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Deep End of the Ocean 3



どうやって帰ったのかを、よく覚えていない――
気が付くとリリアンは自宅に着いていた。
そして、ディーンに優しく頭を撫でられている自分がいて、その温もりに、熱いものが瞳から溢れそうになる始末だ。

「いたいの、いたいの、とんでくよ。ね、おかーさん」
つたない言葉で必死に母親を慰めようとするディーンの声には、救われながらも、更に涙を誘われそうになってしまう。

「ごめんね、もう大丈夫よ。ディーンはもう寝なくちゃ」
「おかーさんも」
「そうね、お母さんもすぐ寝るから、お部屋にいらっしゃい」
「いっしょに?」
「一緒に寝るの? ん……今日だけ、ね」

リリアンは目元を手で拭って、立ち上がった。

泣いている場合じゃない――
こんな時こそ、しっかりしなくちゃいけない。何を忘れたってデーナは無事だったのだ。嘆くよりも、それを感謝しなくちゃ――
そしてこの子達をきちんと護らなくちゃ――

そんな理性はしっかり心の底辺にあるのに、彼そっくりなディーンからの慰めはあまりにも心地良くて、立場を忘れて甘えてしまいたくなる。
しかし時刻はすでに明け方に差し掛かっていて、彼の目も赤い。
やはり子供は、大人が思うよりずっと敏感だ。

リリアンがディーンを抱き上げると、彼はリリアンの首筋に顔をうずめた。
何か、むにゃむにゃと呟いているが、言葉までは聞き取れない。

子供部屋までディーンを運ぶ間、彼がずいぶんと重く、大きくなったのをあらためて感じた。

――これだけの歴史を。
デーナが忘れてしまったのはどうしてだろう?

すべてが天国だったとは言わない、辛いときも厳しいときもあった。それでも、2人は幸せだった筈だ。

それを記憶から投げ出してまで叶えたいものがあるとすれば、それは……?







いくら仕事に支障はないといっても、この状態を全くの無視という訳にはいかない。
訓練中の下等兵士達には知らせないことになったが、隊の要となっている数人には、デーナの記憶障害について話す必要があった。
小さな会議室に召集が掛けられる。そこに集まった数人には当然、今や軍曹の地位にあるガルも混じっていた。

「冗談でしょう……? 皆でグルになって、人を騙そうとしてるんじゃないですか」

ガルは両腕を胸の高い位置で組んだまま、首を前に出して、怪訝そうにそう言った。
信じられないというより、信じたくない、という感じの表情だ。
しかし、言葉無くうなづく上官たちの顔を見て、ガルは呆然とした驚きを隠せなかった。

またガルを懐疑的にさせた理由は、そのデーナの記憶問題が、リリアンに関するものばかりだという事だ。
ここ数年に導入された新しい機器やシステムについては、なんとなく思い出せるし、扱えるという。
元々デーナは一度説明を受ければすぐに覚えてしまうから、その部分はおいておくにしても、信じられない展開で――ガルがあの週末の夜に想像してしまった事が、正に、現実として目の前に現れたのだ。
想像して、そしてあり得ないと否定した、その希望が。

結論として、これはデーナの個人的な問題で、ガル達が気に病むことはないと言い渡された。
ただ念のため、覚えておくように、と。
しかし――

(嘘だ……待ってくれよ)
頭がクラクラと回って、妙な動悸が身体にからみつく。
集まりはすぐに解散された。しかし、皆が部屋から出て行った後もガルはその場から動けないでいた。

なんとかありったけの理性で踏み止まっていたガルは、小さな会議室の端で、そんな彼を見ていたダンに気付いていなかった。
デーナ本人をはじめ、皆は各々の持ち場に戻るため部屋を出ている。
その時、部屋に残っていたのはガルとダンだけだった。

「えぇこと教えてやろうか」

ダンがそう、珍しく落ち着いた声で、ガルに向かって言った。
お陰でガルはやっと部屋の奥に座っていたダンに気がついて、パッと顔を上げる。
ダンは、ガルの立っている位置とは対角線上にある、部屋の奥にいた。パイプ式の簡易な椅子に腰を掛け、足を大きく投げ出して。だらしのない格好の様でいて、こういしている時のダンは何故か、真面目に立っている時よりも隙がなく見える。

