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深ければ深いほど、愛は不安をも奮い起こす。
知って欲しいのは唯一つ――
この不安を和らげる事が出来るのは、あなただけだということ を



Arpeggio 6: Raison d'Etre I



「聞いて、ね。怒ったり、止めたりしないで……」
――と話し始めたリリアンの言葉を、確かに、デーナは何も言わずに最後まで聞いていた。


リリアンが一通り説明し終わった時のデーナの表情は、無表情というよりは、硬い――と言うべき、厳しく近寄り難い雰囲気だった。
そんな顔でじっとリリアンを見て、そのまま、抑えた声でゆっくりと言った。
「――どうして先に言わなかった?」
その低い声に、リリアンは背筋をピクッと震わせた。それはデーナにも簡単に伝わったはずだ。リリアンの身体はまだ、立ったままデーナの腕に支えられている。

リリアンが答えられないでいると、デーナは彼女の身体を気遣ったのか、彼女を傍のベッドの縁に座らせた。
デーナ本人は、リリアンの隣に座ることよりも、彼女の前に膝を折ることを選んだ。
――こうした方が、同じ視線で話が出来る。

「言ってくれれば話は違った筈だ。リリアン、お前はまだ怪我からそんなに経ってない。普通の出産ならともかく、そんなリスクのあることはさせられない」
「でも、お医者さんはもう完治したって」
「治ったからって何でもかんでも出来る訳じゃない。少なくとも俺は――させられない」

位置の関係で、今はデーナの方がリリアンを見上げる格好だった。
それはほんの少し。ほんの少しだけ、見下ろされるよりは楽な感じがしたけれど、それでもリリアンは不安と緊張を消しきれないまま。

「怒った……?」
厳しいような、それでいて優しいデーナの視線に、リリアンはそれだけ言って瞳を曇らせた。
「怒る、怒らないの問題じゃない」
それがデーナの答えで、2人は見詰め合ったまま黙った。しばらくの沈黙の後、リリアンは焦ったような声で口早に続けた。

「ちゃんと、ちゃんと気を付けるから大丈夫っ。無理はしないようにするし、お医者さんの言う事も聞くし、仕事だって無理ならお休みして」
「リリアン」
「大丈夫だから、ね? 心配しなくても私……」
「リリアン、止めるんだ」
「でも、デーナ……」

声が震えてしまったのは――何故だろう。
この人は自分を傷つけるような事はしない、そう信じているのに、今回ばかりは"何か" が起こってしまいそうな気がして。リリアンは無意識に自分のスカートの裾をキュッと握った。
そう、デーナは自分を傷つけない。
それは逆にいえば、リリアン本人が彼女自身を傷つけるような真似に出れば、彼はそれを止めるだろうということだ。

その代償が何でも。デーナ自身の心でも、リリアンのそれでも。
そして――

「赤ちゃん、もうここに居るの……私とデーナが愛し合った証拠でしょ? だから……」

デーナはすぐにはそれに答えなかった。しばらく、揺れるリリアンの瞳を見て、そして、不安気に袖を掴んでいる彼女の手を取った。
最初は硬く握られていたその手も、デーナの掌の中に納まって、溶けるように次第に力を抜いていく。
自分の掌の中にある手に、デーナは視線を落とした。柔らかく小さい、女性的な手。
――自分が、守り抜くと決めたもの。

「だから? "だから" 俺にどうして欲しい? それが何を意味しているのか、自分で分かってるな?」
そう言って、デーナはまたリリアンへ顔を上げた。

「お前はまだ若いよ。落ち着いてからもう一度作ってもいいし、必要なら養子でも何でも構わない」
「でも……っ」
「――俺はお前を失えない。分かってるだろう」

強い断定の口調で、デーナは言った。言って、ゆっくりと立ち上がる。
そのまま静かにリリアンが座っているベッドへ背を向けて、短いが深い溜息を吐くと、天井を仰ぎ見た。
リリアンはそんなデーナの背中を見ながら、視界が涙に揺れていくのを感じた。
(だめ、今泣いちゃ……)
――泣くのは卑怯だ。苦しいのは自分1人じゃない筈なのに、今ここで泣くのは、彼に対して酷だ……と。そう思って、リリアンは何とか零れる涙を止めるために、唇を噛んだ。

