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こんな風に―― 愛しい音を奏で続けられたらいい。 夢のような音色、甘い旋律。 流れるように続く和音……アルペジオ。 C'est Toi que J'aime Tant 「お皿洗いくらい平気なのに、デーナってば」 「いいから、今夜くらいは。冷えるからソファで座ってた方がいい」 「ん、でも……」 キッチンの流し台に立つデーナの後ろをちょこちょこと回りながら、リリアンは、言われた通りソファのある居間に行くのを渋っていた。 離れがたい――たとえそれが、十メートルと距離のない目と鼻の先でも。 久しぶりに家へ帰ってきたデーナを出迎えて、まだ数時間と経っていない、宵の口。 我がままでも、子供っぽくても、この気持ちばかりは抑えられなかった。 傍に居られるのが嬉しくて仕方ない。少しくらい寒くてもいい、離れたくない、と―― デーナは、ぴた、と自分の背中に張り付いたリリアンを振り返って、そして、手元にある夕食の名残に視線を戻す。 「皿洗い機も買っておくべきだったな」 ――と、現実的なことを言って、微かに笑って。 それは季節の巡りを肌で感じた数ヶ月だった。 あれから、リリアンは心配していたような体調に陥ることもなく、比較的平穏に時を過ごした。それは、デーナを初めとする周囲の協力と気遣いのお陰と、リリアン自身の努力の賜物だ。 そして時は過ぎ、出産を2ヶ月前に控えたころ、リリアンは一時仕事を離れて家で過ごしていた。 基地に残るデーナとはしばらく離れる事になるが、彼も出来る限り帰ってきていたし、会えない日にも必ず連絡を取り合う――そんな風に、来るべき日を待ちながら、穏やかに過ごす日々。 いつか思い、話し、夢見たとおり、2人の小さな家を持って。 場所は、ペキン大佐夫妻が住んでいる辺り―― 基地へ通える程度の距離に、そう大きくはないが住宅地がある。 将来的には現在、大佐がそうしているように、毎日基地へ通うつもりでそこに小さな家を買ってあった。 何故"小さな" なのかは、リリアンの趣味だ。 ただそのお陰で、彼女の家での仕事は少なくすんでいるようで、そこは、デーナも気に入っている。 そして今夜―― 「予定日の2週間前になったら、入院した方がいいって、アメリア先生に勧められたの。大丈夫だと思うけど念の為って……」 「勧められてるならそうした方がいい。基地からも近くなる」 「うん、少しづつ用意始めようって思ってたの」 すでに"その日" を一ヶ月後に待ち構えていた。 2週間ぶりの休みを取って帰ってきたデーナを迎えたのは、嬉しそうに頬を上気させたリリアンと、また少し彼女の中で大きくなったらしい――自分の息子だ。 頻繁に検査を受けさせていたせいで、比較的早い時期から、性別は分かっていた。 かといってすぐに実感が湧くわけでもなく―― 華奢な彼女の体の中で、息づいているらしい自分の分身を、妙な気分で受け入れる。 そんな我が子についてデーナが思うことといえば、まだ、愛情よりも、ある種の警戒を含んだ気持ちだ。 もし彼女を傷付けでもしたら、ただではおかせないと――そんなことを。 そんな無茶な父親の思いを知ってか知らずか、確かにその赤ん坊は、大人しく順調な経過を遂げているようだった。 「私より、マリさんの方が大変そうなの。逆子がまだ直らないんだって」 夜も更けてきた頃、居間のソファに2人で腰を落ち着け、お互いの体温を感じながら。 肌に、肩に、髪に――ゆっくりと触れ合いながら、離れていた間の話をする。 「父親が問題児だからだろ。遺伝したんだよ」 「もう。女の子なのに……?」 今は、マリも同じように仕事を離れている。ダンの実家は遠すぎるので、彼らも、デーナ達からそう遠くない街にマンションの一室を借りてそこに住んでいた。 時間と体調さえ許せば、お互いに毎日訪ねあえる距離だ。 こちらは、ダンの希望通り――女児の出産を控えている。予定日はリリアンの20日ほど前。つまり、あと1週間ほどだ。 冷たい空気、乾いた静かな大地、遠く澄んだ空。 冬の息吹を感じ始めた季節――二つの生命の誕生を前にして、時は着実に進んでいた。 それはその次の朝。 デーナが目を覚ましたのは、玄関から響くチャイムの音だった。 上半身を起こし、隣で眠るリリアンを覗く。落ち掛けていた毛布を彼女の肩にかけ直し、音を立てないように立ち上がった。 何事かと思いつつ玄関に出たデーナを迎えたのは…… 手一杯に荷物を抱え、興奮気味に眉を上げた、身重のマリだった。