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愛が滅びないのには、理由がある。
――誰かがいつか、そんな事を言っていた。
何故ならそこに、未来を築く力があるからだ、と。
未来を作り、私達を生かす力が と……



Arpeggio 7: Raison d'Etre II



体調とは、やはり、心に左右されるのか――
ひどかった吐き気も、気だるかった身体も、デーナに事実を知らせ病院で診察を受けてからここ数日間、ずいぶんと軽くなっていた。
当初は、仕事を休むべきかもしれないと考えていたリリアンだが、今のところその必要はなさそうだ。
マリと同じように少し時間を調節してもらった以外は、以前とあまり変わらない。
――変化といえば、そう、デーナが給仕場を訪れる回数が増えたことくらいだ。







「浮かれてるのは周りの方よね。こっちは、あんまり実感がないのに。何か変な感じよ、リリアン」
「マリさんもなんだ」
――夜、寮の部屋の中で。
普段より心なしか早い時間、2人はすでに仕事を終えてくつろぎ始めていた。
リリアンが淹れたミルクティーを飲みながら、繰り返される他愛もない会話。
内容といえば、時々"その" 話題にも触れるものの、今まで通りだ。あの後リリアンの妊娠も周知のものとなったので、もちろんマリも知っている。
最初こそ、マリはリリアンがすぐに彼女へ相談しなかったことを叱責したが、それはそれ。
今ではお互いの好事を喜んでいた。

人生の中で、女性として、こんな風に幸せで充実して、誇らしい時期は他にそうない。
そんな思いは2人とも同じだったから、自然と心も広くなる。

助け合おう、という約束をどちらからともなくして、それを忠実に守っていた。

「あんな風に変わるなんて思ってなかったのよ。まぁ、リリアンのとこには敵わないけどね! 花なんて、誕生日でも貰えなかったのに」

――と言って、マリは机の上に生けられた花束をつついて、ふんふんと顔を近づける。
明るい黄色のバラと白い小花が混じった、その可愛らしい花束は、どこからかダンがマリに都合してきたものだ。リリアンは小さく声を漏らして笑った。

「ダンさん、凄くいいお父さんになりそう。きっと沢山子供の面倒見てくれるの」
「――甘いわね。一緒になって遊ぶだけで、子供が2人居るみたいになるのよ、きっと!」
「賑やかでいいな、楽しそう」
「何よ、リリアンってば。私のトコばっかりみたいに」

マリは、そう言うと隣に座るリリアンへ手を伸ばして、肩に触れた。
優しく肩に置かれた手に、リリアンは瞳を上げて微笑み返す。が――マリは逆に怪訝そうに首を傾げた。

「気分悪い?」
「う、ううん、どうして?」
「少しそんな感じがしただけ。リリアンって時々、消えちゃいそうで怖いの。あんまり綺麗だからかしらね、"実は私、空から来た天使でした。そろそろ天へ帰ります" なんて言って、ある日突然どこかへ行っちゃいそうで」
リリアンは驚いて目を瞬き、そして、すぐ可笑しそうに表情を崩した。

「もう、急に変なこと……おとぎ話をする練習?」
リリアンはくすくす笑いながらそう言った。しかしマリの方は、口元こそ苦笑いをしるものの、目は笑っていない。
「本気よ。誓ってもいいわね、フレスク指揮官だって時々そう思ってるのよ」
「まさかっ」
「聞いてみなさい、絶対そうよ」

――狐につままれたような気分。
リリアンがすぐに返す言葉を見付けられないでいると、マリはもう一度、"聞いてみなさい" と念を押すように言って、ベッドの縁から立ち上がった。
鼻歌を低くきざみながら、お茶のお代わりをカップに注ぐマリの後姿。
"消えちゃいそうで怖いの"

まるで今からしようとしている事を見透かされたようで、リリアンの鼓動が少し早くなった。



――次の日の夕方。
仕事を終えたリリアンが、女医であるアメリアのところに顔を出すと、すぐに歓迎の笑顔で迎えられた。
アメリアの個室は他の診察室よりずっと明るい雰囲気で、机の上には小さな花まで飾られている。
彼女自身も、パステルピンクのシャツに巻き上げられた髪という、爽やかな格好だ。リリアンも微笑み返して、後ろ手にドアを閉めた。

アメリアは椅子を指差しながら言った。
「昨夜、電話を貰ったときは少し驚いたわ。でも大歓迎よ、座って。具合はどう?」
「ありがとうございます。実はあれからすぐ、急に楽になって……朝が少しだるいくらいです。それ以外は本当に今まで通りで」
椅子に座りながら、リリアンが答える。アメリアは嬉しそうに目を細めた。