「とにかく、明日医者に行こう。詳しい話はそれからだ」

デーナはリリアンに背を向けたままそう言ったから、その時の彼の表情は、リリアンにも分からない。
今は、確かに他にどうする事も出来なくて、リリアンはそれに頷いた。

その夜は2人で過ごした。けれど、言葉はいつもより少なかった。
そして、自分を抱き締めるデーナの腕が、いつもより強かった理由は――もちろん、リリアンにも分かっていた。







そして翌朝――
まだ周囲には黙っておいて欲しいとリリアンは言っていたが、流石に、ペキン大佐にまで伝えない訳にはいかない。
黙っておく事が出来ない訳でもないが、どう考えても得策とは思えなかった。
朝一番にデーナがペキンの前に顔を出し、自分とリリアンの休暇を申し出ると、ペキンは特に驚くでもなく座っていた執務机に両肘を付いた。そのまま手を組んでその上に顔を乗せる。彼にしては随分と砕けた姿勢だ。

「良い知らせを受けたのだと思っていいんだな、デーナ。それにしては冴えない顔だが」

表に出してるつもりはなかったのに、今回ばかりはペキンにもデーナの考えが伝わったようだ。
隠していても意味がない。そして、よく考えれば、ペキンは当時の様子を知っている数少ない人物の一人でもある。

「ご存知でしょう、彼女の母親が出産で亡くなっているのは」
デーナは立ったまま、腰に片手を当ててそう言った。上官に対してする仕草ではないが、今は、上官としてのペキンではなく一人の男としての彼と話をしているつもりだった。
「……ああ」
ペキンがデーナを見る瞳も、部下を見るそれとは少し違った。尊大でいて優しい、父親のような視線。

「もちろんだ。昨日の事のように覚えてるよ。あれからしばらくのアレツは、見ていられなかったからな。しかし――」
ペキンは顔を手から上げ、背を正した。
「――過去の話だろう。時々リスクがあるのはどうにもならない。そこまで心配していたら、何も始まらないだろうが」
「母親だけじゃなく、さらにその母親まで同じだったらしいんです。それはご存知ないでしょう」

デーナが低くそう言うと、ペキンは片眉を上げた。
――確かにそれは知らなかった話だ。

「専門的なことは分からないし、それは今から医者に聞くところです。ただ……」
「……余りリスクが高いなら、考えた方がいいな。確かに……しかし女性には辛い話だろう、特に彼女の様なタイプには」
「だから"冴えない顔" なんですよ」

そう言ったデーナの顔を見て、ペキンは少しの間押し黙った。
しばらくするとゆっくり席を立って、窓越しに外を見る。まだ太陽は低く、朝独特の清清しい青空が広がっていた。

「お前とアレツは時々、妙な所で似ているよ。惚れる女性までそっくりときた」
ペキンは外を見ながら、静かにそう言った。
「そんなに似てましたか」
「お前とアレツが? それとも彼女達がか?」
「リリアン達です」

デーナの言葉に、ペキンはどういう訳か表情を緩めた。何か、幸せな過去を思い出しているような顔で。

「――そっくりだったよ。髪と目の色だけは違うがね。初めて成長した彼女が私に会いに来た時は、何かの冗談かと思ったくらいだ。顔だけじゃなく雰囲気も体型も声も、よく似ている」

もし何もなければ、微笑ましい話だと思った筈だ――
けれど、今ある問題を前にしては、微笑ましいどころか慰めにさえならない。
それはもちろんペキンにも分かっているのだろう。一度ゆっくりと首を横に振って、無言でデーナとリリアンの休暇許可証にサインを記した。







