「え、ま、待って、ディーン! ロイ!」

弾かれたように素早く、玄関へ向け走り出したディーンに従って、ロイもよたよたと付いて行こうとする。
リリアンは慌てて台所から出ると、慌てて彼らのあとを追った。が、一体誰に似たのか――機敏なディーンは、すでに玄関を開いた後だった。
「おとーさん!」
ディーンが駆け寄った先には、そう、確かにデーナがいた。

ポーチの明かりに淡く照らされて、駆け寄ってきた少年を抱き上げる。
いつもと少し違う、でも、どこか慣れた風に。

「おかえりなさい、あのね、僕いい子にしてたよ! いい? いいでしょ?」
「……ディーン?」
デーナが、腕に抱いたディーンを少し離して顔を見ると、確認するように言った。ディーンはその行為の意味には気が付かなかったようで、興奮したまま、デーナが不在だった間のことを一生懸命説明し始める。

「ぼく、もー」
気が付くとロイまで、デーナの足元に近付いて、抱擁をねだっていた。
「こっちがロイ、か」
デーナはディーンを地面に戻すと、今度はロイの方を掬い上げた。ディーンとは違い、こちらはまだ会話らしい会話は出来ない。ただきゃっきゃと喜びの声を上げるだけだ。デーナはそんな子供の表情を、数秒、何も言わずに見ていた。

リリアンは玄関先で、何も言えずに佇んだままでいた。

――まるでいつものような光景。毎週の様にずっと繰り返してきた、本当なら、大きな喜びの時間。
大好きなひとの帰り。
自惚れではない、デーナ自身だって、いつもこの時を愛してくれていた。

(でも……) デーナは上手く子供達の言葉に頷いて、話を合わせている。
パッと目には分からないくらいだ。
しかし小さな2人を見る彼の瞳には憂いが潜んでいて、それが容易ではないのをまざまざと感じさせた。

駆け寄るべきか、それとも自分からは行くべきではないのか――分からない。
きっと正しい答えなんてない。
どちらを選んでも、今のデーナにはリリアンの存在が気に障る、筈だ。
――そう、固まっていたリリアンを動かしたのは、次に響いた意外な人物の声だった。

「じゃあ、フレスク指揮官、もう大丈夫ですよね。俺はこれで失礼します」
ガルだ。
デーナの車の前にもう一台、乗用車があって、ガルは運転席から出てこちらを向いていた。

「ブローデンさん?」
リリアンが呼ぶと、ガルは礼をするように小さく頷いた。
そしてリリアンを手招きする。
何か大事な、子供達には聞かれたくないような話があるのだろうと理解して、リリアンはガルの方へ向かった。

すれ違いざま、つい、デーナを避けてしまったのはどうしてだろう。

「本当はファス指揮官が来るはずだったんだけど、どうしても時間が取れなくて、俺が連れて来たよ」
「すみません、ありがとうございます。こんな遅い時間に……」

ガルは普段より声を落として喋った。リリアンも合わせて小声になる。
リリアンはガルと向き合って、デーナの方には背を向ける格好になった。逆に、ガルからはデーナと子供達がよく見える。

「明日、子供達と出かける約束したって。大丈夫かな?」
「……分からないです。もし、デーナが大丈夫そうなら、3人で行ってもらった方がいいと思って。無理そうなら、なんとか言い聞かせてみます。私一人で連れて行ってもいいし」
「それなんだけど」
ガルはデーナの方をちらりと見やってから、リリアンに視線を戻すと、ポケットに手を突っ込む。そして続けた。

「アメリアからの提案なんだ、もし2人が気まずかったら、俺達も一緒に行くのはどうかって。彼女も君達に会いたがってるし、場も持つんじゃないかな。どう?」
「アメリア先生が? ご存知なんですか?」
「狭い世界だから、さ」
リリアンは瞳を瞬いた。――意外な展開。しかし、救いだ。

すぐには答えられないでいると、結局、
「出来たら今夜、話し合ってみて。朝までに連絡をくれれば、喜んで行くから」
と言い残して、ガルは、デーナに短い挨拶だけすますと再び車に乗り込んで、夜の闇に消えていった。