「本当? 良かったわ、旦那さまも安心してるでしょう」
「あ、はい……その節は」
「仲良さそうだったものね。心配かけちゃだめよ、あんなに大事にしてくれてるんだから」

明るく、しかし強く。アメリアはそう言い切って、リリアンにウィンクをして見せた。しかしリリアンは逆に、何か言いたげな切ない笑顔を返すだけだ。
何かある――というのは、アメリアもすぐに気が付いた。
リリアンは分かり易いし、昨夜、遅めの時間に電話を受けた時点で、特別な話なのだろうと予想は付いていた。リリアンが理由もなく夜、人に電話をよこすタイプにはとても見えない。

「相談事ね……? 遠慮しちゃだめよ、どうしたの?」
アメリアの優しい口調に、リリアンは唇を結んだまま数回小さく頷いた。

「はい、実は……先日お話したことで、変えてもらいたいものがあって――」







リリアンが話終えると、アメリアは走らせていたペンを止め、深い溜息を吐いた。
そして、すぐリリアンに答える代わりに、立ち上がるとアメリアは壁にある時計に目をやる。
「少し時間があるから……外でお話しましょうか。天気もいいし」



外は確かに過ごしやすい、いい陽気だった。日中の暑さはなく、夕暮れの、太陽の名残りが肌に気持ちいい。
病院に併設された公園の端を、2人は最初、他愛のない会話をしながら歩いていた。
「このままだと出産は冬になるわね。真夏よりはずっと楽よ、ふふ」
「そうなんですか? 知らなかったです。よかった」
「そうよ、それにその後もね。暑い中に赤ちゃんの世話って、すごく大変だから」

――アメリアはそう言うとピタリと歩を止めた。そしてリリアンを振り返る。
リリアンも彼女を見つめ返した。

「気持ちが分からない訳じゃないの。私も女だし……貴女の言いたいことは良く分かるわ。その考えを否定するつもりはないの」
アメリアはそのまま、落ち着いた声で話し続けた。
「もちろん、それは万が一の事。私達も当然、そんな選択が必要にならないように努力します。でもね」

――風が乾いていた。日が、地平線に差し掛かっている。
リリアンの瞳にその夕暮れが反射され、幻想的な飴色をつくる。

「貴女一人で決めちゃだめだわ。彼ときちんと相談して決めなきゃ――もし万が一の時、残されるのは彼なの。それを分かってあげて」
「分かってます。でも……この子だけは、犠牲にしたくないんです」
「じゃあ自分が……って? それはリリアンちゃん、自分の存在価値を分かってないわ。少なくとも彼にとっての貴女は、何かの為に犠牲に出来るものじゃないはずよ」

(存在価値……?)

リリアンは何か言おうと口を開きかけて、そして結局、それをつぐんでしまった。
アメリアの言葉が、何度か、鐘のように心の中で響く。

「私が言う事じゃないわね。彼に直接聞いてみなさい」
「先生……」
「いやね、アメリアって呼んでちょうだい。とにかくもう一度彼と話してみて。それで決心が変わらないなら、また話を聞くわ。いい?」

結局、リリアンの願い出はすぐには受け入れてもらえなかった。
――何かあった場合、赤ん坊よりリリアンの身体を優先するという、約束の変更を。
それは落胆と同時に、安心でもあって。
デーナに黙ってこんな事をするのは、やはり、どうしたって辛くて後ろめたい。

「……分かりました。もう一度、話してみます」
とリリアンが答えると、アメリアは柔らかく微笑みながら数回頷いた。

"存在価値"
"消えちゃいそうで怖いの"
"聞いてみなさい――"

――自分の存在価値とはなんだろう。
そのまま今夕は非番だというアメリアと散歩を続けながら、リリアンは頭の隅でずっとそんな事を考えていた。

デーナにとっての自分――愛してくれているのは知っている。大切にしてもらっているのも、分かっている。
柔らかい羽で包むように優しく、堅固な鋼で囲うように強く。
それが彼の愛の形なのだと、そう理解していた。
彼が人を愛するとき、ああして、その愛しい存在を守ろうとするのだと――

それが自分だから、では、なくて。

貴方はこんな風に人を愛するの。こんな風に、それを守ろうとするの――



「あら、噂をすればと言うべきかしら?」
そのまま十数分が過ぎたころ、アメリアが突然素っ頓狂な声を上げた。半歩ほど彼女の後ろにいたリリアンも、何だろうかと、ちょこんと首を伸ばした。
すると視線の先に入ったのは、ずいぶんと人の目を惹く――2人の男。
「デっ、デーナ!? ブローデンさんまでっ」