医師は女性で、しかも、想像したよりもずっと若く柔らかい雰囲気の人物だった。
一年ほど前まで別の病院に勤務してたらしく、ここの病院の他の医師たちとはまた違った、都会的な雰囲気の女性でもあった。
「貴方達のこと、外科の看護婦さん達が噂してるのを聞いたことがあるの。まさか受け持たせて貰えることになるなんて思わなかったけれど」
最初にそう言って、クスクスと、けれど上品に笑う。
この軍人専門の総合病院で、表立つ事は少なくても、需要は意外にも多いらしい。女性兵士や、リリアンのような者達の為だ。
患者慣れしているようで、分かりやすく的確に説明をした。

まず、リリアンは確かに妊娠していること。
とりあえず今の所は、つわりが多少厳しい事をのぞけば、順調であること――など。

「いくら医学が進歩しても、100パーセント絶対確実で安全なお産というのは、残念ながらないの」
そう前置きをして、彼女は落ち着いた声で説明を続けた。

「確かに、安産の家系というのもあるし、ある程度の遺伝もあります。体格的な部分でね。ただ今は薬や施設もずっと豊富だから、昔よりはずっと安全になってもいます。大丈夫そうな人が難産を経験したりする事もあるし、その逆ももちろん……」

と、そこまで言って女医はデーナの隣に不安げに座るリリアンを一瞥した。
その華奢な身体は、経験から正直に言ってしまえば、確かにリスクの高い部類に入る背格好だ。
はっきりそれを言うべきかどうか、女医は一瞬考えて、短い溜息を吐いた。

「――正直に言わせてね。貴女は確かに通常よりもずっとリスクが高いと思うわ。線も細いし、遺伝的な要素もあるし、一度大きな怪我もしてる」
そこで、リリアンは何か言いた気に口を開きかけた。
しかし女医はその前に先を続ける。話し合うのは全てを言ってからの方がいいと、経験から知っているからだ。

「無理だとか、適していないとか、そいういう事を言っている訳じゃないの。ただ、平均と比べたら難しくなる可能性が高い……という事よ」

その時、リリアンの手に重なっていたデーナの手に、ギュッと力が入るのが女医にも分かった。
確かにこの2人の話は、何度か耳にした事があった。科は違うが、親しくしている看護婦から、それは微笑ましいカップルが居る――と。
あまり噂話に耳を欹てる性格ではなかったが、その話だけは面白そうだと思ったものだ。
その彼らが目の前にいる――しかも、用件はもちろん、彼女の妊娠だ。

診察室に入ってきた2人を見たとき女医が感じた第一印象は、"意外" だった。
もっと単純に言えば、驚いた、ということだ。
噂とは大抵誇張されているものだ。それが彼らに限っては逆だった。

しかし同時に不安にもなった。今自分が言っていることは、事実であるとはいえ、必ず彼らの間に荒波を立てさせる結果になるのだから――

「急いで結論を出す必要はないわ。大事な事だから、しっかり話し合って決めて欲しいの」
と言った女医に、先に頷いたのはデーナの方だった。
リリアンも遅れて小さく首を縦に振ったが、その瞳は明らかに動揺に揺れていた――それが美しくて、吸い込まれてしまいそうだと思ったのは、多分、自分が最初ではないだろう。女医はそう思って眉を下げた。

――きっと彼はこの瞳を失えない。
それが直感的に分かっていたから、彼らのこれからを思って、心中は複雑だった。

それから幾つかの質問が交わされたが、答えたのは大抵デーナの方だ。
最期に女医は名刺と連絡先を2人に渡して、しっかり話し合って欲しいともう一度念を押し、部屋を後にする彼らを見送った。







アメリア・ノベルというのがその女医の名前で、病院から出されたらしい平凡な名刺の裏には、手書きで緊急の連絡先番号が記されていた。
「優しい先生でよかった。少し不安だったから……」
診察室を出てしばらくして、リリアンはその名刺を見つめながらそう言った。
「きっとマリさんも同じ先生ですよね? 時期もそんなに違わないみたいで、心強いし」
「――リリアン」
デーナの声がそれを制した。リリアンはピクッと背を固め、視線はそのまま、名刺を持つ手に力を入れる。