「……もう出て行ったのかと思いましたよ」
「修行が足らん」
「しょうがないでしょう、あんな知らせを受けた後に」

ガルが憮然とした声で答えたのは、怒っていたからではなく、焦りを悟られたくなかったからだ。
しかしダンはそれに抵抗する様子も見せず、変わらず落ち着いた声で続けた。

「あの阿呆は阿呆なだけに融通が利かん。そのせいで、頭打った拍子にこんな器用なことをしでかしたんや」
「はぁ?」
怪訝に眉間の皺を深めるガルに対して、ダンは口の端を上げて、意味ありげに笑った。

「お前はムチ打ちでヤラれてて居なかったからな、知らんやろ。あの阿呆は最初、基地にきたばっかりのリリちゃんをいじめてたんや」
「ファス指揮官……貴方まで頭を?」
「俺は正気や。そりゃあ随分と泣かしてたんやで? 睨み、暴言、無視に暴力……」
「…………」
「や、暴力は嘘やけど。流石に女に手を上げたりはせんから」

ガルはすぐには答えなかった。ダンもそれ以上説明するつもりはなかったようで、しばらく沈黙が流れる。
ダンが座ったまま立ち上がる様子がないのを見て、ガルも傍のパイプ椅子を一脚引いて、ダンの前に腰を下ろした。

「何が言いたいんです? なんとなく最初、2人がぎこちない感じだったのは知ってますよ」

ガルの苛立った声とは逆に、ダンはまだ何か隠していそうな笑顔のままだ。ダンは身を乗り出すと続けた。

「お前、リリちゃん取れよ」
「は!?」
「どうせあの阿呆は忘れてるんや。今の奴にとって、リリちゃんは得体の知れない妙にムカつく女なんだと。可哀想やないか? 一人であの細腕に小さな子供2人抱えて。支えてやる男ちゅうもんが必要や。ガキ達もお前には懐いてるし、どうや?」

ガルは自分の耳を疑った。
この男は――よく突拍子もないことを言って人を驚かせるのが好きだ。それは知っていたし、それが正に、ガルがダンに反抗する理由の一つでもあるのだ。しかし今は驚きが先に立って、反抗などという感情を軽く通り越してしまう。
ガルが言葉を失っているとその隙に、ダンは更に話を進めた。

「リリちゃん、いいよなぁ? ますます美人やし、優しくって可愛いし、胸もこうなかなか……」
「――ファス指揮官」
「冗談や、うちの奥さんには言うなよ。そうやなくて、つまり、お前はまだリリちゃんのこと憎からず思ってるんやろ」

憎からず思う?
胸がどうのという話も含め、ガルは急激に沸いてきた、この目の前で飄々としている男を殴りたいという衝動をぐっと飲み込んだ。
――そんな楽な話ではない。ダンはそれを知っていて言っているのだ。
しかしそんなガルの思いには構わず、ダンは続ける。

「今直ぐ寝取れとか、そういうことは言ってない。けどあの阿呆はあの調子や。いつ思い出すかも分からんし、いつまでも一人にさせとくのは可哀想やろ。医者は電話まで控えろって言っててな。それでしばらく、あの阿呆の代わりに電話してやったり、連れ出してやったりするだけや。で、もしデーナが思い出さなかったら、それはそれでお前にとっては万々歳、どうぞお好きにって寸法で――と」

ガタン! と勢いよく音を立てて、ガルが立ち上がった。
ガルはそのまま大股で部屋を出ると、凄い強さでドアを叩きつけて閉めた。振動で部屋が震えそうなほどだ。

1人残されたダンは、まだ同じリラックスした姿勢で椅子にもたれたまま、天井を仰ぐ。

「ま、これが潤滑油になるかな」
呟いた声に、先刻までのふざけた響きはなかった。







どんな気分でいようと、どれだけ恐れていようと、時間は着実に進むものらしい。
寝室にかかげられた時計を見上げて、ガルは何度目とも知れぬ溜息を繰り返した。
午後8時過ぎ――
夕食も終わり、深夜の訓練もない今日は、これで静かな夜を迎えることになる。
家族や恋人がいる連中は、大抵この時間帯を連絡に使う。
ガルは考えた。そして、ダンの、医者が電話を控えさせているという言葉を何度も頭の中で反復させた。