――デーナとガルの2人だ。
リリアンが声を上げたとき、2人はすでにリリアンとアメリアを視界に据えていたようで、特に驚く様子もなくこちらに向かって歩いてくる。
アメリアがチラリと視線を流して、リリアンの顔を覗くと、大きな瞳が狼狽に揺れていた。

「良かったわね、まさに据え膳ってやつじゃない」
アメリアが耳打ちするとリリアンは
「こ、言葉の使い方違います……っ!」
と言って眉を上げた。が、その様子は、ふわふわの仔猫が毛を立てて怒っているようにしか見えない。つまり――もう少し、悪戯(いたずら)してみたくなる、ということだ。

「いい男が2人ねぇ! お〜い!」
「きゃあっ、アメリア先生っ」
大きく手を振ったアメリアを、リリアンは声を上げて止めようとした。しかし無駄な努力だ。
「お姫様のお迎えかしら。ちょうどそろそろ返さなきゃって思ってたところだったし、良い感じの登場ね」
「〜〜……っ!」

リリアンの困惑とは裏腹に、距離は数秒としないうちに縮まって、男2人と女2人が向き合う形になった。
夕方の芝生の上、彼らの他には、ちらほらと休憩中の看護婦が歩いていたりする程度だ。

向き合って、最初に口を開いたのはガルだった。
「実は今日、俺が検診で――ってフレスク指揮官に話したら、ついでだから君もって話になったんだよ。それで2人で給仕場行ってみたら、サリさんが"もう先に行っちゃったわよ" ってね」
「…………!」

慌てるリリアンを隣に、アメリアは今にも噴き出しそうな顔だ。ガルの方も悪戯っぽく微笑んでいる。
デーナの視線はといえば、今にも何か言いた気な感じでリリアンを据えていた。

「怒らないであげてね。今日は少し、女同士でしたい話だったの」
アメリアは、男2人を見上げ、リリアンの背に片手を添えながらそう言った。
「――ね?」
「は、はい。あの……デーナ、ごめんなさい、黙ってて」

相槌を求められて、リリアンはなんとか頷きながらデーナと向き合った。デーナもガルも、下は制服のままで、上はただの黒いTシャツという格好だ。
それはそれで、上下揃った制服を着ている時より威圧感がある――
と、思ってしまったのは、服装のせいだけではないのかもしれない。

「――怒ってはいないよ。一人で歩いてきたのか? 言ってくれれば送ったのに」
「まだ訓練中の時間だったから……」
「関係ない。せめて先に、行くことだけは言ってくれ。いいな」
「ん――」

――と、始まった2人の世界に、ガルとアメリアは揃って視線を泳がせた。
こちらまで勝手に頬が緩みそうな気分で、ガルもアメリアも気が付くと自分の口元に手を当てていた。
デーナの腕がリリアンの頬へ伸びる……
この時点で、自分達は今すぐこの場を去るべきだと、ガルもアメリアも言葉なく同意した。

「あー、フレスク指揮官、俺一人で平気ですから。歩いて帰ります。」
「ええっと……私も、そろそろ帰らなくちゃ。じゃあね、リリアンちゃん、お大事に。」
「え! ま、待ってください……っ」

ガルとアメリアの台詞は明らかに棒読みで、その意図は明確だ。リリアンが慌てて止めようとした時には、すでに2人は背を向けて歩き出していた。
デーナは黙って去っていく2人の後姿を見送った。
――正確には、視線はリリアンに置かれたままだったけれど。






「君は彼女の事が好きなんじゃないの? そんな風に見えたんだけど。あんな風に2人を残して、平気?」
病院のエントランスに差し掛かり、デーナ達が見えなくなったのを確認すると、アメリアはガルに話しかけた。
アメリアのからかうような口調に、しかし、ガルは眉を上げただけで、表情を変えずに答える。

「夫婦ですよ、あの2人は」
「もちろんよ。そうじゃなくて、君の心情的にって意味で。楽じゃないでしょ」
「しょうがないでしょう。俺が楽でも楽じゃなくても、ああするのが一番なんだから」
「そう? うーん……君はいい男ね。顔は綺麗なのに、中身はしっかり軍人してる」
「――師匠ゆずりで」
「師匠ってあの旦那さま? ああ、雰囲気近いものね」