「少し座ろう。その方が話しやすい」

それは病院内の敷地で、整備された瑞々しい芝生に覆われた小奇麗な公園だった。
リリアンが怪我をして入院していた時には、何度かここを2人で歩いたこともある。相変わらず、入院患者がベンチで寛いでいたり、休憩中の看護婦たちが一時の新鮮な空気を求めて背を伸ばしていたりする。
デーナはそれでもすぐに空いている席を見つけて、そこにリリアンを座らせた。

「俺は――いや、その前に聞こうか。お前はどうしたい?」
立ったまま、デーナはリリアンに言った。リリアンはデーナの顔を見上げて、また、名刺を持つ手にキュッと力を入れなおす。

「……産みたいです。デーナは……?」

希望と不安が半々に混ざり合った瞳は、確かにデーナに肯定の返事を求めていた。
デーナも、出来るならそれに応えたいところだ――
もしそれが犠牲を求めても、それはそれで構わなかった。唯一つ、譲れないものを除いては。
しかし今はその"譲れないもの" こそが、求められているのだ。

「聞いただろう、リスクが高いと。俺の答えは分かってるはずだ」
「でも……」
「リリアン、お前もカーヴィング指揮官がどんな思いをしてきたか見てきただろう。俺には出来ないよ、何をどう言われようと、これだけはどうにもならない」
「で、でも……っ、今はお薬もあるしずっと安全だって……私も頑張るから……っ」

カーヴィング指揮官の名前を出した途端、リリアンが動揺したのがデーナにも伝わった。
卑怯かも知れない。しかし、彼の名前を出すのが、今のデーナの心境を知らせるのに最も適っていたのも事実だった。
自分にそれは出来ない――と。
愛する女性を失って、たとえそれと引き換えに自分の子供を得る事が出来たとしても、まともに生きていける自信はない、と――

それは一種のパラドックス……そして皮肉、でもあった。

リリアンがそうして生まれてきた子供であった以上、そのお陰で今、自分は幸せを掴んだのだ。
彼のようには出来ない――そう言いつつも、彼がその犠牲を払ったお陰で、今の自分とリリアンがいる。それは分かっているのだ。
嫌というほど。



(……でも、それでも)
リリアンは短く息を呑んだ。
(これだけは駄目……絶対に)

自分を見下ろすデーナの視線と、強く握られた彼の拳の意味を、分からないわけではない。
不安も、葛藤も。
デーナは子供を欲しがっていたはずだ。それは、当初まだ先の事だと考えていたリリアンよりも、ずっと強く。
家族を亡くしている彼にとって、それはきっと昔の幸せへの回帰をも意味している。

――彼は幸せになれるはず。きっと……
(私がいなくても)
この素晴らしいひとを愛してくれる人は、必ず沢山いる。この子も。

?は吐きたくない。
でも、でも……他に方法が……?

この子を切り捨てたくない。出来る訳がない――愛する男性との間に授かった、大切な命。

答えは簡単で、唯一だった。
自分の代わりはきっと他にもいる。今はこうして彼に愛される幸福を受けているけれど、それは、自分が幸運だったからだ。
彼の傍にいるチャンスを、沢山もらえたから――
けれどこの子に、代わりなんて ない。

「頑張るから……ね、きっと大丈夫だから」
リリアンは手を伸ばして、前に立つデーナの腕にそっと触れた。
デーナは答えなかった。けれど、上半身を屈めてリリアンの額に唇で触れる。ゆっくりと、何かを求めるように。

「もし本当に危なくなった時には、ちゃんと諦めるから……だから……」
「…………」
「もしもの時は、赤ちゃんじゃなくて私を選ぶようにって、ちゃんと先生にも言って……ね、だから、頑張らせて」

季節はもう春だったけれど、その日は少し肌寒かった。
短い沈黙の後、デーナはゆっくりと頷いた。
「分かった――ただ今言ったことだけは、約束してくれ」
と、低く、少し擦れた声で言って。

――リリアンはそれに頷いた。
手のひらの中にある、電話番号の書かれた紙をギュッと握りながら。



楽な道なんて、きっと何処にもない。
不器用に、涙を流しながら進むこの道の先で見つけるのは――
生きる理由。
存在する、その理由(わけ)。

私が、貴方の隣にいるということの、その理由……




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