確かデーナは余程のことがない限り、夜、リリアン達に連絡を取っていたはずだ。

それが急に途絶えることになる。どんな思いでいるのだろう?
子供だってぐずって訝(いぶか)しがる筈だ。それを彼女が1人で――?
そんなことを、考えてみればみるほど、泥沼にはまっていく感じがした。抜け出す方法は一つしかなくて、ガルはそのたった一つの方法が何であるかを、自分でよく分かっている。それがまた癪に障った。

(……っ、知るか!)
結局、ガルは衝動的に自室を出た。
こういう事は勢いだ、と、身をもって学んだ瞬間でもあった。



「きょう、おとーさんにでんわ、する? ぼくさいしょにお話ししていい?」
「さいしょー」
夕食の席で、ディーンとロイが無邪気にそう聞いてきた時、リリアンは情けないことに固まってしまった。
心臓が跳ねて、指先からすっと体温が下がるような気がしてしまう。

「あ……ごめんね、今日はお父さん、具合がよくないの。早くお布団で休まなくちゃいけないから、週末まで、電話はしちゃ駄目なの」
と、早口で説明してみるが、自分でさえきちんと納得していない事を、人に諭すのは難しい。
案の定ディーンは表情を曇らせ、フォークを持つ手を止めた。

「おとーさん、病気?」
「違うの、ただのお風邪よ。お寝んねしなくちゃいけないだけ」
「……じゃあ、どうしてお家、かえってこないの?」
「それは――」

賢く鋭い子を持つのは、時々想像以上に大変だ。
それは特にこんな時で、そう簡単に隠し事もできない。リリアンは何とか説明を続けたが、ディーンの質疑はまだまだ続いて、果てにはぐずって泣き出してしまった。
ディーンが泣くと、オートマティック的にロイも泣き出す。
すぐに食卓は子供達の泣き声の大合唱になり、リリアンは彼らをなだめたり叱ってみたりするもののが、効果は殆どない。

リリアンが怒ったところで大した迫力はないし、デーナのそれに慣れているせいか、この2人の子供はあまりリリアンの叱責に動じないのが現実だ。
最終的に、泣き疲れてうとうとし出すまで、子供達のぐずりは続いた。

家の電話が鳴ったのは、やっと彼らが静かになった時で、リリアンは慌てて受話器を取った。

「はい、フレスクです――」
そうリリアンが出ると、聞き覚えのあるはっきりした声が、受話器を通して届いた。
『今晩は、久しぶり――でもないな。ブローデンだよ、今、大丈夫かな』
ガルだ。

「……ブローデンさん?」
リリアンは驚いて聞き返してしまった。デーナあてに何度か掛かってきた事はあるものの、それ以外で、ガルがリリアンに電話を寄越したことはない。
受話器の先のガルは、落ち着いた口調で続けた。

『どうしてるかと思って。その、フレスク指揮官の事、今日聞いたよ。子供達もいるし、大丈夫かどうか心配になって』
「あ……」
『電話も止められてるんだって? 何か俺に出来ることがあったら、と思って。平気?』

低いデーナの声と、ガルのはきはきした透明な声は、だいぶ質が違う。
しかし口調がどことなく似ている――子供達の叫びに疲れた後だったせいもあって、リリアンは、デーナに対して喋るような甘い声で答えてしまった。

「今やっと大人しくなったところなんです。私、きちんと説明出来なくて……もう、本当に駄目な母親」
『まさか。一人で大変だろ? 好きに愚痴っていいよ、俺をゴミ箱だと思って吐いて』
「ブローデンさん、そんなことしたら私、アメリア先生に叱られちゃいます」
『平気だよ、あの人は君に甘い』
「そうじゃなくて……」

リリアンは小さく笑った。
――落ち着いた、頼れる大人の声と口調だ。ガルの声は。
甘えたくて、でもそうする訳にはいかなくて、自然と受話器を持つリリアンの手に力が入る。その時だ。