――ガルはアメリアに視線を下ろした。
しっとりした黒髪をシニヨンにした彼女は、今気が付いたが、なかなかの美形だ。女性にしては長身で、リリアンとはまた違う女性らしさがある。
少し年齢が分かり難い感じの、明るい、華やかな笑顔。

アメリアもガルの視線に気が付いて顔を上げた。目が合うと急に、お互い逃げられなくなったような、妙な緊張が2人の間に走る。

「……ヤダ」
可笑しそうな声を上げたアメリアに、ガルが苦笑いをする。
「嫌なのはこっちですよ。惚れてた女の主治医なんて」
「おまけに産婦人科なんて、ねぇ?」

アメリアは陽気な笑いを隠そうともせず、くすくす笑い続けた。ガルもガルで、彼女を推し量るような視線を崩さなかった。

「……きっと私年上よ。29歳。来年は30歳で、その次は31歳」
「数くらい数えられるよ」
「あら、じゃあその真剣な瞳はなあに?」

物怖じしない口調に、知的な空気。気の強さもまた――嫌いではない、と、ガルは思った。
交代の時間帯なのか、仕事を終えた病院のスタッフ達が数人、すれ違いざまにアメリアに挨拶する。皆揃ってガルの方に短い視線を向けたが、ガル自身はそれに構わなかった。アメリアもだ。

「――気は合いそうな気がするよ。始めのきっかけとしては、それで充分だろ」
「そう? 試してみなくちゃ分からないじゃない」
「じゃあ試せばいい。落胆はさせない」
言い切ったガルに、アメリアは笑いを噛殺しながら首を振った。

「だからヤダって言ったのに、もう……」







車の中に入ると、外の空気や雑音が遮断されて、文字通り2人だけの空間が出来る。
優しく、しかし長いキスが交わされて、リリアンは解放されると熱い溜息を吐いた。
「……怒らないでね」
「怒ってないって言っただろう。大丈夫ならもういいよ」
「本当?」

――といっても解放されたのは唇だけで、身体はしっかり包まれたまま。
肌の熱と、力に、感じる安心。
この気持ちを……デーナはどのくらい知っているのだろうと、そう思うとまた胸がきゅっと締め付けられる。

――自分の、存在理由。
リリアンはデーナの胸に顔を預けたまま、静かに話し始めた。

「昨日ね、マリさんに言われたの。時々、私がある日突然どこかへいなくなっちゃいそうな感じがするって。デーナもそう思ってるんじゃないかって」
そう言うと顔を上げて、デーナの表情を伺う。
「本当に……そう思う?」

デーナはすぐには答えなかった。ただゆっくりリリアンの髪に触れ、流すように手を彼女の首元まで運ぶと、額に口付ける。

「そうだな。思っているというか、恐れてるよ。そうなったら――」
指が、すっと首をなぞった。リリアンがそこに自分の手を重ねると、その肌は、いつもより少し冷たい感じがした。

「そうなったら……?」
「分からない。碌な事にはならないだろうな」

デーナにとっての自分。その価値と、理由。
リリアンがデーナの瞳を見つめると、そこには何か、激情を訴えようとする曇りがあった。
それでも、微笑むと切ない笑顔を返してくれる。

(違うの……デーナにとっての私、だけじゃなくて)
合わせた手と手を、ゆっくり下ろしていく。車のシートがそれを受け止めて、重なる。

(私、は……?)

――"それ" が必ずしも起こると決まっている訳じゃない。
それでも今まで、そうなってしまった時に、残されるデーナの事ばかりをずっと考えていた。自分が居なくても彼は幸せになれる、と――そんな事を。
リリアンはもう一度繰り返されたキスに目を閉じた。

(私が居たいの。貴方の隣で、ずっとこうして――)

そのキスは軽く、触れるようなものだ。けれどデーナの愛情を感じるには充分な熱さ。

――今日は愚かなことをしてしまったのかもしれない。
リリアンはそう思って、アメリアの台詞を思い出した。"自分の存在価値を分かってないわ"
今、リリアンの思うような意味で、アメリアがそれを言った訳ではないのだろうけれど。

しかしその言葉はここで、デーナの腕の中で、意味を変えていった。

「そんな事にはさせない。いいな、大丈夫だから、余計な心配はしなくていい」
デーナの言葉に、リリアンはこくりと頷いた。
「はい……今日は、黙ってごめんなさい……」



貴方と一緒に歩いて行きたい。
この道を、この未来を――
どちらかなんて選べない。だから強くなるの、そうして掴まなくちゃいけない。
貴方と、この子と、皆で一緒に歩いて行く未来を――





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