玄関先に残された4人。
束の間の沈黙ののち――
「おとーさん、おかーさんに、ただいましないの?」
ディーンの無邪気な声が響いて、リリアンはハッと振り向いた――同時にデーナと視線がかち合う。

ポーチの淡い照明に、お互いがくっきりと照らし出された。
芯をきゅっと絞られるような、妙な熱が、身体中を駆けぬける。デーナはすぐには何も言わなかった。ただ、射抜くような、推し量ろうとするような、あの厳しい視線が真っ直ぐにリリアンへと向けられている。
あの頃と同じ。

(それでも)

――いつの間にか忘れていた気持ち。
否、忘れていた訳ではないけれど、記憶の底で眠っていた、あの頃の想い。

(それでも好きだったの――)
気持ちは何も変わらない。
この想いは、海底を寝床にして、誰の目にも留まらない深い深い場所で、いつまでもしっかり根付いている。
嫌がられるのは承知だったけれど、リリアンは、デーナを見つめ返して微笑んだ。

「おかえりなさい……怪我、これだけですんで、よかった」

数歩だけ。傍によって、淡く微笑みながらそう言ってみる。
――答えは、期待していなかった。
案の定デーナはしばらく何も返さなかった。ただ視線だけはずっとリリアンに留まっていて、離れない。子供達はそんな2人を目を丸くして交互に見ている。
しかし最後には、短く、いつもの落ち着いた声が聞こえた。

「……ただいま」

――それは、子供達の前だったからだろう。 そして曲がりなりにも夫婦であるという、与えられた知識があったからだろう。

それでも嬉しくて、リリアンは涙を止めるのが精一杯だった。







子供達を寝付かせると、リリアンは出来るだけ静かにリビングに戻った。
――デーナはそこで、棚の上に置かれていた幾つかの写真を眺めているところだ。
リリアンが入ってきたことは気付いているようだが、視線は写真に留めたまま。

「あの……デーナ、じゃ駄目ですか? フレスク指揮官?」
「好きにしろ」
「えっと、ベッド、用意できてます。私はここのソファで寝ますから……何か、必要なものありますか?」
「ベッドはあんたが使った方がいい。俺はここで充分だから」
「でも……」

リリアンはまごついた。
華奢なリリアンにとってはともかく、デーナにソファは窮屈すぎる。しかしこうだ、と一度決めたときのデーナは動かないのも、良く知っている。
仕方なく、リリアンはそれを受け入れる事にした。

――こうして、振り向かないデーナの背中に話しかけるのも、久しぶりだ。
ここで泣きたくなるのは、散々甘やかされていたからだと――それだけ幸せだったからだ、と――
逆説的に、リリアンは自分を抑えていた。

ちらりとテーブルに視線を送ると、デーナの為に出しておいた料理は手付かずのままだ。
(やっぱり……)
予想していたとはいえ、やはり、胸がチクリと疼く。

「……あの、明日」
と、リリアンは控えめに切り出した。その声に、デーナはやっとリリアンの方へ振り向く。

「ディーンが遊園地へ行くって聞かないんです。1週間いい子にしてたら連れて行ってくれるって、約束してたらしくて……」
「"らしい" ?」
「う……2人とも、時々私には内緒の話をするんです」

デーナはまた、何も言わずにリリアンの姿を見据えていた。
厳しく、鋭い視線は相変わらずで――"子供のことも把握できていない駄目な母親" とでも怒られそうな気がして、リリアンは慌てて先を続けた。

「あ、の、嫌なら行かなくても大丈夫ですからっ。私、一人でなんとか連れて行ってみるし、ブローデンさんも来てくれるって」
「行かないとは言ってない」
「え……」
リリアンが瞬く。
「で、でも」
デーナはゆっくり腕を前に組んだ。そして、傍にあった壁に背をあずけると、リリアンをじっと見下ろした。

「嫌なのか? 俺よりガルの方がいいって?」
「違います……でも、無理して欲しくないから……」
「ここで大人しくお前達の帰りを待ってる方が、よっぽど"無理" だよ」
「……?」

リリアンが小さく首を傾げると、デーナは短い溜息を漏らした。

「少し、話をしよう」
そう言って、デーナは一歩前に出た。

縮まった距離と一緒に、心も、僅かに歩み寄ってゆく――そんな気がしたのは、ただの希望だろうか……




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