デーナは毒気を抜かれた気分で、小さく溜息を付いて言った。 「――何を、こんな時間から……ダンはどうした?」 「知らないわよ! ごめんなさい、お邪魔は承知だけど、しばらく置かせて欲しいの」 「は? おい――」 マリはデーナの返事を待たず、そのまま家の中に入った。 確認するまでもなく、マリが抱えている布張りのボストンバックには、衣料や生活用品が詰められている感じだ。 おまけにこの興奮した雰囲気―― 廊下で肩越しに振り返ったマリと、玄関の枠に手を掛け、呆れたような顔で立ったデーナの、視線が合う。 「あいつならまだ寝てるよ、起こさないでくれ。……ダンが何かしたのか?」 「……聞かないで。というか、貴方なら大体予想が付くでしょ」 マリはその場にボストンバックを下ろした。 デーナは何も答えず眉だけ上げて、静かに玄関の扉を閉める。 ――確かに予想は付かないでもない。 しかし選りによってこんな時期に、と、デーナは長年の戦友に心の中で文句を言った。 それから10分と経たないうちに、リリアンは起きてきた。 普段は早起きで寝起きのいい彼女だが、身重の身体を抱えては流石にだるいようで、まだ眠たげな少し疲れた顔で、とろとろと居間へ歩いてくる。 しかし、興奮した様子でソファに座っているマリとボストンバックを目にして、大きく瞳をひらいた。 「マリさん……!? しかもその荷物……」 「ごめん、リリアン。お邪魔なのはよく分かってるんだけど。でも、少しの間ここに居させて」 「それはいいけど……でもマリさん、予定日もうすぐなのに」 リリアンが部屋を見回してみると、デーナが庭先で携帯から誰かに電話しているところだった。 窓を閉めているので声までは届かないが、怒鳴っているような様子から、相手が誰かはすぐに想像がつく。 「ダンさん……よね? どうしたの、喧嘩?」 おずおずと聞いたリリアンに、マリは石像のように表情を変えず、低く答えた。 「喧嘩にもならないわよ。我慢ならなくって飛び出してきたの」 「はあ……」 「で、あいつったら追いかけても来ないのよ? 信じられる? どうせ今頃、私が居なくて清々してるのよっ!」 「そんな訳ないじゃない、もう……本当にどうしたの?」 マリの様子は完全にいじけている風にしか見えない。 リリアンはゆっくりマリの隣に座って、彼女の肩に優しく手を掛けた。 「……分かってるの、私も、逆子のこととか、気が焦ってたの。喧嘩の理由も大した事じゃないんだけど……なんか急に我慢ならなくなっちゃって」 ――肩を落としながらマリが言った。 「1人で来たの? お腹大丈夫だった?」 「ん、それは平気よ。まだ予定日まで何日かあるし……」 リリアンの知っている限り、ダンも今休暇を取っているはずだ。 そのお陰で、この週末が終われば、デーナはすぐ基地に戻らなければいけない。 「ダンさんも初めてだし、焦ってただけよ。居ても私達は構わないけど……早く帰らないとダンさん心配しちゃう」 なんとなく、リリアンは思っていることを口にしてみた。 ダンとマリの喧嘩はそれほど珍しいものではなく、大抵は、一過性のじゃれ合いのようなものだ。しかし今ばかりは時期が悪い。 俯いて何か考えている風なマリの背中を、リリアンは慰め続けた。 するとマリは、諦めたようにゆっくり呟き始める。 「……普段ならね、別に怒ることでもなかったの。でもあいつったらこれから父親になるっていうのに、子供っぽいばっかりで、不安になったのよ」 「マリさん……最初から完璧なお父さんなんて、いないんだから」 「そう? リリアンとこは? 文句の付けよう無いじゃない。フレスク指揮官あいつより5つも年下なのに」 「それはっ」 ――居間には大きな窓があって、そこから庭に出られるようになっている。 デーナはまだ、ダンに電話を通じて何か怒鳴っている最中のようだった。そんな姿を見ながら、リリアンも小さく肩を落とす。 確かにデーナは文句の付けようがなかった。 父親として、夫として―― 考えられる限りの愛情と庇護を与えてくれている。いつだって落ち着いて、でも、とても情熱的に―― しかし、デーナが平均的を遥かに越えているのは、リリアンもよく分かっていた。 「……マリさん、デーナと比べちゃ、ダンさん可哀想」 「…………」 リリアンの台詞に、マリが眉を寄せて押し黙った――それが明らかな事実だからだ。 「きっとすぐ迎えに来てくれるから……ね? そうしたら一緒にご飯でも食べよう」 ダンは確かにすぐ迎えに来た。 ――けれど、こちらにも何か言い分があるのか、むっつりとした表情のままで。 