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新しい日々が始まる。 そこには、想像もしなかったほどの大きな喜びと 溢れる戸惑いが待ち受けている―― Arpeggio 2: Get That Wrong 「あのね、やっぱり貴女に最初に言っておこうと思って……あの人じゃどう反応するか分からないし」 ――寮の部屋に戻ってきたマリが、静かにドアを後ろ手に閉めると、呟くようにそう言った。 唐突なことにリリアンは瞳を瞬く。眺めていた本から顔を上げてマリを見上げると、どうもいつもと雰囲気が違うのがすぐに分かった。 時刻は夜、9時を少し過ぎた頃で、いつも通りのマリの帰り時間だ。 しかし何かソワソワとして落ち着かない、まるで何か悪い事をしてしまった後の子供のような、そんなマリの佇まいだった。 「どうしたの? 何か仕事で問題でも……?」 リリアンが聞くと、マリはまだドアの前に張り付いたまま、首を振って否定した。 「うーん……じゃあ、ダンさんと何かあった……とか?」 と、繰り返しリリアンが質問すると、マリの表情がサッと厳しくなった。ビクっとリリアンが背を改めてしまうような、急な変化だった。 「――リリアン」 「え、あ、あの」 「聞いて。よく聞いて」 「は、はい」 彼女は、明らかに普段と雰囲気が違う。マリは気が強かったけれど、同時に大らかでもあって、これだけ長く一緒の部屋で過ごしても緊張を強いられる事はなかったのだ。それが――今ばかりはリリアンも、狐につままれたような気分だった。 ちょうど一週間ほどの新婚旅行から帰ったばかりで、余計に…… リリアンは息を止めてマリの言葉を待った。 マリは何かを言おうとして――そして急に弦が切れたように、厳しい表情を崩した。 「私…………の」 「え」 そして、マリは確かに何かを言った。しかしそれはリリアンの耳元まで届かない。 リリアンは座っていた椅子から腰を上げると、マリの立っているドアの傍まで歩み寄った。もう一度、マリさん、とリリアンが呼ぶとマリはリリアンの耳元に小さく囁いた。 「私、その……出来ちゃったみたい、なの」 デーナとリリアンの結婚式は、ダンとマリのそれの、約半年後だった。 春生まれのリリアンが24歳になる少し前で……2人が出逢ってから数えると、一年半と数ヶ月が過ぎたころ。あれだけ沢山のことがあったのは別として、まずまず、リリアンが少々若いのを除けば平均的な出逢いから結婚までの流れといえた。 対してダンとマリのそれはいくらか、晩婚、と呼べる種類のものだ。 30代半ばという年齢も手伝って、子供は考えていなかった――と、マリはリリアンに説明した。しかしすべては後の祭りでしかない。 「週末以外は夜中まで駐在してる筈だから……ね? 優しい先生よ」 「でもここだと、話が漏れるかも知れないじゃない。やっぱり次の休暇の時に自分で」 ――マリはそう言ってまごつくと立ち止まった。 その夜。2人はこっそりと、医務室のある本館の建物まで来ていた。 ――とにかく確認をしないことには何も始まらない。 基地の傍にも大きな病院があるが、ここも場所が場所だ。基地では怪我が日常茶飯事なので、かなり施設の整った医務室が併設されている。 2人はそこに辿り着いたところだった。 彼女の手を引いて少し先を歩いていたリリアンも、立ち止まって困ったように眉を下げる。 意外なマリの反応だ。もし立場が逆だったなら、きっとマリがリリアンを引っ張ってきたに違いない。 しかし医務室から数メートルという土壇場で、マリは歩を止めて先に進むのを拒んだ。 「やっぱり止めておくわ」 「でも……きちんと調べなくちゃ。次の休暇はまだ一週間以上先だって……」 「そうだけど、ねぇ、もう! 勘違いかも知れないし!」 「マリさん……」 話によると、マリは1週間前に来るはずだった月の物が遅れている、ということだった。 数日遅れることはよくあったが、これだけ長いのは初めてだ、と――。しかしまだどちらにしても初期だ。 はっきりもしないので、とにかく確かめる必要があった。が…… 「それに、ここの医務室じゃそんなもの置いてないかも知れないじゃない?」 とにかく断る理由を付けようと――マリは苦し紛れにそう言った。