「おかーさん、それ、おとーさん?」
気が付くとディーンがリリアンの足元にいて、やっと着させたパジャマ姿で、せがむようにスカートの裾を引っ張っている。
「ごめんね、違うの。これはお父さんのお友達。ディーンはもう寝ようね」
「……うっ……」

ディーンがまた"泣き" に入りだした。リリアンが慌てて電話を切ろうとすると、ガルは逆にそれを遮る。
『今のディーンだろ、大きい方。少し男同士で喋らせてくれる?』
と。
リリアンは一瞬躊躇したものの、結局、ガルが大丈夫だと念を押すので、足元のディーンに受話器をゆずった。ディーンがおずおずと喋り出す。

「おとーさん? ……ちがうの? ……おじさん。うん、おぼえてる……うん……うん。やだ。だめ……うん、わかった。本当? あのね、遊園地いくの、やくそくしたよ。だめ? ……うん、うん……わかった。はい……おやすみなさい」

小3分程度だろうか。
ディーンはそう、存外に静かな声でガルとのやりとりを終えると、リリアンに受話器を差し出した。
まだ落ち込んだような雰囲気は残るものの、涙の影は見られない。

「すごいですね。私だといつまでも泣き止まないのに」
再び、リリアンは受話器の先に話しかける。ガルも、短いながらも笑い声を漏らした。

『それだけ君には甘えられるって事じゃないかな。悪いことじゃないと思うよ』
「精進します……あ、あの、ブローデンさん」
基地の回線での長電話は禁止されている。
ガルだって忙しい身だ――これ以上自分の相手をさせるのは申し訳ない気がして、リリアンはどうしても聞きたい話題を切り出した。

「デーナ、どうしてました? お医者さまはあれ以外問題はないって仰ってたんです。でも」

"あれ" と象徴的に言ったのは、まだ足元にディーンがいたからだ。
しかしガルには充分だったようで、数秒の沈黙の後、静かに答えが返ってきた。

『いつも通り――かな。大丈夫そうだったよ。何かあれば必ず知らせるから』
「……はい」

いつも通り――それは、安心と落胆が混じった複雑な気分だ。
無事なのは嬉しい。それでも、もしかしたらすぐに思い出してくれるかもしれないという希望は、音もなく萎んでゆく。

先はあまりにも不確かで、いつまで続くのかさえ定かではない。
何だって乗り越えていけると思っていた、"貴方と一緒なら"
しかし今、この状態をなんと呼べばいいのだろう?

確かにデーナは、手を伸ばせば届く距離にいる。会いに行こうと思えば行けるのだ。そして2人は、今もまだ紛れもない夫婦だ。
けれど心は遠い。今までになく。

『頑張って。月並みな言葉で悪いけど、応援してるよ。何か俺が出来ることがあったら、遠慮しなくていいから』

受話器から響くガルの声は心地良かった。
寂しさで乾いた心を、濡らしてくれる雨のように。

「はい……ありがとうございます。ブローデンさんも」

リリアンがそう答えた後、2人は挨拶だけ交わし、電話は切られた。







受話器を戻した後、ガルは会話の余韻をかみしめるように数秒無言で立っていた。
そして小さな溜息と共に、後ろを振り返る。
「――居たなら出ても良かったでしょう。医者の言う事なんて聞く貴方じゃない」

ガルが振り返った後ろには、壁に背をあて、腕を組んだ格好のデーナがいた。
ガルがそれに気が付いたのは本当に数秒前だ。しかし雰囲気からして、それよりずっと前からいたのだろう。

無言で絡み合う2人の男の視線が語るものは、何よりも雄弁だった。

ここには2人の男がいる。しかし――リリアンは一人しかいない、ということだ。
そして、過去のない者に未来はない。
初めてガルはデーナより優位な立場にいる自分に気が付いた。

「何でも週末は出かける約束をしていたとか……貴方が嫌なら、俺が代わりに行きます」

それは挑戦ではなく、挑発でもない。
しかし水面下の戦いに火をつけるには、充分な宣告。

――デーナは答えなかった。



漆黒の瞳の奥に燃えるもの。濃青の瞳に溢れる情熱。
求めるものは、たったひとつ。




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