結果、フレスク家の居間に、ダンとマリ、2人の仏頂面の客が向き合うかたちになっていた。 「ど、どうしよう……何か言うべき? 甘いもの出せば、2人の気分も少し落ち着く……?」 肩を狭めながら、小声で呟いたリリアンに、デーナは首を振った。 「放っておいた方がいいだろう。勝手に仲直りするよ。それより、お前の気分は? まだ食べてないな」 「ん、平気」 デーナとリリアンは台所に引っ込んで、ダン達にプライベートを与えていた。 といっても、大きな家ではない。 台所からでも居間の物音は充分聞こえる造りになっている。どうも、2人の客人はまだ、お互いにだんまりを決め込んでいる様だった。 デーナは椅子を一脚出して、そこにリリアンを座らせ、クリームとジャムを乗せたパンを差し出す。 この甘い組み合わせは、リリアンの好物だ。 リリアンは微笑んで、大人しくそれを受け取った。 ――最初のうち、リリアンはこれを戸惑っていたものだ。こうして、過ぎるほど優しくしてもらえることに。 しかし、断ったり躊躇していたりする方が、デーナの機嫌が悪くなるのに気が付いたので、今では素直に甘えることにしている。 今の2人の間の、暗黙の了解のような感じだ。 「私達、ああいう感じの喧嘩、したことないですよね」 パンを齧りながら、そう言ったリリアンの口元を、デーナがそっと払う。 「しようがないから、かな、俺とお前じゃ」 「……どうして?」 「自分で考えてみるんだな。するよりしない方が良いだろ、どちらにしても」 そして、気が付くと座っているリリアンの前に、デーナが膝を折っていた。 視線が同じ高さになる――目と目が合うと、どちらからともなく微笑んで、唇が近付いてゆく。 リリアンは瞼を閉じた。 そして、愛する者の吐息をすぐ傍に感じて―― 「デーナ……」 甘く呟いた、その、すぐ後だった。 ガッシャーン! という、派手に何かが壊れる音が、甘い展開を破った。 デーナとリリアンが弾かれたように顔を上げる。 ――音がしたのは、どこから、と考えるまでもない。居間だ。 デーナはすぐ立ち上がった。そして振り返って、同じように立とうとしていたリリアンを止める。「ここにいろ」 と低く言って、台所を出て行った。 (え、え、え……) 何が、何が起こったの―― ここにいろ、と言われたのも忘れて、リリアンは残された台所で立ち上がった。 リリアンが廊下に出ると、大きな声が聞こえてくる。 「すぐに迎えにも来なかったくせに、偉そうな顔しないで!」Mbr< 「なんでそうなるんや! マリさんが1人にさせてくれっちゅうから、追いかけたいのを必死で我慢してたんやろうが!」 「分かってないのね! だから子供だって言ったのよ!」 ダンとマリだ。 内容は、気が遠くなりそうなほど、ただの痴話喧嘩にしか聞こえない。 しかしリリアンは胸が高鳴って、不安になるのを抑えられなかった。マリは予定日まであと1週間だけの身体だ。 リリアンは慌てて台所を出て、廊下を過ぎ、居間の入り口に向かった。 扉を開ける――と、突然リリアンの目の前に、何かが飛んできた。 「え……きゃっ」 ぽす、という情けない音と一緒に、それがリリアンの顔に当たって、そして……足元に落ちた。 突然のことに、リリアンは驚いて立ちすくした。 顔に当たった物の正体は、ただの羽入りの、コットンカバーの、軽いクッションだ。 投げたのはマリだったのだろう、力も早さもなかった。華奢なリリアンにさえ、痛くも痒くもない。が―― その場に沈黙が走った。 急に、体感温度が冷え込んでいくような感じがする―― 「やっ、リリアン……っ、ごめん!」 「リリちゃん、平気か!?」 「だ、大丈夫。でも2人とも――」 駆け寄ろうとしてきたダンとマリに、リリアンは首を振った。 ――けれど、もう遅いだろうことは、皆分かっている。 「――出て行け」 デーナの低い声が響いた。 「ちょ、ま、待て、デーナ! 俺には妊婦がおるんや、今ばかりはっ」 「――俺にもだよ」 普段から低いデーナの声に、今は唸るような唸るような凄みがあった。 こうなったデーナには、どうしたって敵わない。それが分かっていたから、ダンは慌てた。自分1人ならともかく、ここには臨月のマリがいる。 もちろん、デーナが妊娠中の女性に何かをするような男でない。 が――リリアンが関わっているとなると、話は違う。 「デーナ、待って、私大丈夫だったから……ね……っ」 リリアンが焦った声でそう懇願したが、時はもう遅い。 「――二人とも出て行け! 今直ぐだ、2度と戻ってくるな!」 空気を震わすような怒声が響いて、ダンはマリを連れて急いで部屋を後にした。 