しかしリリアンは静かに首を振る。 リリアンも、はい、そうですか とは引き下がれなかった。お互い初めてのことではあるが、一週間以上も放っておいていいとは思えない。 「……前に来たとき、"ここには何でもあるから安心しなさい" って言われたの。女性のための物もって……だから、聞くだけでも」 ――リリアンはここの医師と面識があった。 何度か熱を出したときに世話になったし、怪我から退院した後、デーナが必要以上にリリアンの身体を気遣っていたせいもあって、時々検診に連れて来られていたのだ。 そのせいで、今では親しく会話を交わす仲でさえあった。 男性だが、穏やかな性格の落ち着いた医師だ。年配でもある。 リリアンはそれをマリに説明した。 「…………んー」 「ね?」 「そうね……」 すると、マリの表情が少しポジティブな風に変化したのが見えた。リリアンは安心して、マリの手を握り直す。と、今度は、マリがリリアンの手を強く引いた。 「……だったらお願い、ものだけ貰ってきてくれない? 直接相談するのは調べてみてからにしたいの」 「でも、それじゃ……」 「お願いっ、分かって! 私も結構いい年だし、もし勘違いだったりして大事にしたくないのよ!」 2人はすでに薄暗く照明を落とされた廊下で、しばらくお互いを確認するように見つめあった。 マリの瞳にはどこか、切羽詰ったような焦りが映し出されている。 リリアンは考えた――マリの気持ちも、分からなくはない。しかし、このまま中途半端な状況のままでいる事も出来ない。 ともすると、確かに"それ" が今の所は妥協点なのかも知れない――と。 「……調べてみて本当だったら、すぐにダンさんに言わなくちゃ駄目よ?」 リリアンは声を下げて言った。 「もちろんよ。だから、今だけ」 「本当に本当に、今だけだから……」 「やった、リリアンっ! 恩に着るわ!」 マリは大袈裟に両手でリリアンの手を握って喜んだ。 リリアンは決心したように視線の先にある医務室の扉を見つめ、そしてまたマリに視線を戻す。 マリが自分を頼ってくれているという事実が、リリアンには少し嬉しかった。 ――だから、了解してしまったのかもしれない。 リリアンが医務室の扉を叩くと、"どうぞ" という落ち着いた声が中から響いた。 それに合わせてリリアンが扉を開けると、部屋の中にいた声の主が顔を上げた。リリアンを視線の先にとらえると、一瞬驚いたような顔をする。しかしすぐに嬉しそうに目元を緩めた。 「どうしたんだい、こんな時間に。また風邪かな? 奴に怒られてしまいそうだよ」 そんな冗談交じりの挨拶に、リリアンが小さく笑った。 静かに首を振って、扉を閉める。もう遅い時間で、彼は机で今日一日の日誌のような物をつけている最中らしかった。 「ごめんなさい、こんな時間に……少しだけ、お時間を頂いてもいいですか?」 「どうぞ。一日中あの熊男たちを診た後だ。これでいい夢が見られるかもしれない」 そう言った彼の机の前には、飾り気はないが座り心地のよさそうな椅子が2脚揃えられている。 彼はそのうちの一つを目で指した。リリアンは勧められた通りゆっくりとそこに進む。 もう数度にわたって慣れ親しんだ行為であるのに、場所柄か――最初は少し緊張してしまう。彼もそれを分かっているようだった。 相手をリラックスさせる為の笑顔を見せる。 「緊張しなくていいよ。私ももういい年だ。取って喰いはしないよ」 ――それはもちろん、冗談で言っているのだ。 リリアンがそういった意味で緊張している訳でないのは、彼も分かっている。 落ち着いた、ともすれば少し女性的な物腰と、柔らかい口調。自分を年配だといい、枯れたような態度を取りながらも、どこか抜け目のなさと深い経験を隠しきれていない男―― それがこのクレフ基地の医務室を担当する医師だ。 名前はカールソンと言った。苗字だ。リリアンは何故か彼のファーストネームを知らなかった。 「はい、ありがとうございます。実は少し……相談したい事があって」 「ほう、それは光栄だ。君の相談相手に選ばれたとは」 「実は……頂きたい物があって、その……」 「ん?」 カールソンが青い瞳をきらりと輝かせた。 明らかな好奇の輝きで、リリアンは咽に出しかけた言葉を急に詰まらせてしまう。 (もしかして……私、すごい事しようとしてる……?) ――という考えが頭を巡って、同時に突然、緊張と恥ずかしさがリリアンを襲った。 そしてマリがここに来るのを渋っていた理由を肌で理解する。 こんなにも勇気が必要な一言だったなんて……と、今更ながらそれを目前にして実感して。 「どうしたかな……?」 「あ、あの……っ」 リリアンは膝の上に置いていた両手にキュッと力を入れた。 マリの一大事なのだ。しかも彼女は自分を頼ってくれている。助けになりたい…… そう、後退しそうな気持ちをなんとか前に押し出して、リリアンはカールソンを真っ直ぐに見た。 カールソンの瞳も、こちらを捕らえている。 その視線は、穏やかで優しいのに、どこか力強い――普段はそれに安心と信頼を与えられるのだが、今夜ばかりは緊張を強いられる。 リリアンは素早く考えた。素直に、"誰かに頼まれた" と言えばいいのだろうか? しかしそれではマリに頼まれた意味がなくなる。彼女は、もし勘違いだった場合の事を恐れているのだ。 この基地にいる女性の中で、しかもリリアンに"それ" を頼む相手となれば、答えはマリ以外にいない。しかもカールソンは兵士達とも親しく、よく話もしている。 当然、ダンとも気の知れた仲だ―― 黙っていてくれ、とカールソンに頼むことも出来なくはないが…… しかし同時に彼らの結束がどれだけ強いかも、リリアンは良く分かっている。 リリアンの些細なお願いなど、彼ら男たちの結束の前では、簡単に吹き消されてしまう儚い灯火のようなものだと――昔は話として、今は経験としてよく知っている。 デーナが行方不明中に高熱を出して倒れた話は、黙っていてくれとガルやダンに頼んであった。 が、帰って来たデーナはその時点で既にそれを知っていて、リリアンはあの後散々注意された……というのが結果だった。そんなものなのだ。 また同じ事になるのは、目に見えている。 しかも自分は新婚旅行から帰ったばかりの身―― 不思議はないかもしれない。 そうだ、マリには今それが必要なのだ。彼女は自分を頼ってくれた。こんな時くらい……そう思って、リリアンはごくりと息を飲んで話を切り出した。 「あの、前にお世話になった時、仰って下さいましたよね」 「うん?」 「その……こちらには色々医療品や薬が揃っているから、必要になったら頼んでいい、って。女性の為のものもと、確か……」 「……確かに。陸の孤島だからね、その辺の薬局よりは揃っているよ。何か入り用かい?」 そう言うとカールソンは机の上にあった飲みかけのカップに口を付けた。夜の勤務には必要なのだろう。 リリアンはもう、決心と緊張の間で、多少熱に浮かされたような気分だった。 「あの……もし妊娠検査薬があったら、頂きたいんです……」 ――沈黙が訪れるより、少し先に。 カールソンが飲んでいたコーヒーをぶはっと派手に噴き出した。 「ぎゃっ! フ、フレスク指揮官、もうちょっとゆっくり……」 「我慢しろ、急いだほうが治りも早い」 「う、そうですが……」 次の日の朝―― 早朝の訓練が行われている間、若い兵士の1人が組み手の最中に足を挫いた。 珍しい事ではない。一種の日常茶飯事で……怪我をした当人はともかく、デーナにとっては日常の一部とさえいえるものだ。 兵士の肩を片方だけ慣れた風に抱き、引きずるように医務室に向かう。 見たところ典型的な捻挫だ。隣の病院まで行かずとも、基地内の医務室にいる医師――カールソンで充分にことが足りそうだった。 医務室の前に辿り着き、形ばかりの軽いノックをすると、デーナは扉を開けた。 「すみません、朝から」 ――とデーナが言うと、カールソンは顔を上げて両瞼を見開いた。 「なんだ、お前か?」 カールソンが出し抜けに言った。 「ええ、診てやって欲しいのはこっちの方ですが」 デーナは肩に抱いていた兵士を顎で指した。兵士は苦笑いをする。挨拶をする余裕はないようだった。 「あ、ああ……何だ、そっちか」 「そっち?」 「いや」 珍しく歯切れの悪いカールソンの反応に、デーナは一瞬違和感を感じた。 しかし傍の兵士が早く早く、というように肩を揺らしたので、とりあえず彼を素早くベッドの上へ移動させる。 兵士の低いうめき声がして、カールソンはデーナと兵士の間に入ってきた。 