マリはすれ違い際に短く、リリアンに謝って、そしてダンに従って出て行く。 思うと一瞬の出来事だった。 部屋はまた昨夜と同じく2人きりになって、静かになる。 最初2人を驚かせた音の残骸だろうか、割れたコーヒーカップが、テーブルの下に転がっている。 「デーナ……」 デーナはゆっくりリリアンの傍へ来て、足元に落ちていたクッションを拾って短い溜息を吐くと、それを近くの台へ乱暴な感じで置いた。 「……来るなって言っただろ。こんな物だから良かった」 「びっくりしちゃって……」 「こっちの台詞だ」 デーナの腕がリリアンの肩に回されて、ぎゅっと。強い抱擁が交わされた。 抱きながら、デーナがリリアンの髪を撫でる。 安堵の溜息のようなものが耳元に聞こえて、リリアンは目を閉じてデーナの背を抱き返した。 「でも、ダンさん達、追い出しちゃ駄目。一緒にご飯食べようって約束したのに……」 「……あいつら」 と、恨めしそうなデーナの声に、リリアンは小さく笑った。 「あの2人がいなかったら、私達、ただの給仕係と指揮官のままだったかもしれないから――」 ――それがデーナの、ダンへの弱みだ。 こうして結ばれてからというもの、デーナとリリアンの仲は、周囲が溜息を漏らすほど良い。 それまでの過程は、困難なものであったけれど。 逆にダンとマリの仲は、良い時は良いのだが、こうして定期的な喧嘩が恒例になっていて、その度に巻き込まれるはめになっている。 どうせすぐに仲直りするのだから放っておいても構わないのだろうが、リリアンにこう言われると、デーナとしても単純には見放せない。 「今回だけだからな」 デーナはそう言って、少しだけ腕を緩め、リリアンの瞳を覗いた。宝石のような薄茶色が、嬉しそうに輝いている。 額と額が、触れ合う。 お互いに少しだけ首を傾げて、先刻、タイミングを失ったキスをもう一度……と。 「デーナ、大変だ! 助けろーー!!」 ――その時、またもダンの大声が響いた。 「あの野郎……」 「デ、デーナっ、何か大変だって……っ」 慌てて顔を上げたリリアンに対し、デーナはそのままだ。しかし玄関先から叫ばれるダンの声は続く。 「破水や! こんな時にこんな所でっ、マリさん大丈夫か、救急車か!? いや、デーナ、車出せー!」 デーナとリリアンは顔を見合わせた。 一体、今日は朝から何という日なんだ――、デーナはそんな頭痛を抱えたまま玄関に出た。 リリアンも後ろから付いてきたが、この時ばかりは待っていろとも言えない。 「マリさん……っ」 リリアンがマリに駆け寄った。マリは門を出る直前で、お腹を抱えて座り込んでいた。リリアンも合わせてしゃがみ込む。 「どうしよう、痛い? マリさん頑張って、今車出すから……」 「ごめ……リリアン、迷惑かけた上に、こんな」 「そんなのいいの。どうしよう、ね、これ掛けて」 リリアンは自分が羽織っていたショールをマリの肩に掛け、顔を上げた。 ダンはその傍でオロオロしていて、デーナは家から車の鍵を出してきて、エンジンをかけ始めたところだ。 「ダンさん、マリさんの手、握っててあげて」 「お、おう!」 「嫌よ、離してよ、この馬鹿っ!」 リリアンに言われて差し出されたダンの手を、マリは拒否した。驚くリリアンと、眉を詰めるダン――デーナは既に車を門先に出していた。 「ええ加減にせえ!」 ダンが声を上げた。今までの大声とは違う、本当に怒気を含んだ声で。 「俺が情けないのは分かってる。俺はガキや、何してええのかも分からん。細かい事なんかに気を回せられん。けどな、それは愛がでかいからや!」 「な、何、変なこと……」 「笑いたければ笑えよ! けどな、この馬鹿男と結婚したのはお前なんや。嫌だろうと何だろうと、お前も赤ん坊も離してやらん!!」 ダンがマリを"お前" 呼ばわりするのを、リリアンは初めて聞いた。 驚いて目を瞬いているリリアンを尻目に、ダンは、身重のマリを軽々と抱き上げると車へ向かった。 運転席にはデーナがいる。リリアンも慌てて後を追った。 遅れてリリアンが助手席に入ると、ダンとマリは後部席で手を握り合っているところだ。 陣痛の波が少し引きはじめたのか、マリは少し落ち着いた表情で、ダンの胸に顔を預けている。 「……きっと、赤ちゃんが、お父さんとお母さんに仲直りして欲しかったんですよ」 リリアンが後部席を振り返ったまま言うと、ダンは満足とも何ともつかないような笑顔を見せて、車が発進するとマリの肩を抱いた。 |
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