「……どれどれ、あぁ、多分ただの捻挫だろう」 カールソンは床に膝をつくと、ベッドの横に腰を下ろした兵士の足を診た。 確認するように、触って少し動かしてみるとまた低くうめき声を漏らす。が――外から見る分には骨まで響いてはいなそうだ。カールソンは立ち上がって腰に手を当てると、それを兵士に説明した。 「とりあえず応急手当をしようか。午後になったら隣でレントゲンを撮ってくればいい。まぁ、大丈夫だと思うがね」 隣――とは、外の病院を指す。 カールソンは部屋の端に備えてある棚から必要なものをそろえて持ってくると、慣れた手付きで準備を始めた。 「デーナ、ちょっと足を持ち上げてやってくれ」 そう言われて、デーナは確かにそうした。傍にあった椅子を引いてそこに座る。手ではカールソンに言われた通り兵士の足を支えて。 カールソンはそんなデーナと、兵士の足を挟んで向かいに座る。 兵士は多少派手に痛がっているが、それほど大した怪我ではない――治療を始めながら、カールソンは前にいるデーナを見た。 カールソンは、デーナがクレフ基地に配属されるより前からここに居た。 当初、無鉄砲なところがあった――つまり、怪我も多かった――デーナのことは特に、親身に診てもいたのだ。 今となってはデーナ本人よりも、デーナが運んでくる者達を診る機会の方が圧倒的に多くはなったが……それでも、特別な存在なのは確かだ。 力と強さを持ちながらも、それだけに終わらず洗練や知性をも持ち合わせている所が、医師のカールソンにデーナへの好感を持たせた。 こうして改めて見てみると、まだ新人だった頃の少年の影は消え、落ち着いた男の風格を漂わせている。 元々冷静で落ち着いた性格ではあったが、今はそれに安定感が加わったといえるだろうか―― その理由は、聞くまでもない。 兵士に話し掛けているデーナを横目に、カールソンは手際よく手当てを続けた。 見た所、デーナは普段通りだ――カールソンは彼がここに顔を出した時点で、"あの" 話題を出されるのではないかと思っていたのだが…… もしデーナが"あれ" を知っていれば、今までの彼のリリアンへの過保護ぶりからして、黙っているとは思えない。 とりあえず手当てが一段楽すると、カールソンは顔を上げてデーナを正面から見た。 デーナはまだ兵士の足を支えたままだ。 「……どうだった、新婚旅行は?」 カールソンが聞くと、デーナは顔を上げた。 「良かったですよ、お陰さまで。急にどうしたんですか」 「その……少しな。昨夜、あの子が私のところへ来たんでね」 と、言ったと同時にデーナの視線が鋭く変わったのを見て、カールソンは眉を上げた。 「――何か問題でも?」 デーナの声は低かった――音だけでなく、温度までが。 その声に押されて、カールソンは姿勢を直し肩をすくませる。もしカールソンのように慣れた者でなければ、虎に狙いを付けられた鹿のような気分を味わっただろう。 「いや、問題というか……見方によってはめでたい事だと思うんだが……」 カールソンは躊躇いがちにそう言いながら、少し考えを巡らせた。 リリアンから特にこの事を口止めをされた訳ではない。しかし、今朝デーナがここに来たのは偶然の処遇だ。リリアンがそれを予想していなかったというのは――充分にありうる。 つまり、自分はなかなか面白い位置にいるかもしれない……。 そう想像してカールソンが可笑しそうに口の端を上げると、また、デーナの表情が厳しくなった。 「……そう怖い顔をするな。怒るようなことではないよ」 「何だったんです?」 「そうだな……」 カールソンは2人の間にいる兵士の顔をチラリと見た。 会話は聞こえているのだろうが、痛みの為にそれに構っている余裕はない、という感じだ。 それを確認して、カールソンは少し声を下げて続けた。 「妊娠検査薬を欲しいと言われてね、出しておいたよ。まあ……そういうことだろう……?」 それはまるで、なにかの喜劇のように唐突に―― デーナは支えていた兵士の足をゴトンと床に落として。そして。 哀れな若い兵士の空を裂くような悲鳴が、朝のクレフ基地に大きくこだました。 |
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