君は知らないだろう
あの 底知れぬほどの恐怖も――
そこから引き上げてくれた あの笑顔がもたらした
震えるほどの幸せも――
An Apology II
デーナがリリアンの病室の前に差し掛かると、ちょうど中から1人、看護婦が出て来るところだった。
担当なのか、この一週間ずっとリリアンに就いていた女性だ。もちろんデーナも見知っていた。目が合うと話しかけてくる。
「彼女なら今、やっと寝付ついたところよ。貴方が来たら起こしてって言われたんだけど、出来ればもう少し寝かせてあげて?」
悪戯っぽくそう言って、ナースステーションへ戻っていく。何か勘ぐるような、からかうような微笑を残して。
(…………)
あれ以来、周りの反応は皆こんな感じだ。
家族でもないデーナがあれだけ傍に居れば、誰にでもそう見えるのだろう。
デーナも、ダン以外には一々否定も説明もしなかった。
元々そういう意味で周りを気にする性格でもないし、気持ちを隠す気もない。周りの思いたいように思わせておけばいい、と。
寝付いたところだ、という言葉を受けて、デーナは静かにリリアンの病室のドアを開けた。
病室はすでに薄暗かったが、ベットサイドに置かれた小さな明かりだけは、ついたままだ。
白い病室を、そのベージュ色の淡い明かりだけが照らす。看護婦の言った通り、リリアンは小さな寝息を立てながら眠っていた。
慎重に、音を立てないまま傍まで歩み寄る。
そしてまるで、その小さな寝息を確認するように、デーナはリリアンの口元に手を当てた。
――その息を、呼吸を、感じたくて。
確かに彼女はここに居るのだと、確かめたかった。
しばらくすると、デーナは安心したようにその手を離し、身を屈めてリリアンの額に軽いキスを落とした。そしてそのまま、傍に置いてある椅子に座る。
その安らかな寝顔に、言い様のない愛しさと安心を感じる――そして共に……罪悪感も。
守ってやれた筈だ。
それを、こんな形で傷付けて――
責められて当然だった。それなのに、リリアンは目を覚ますといつも、柔らかくデーナに微笑む。声を掛けると嬉しそうに微笑んでくれるのが、可愛くて。
愛しくて、そして苦しかった。
こうして彼女に受け入れられる資格は、自分にはない――そう、分かっているのに。
その笑顔に、まるで甘えるように傍に居る。
そしていまだに "その" 一言さえ言えないでいた。
――それは、それを表すだけの言葉が見付からなかったからだ。
いくら言葉を尽くしても、謝りきれなくて。
そしてどれだけ探しても この想いを伝えられるだけの言葉など 無かったから――
「……ごめん な」
他に、言い様がなくて。
デーナはただ小さく呟くようにそう言った。そして薄暗い部屋の中、2人を照らすのは、小さな明かりだけ。
*
ゆっくりと目を開けると、視界に入ってきた淡い明かりが、妙に眩しく感じる。
リリアンは何度か瞬きを繰り返した。視界がはっきりしてくると、ぼんやりながらも、今がもう夜なのだという事が分かる。
(寝ちゃったのかな……)
天井をぼんやりと見つめながら、そんな事を思う。
今日は初めて外部からの面会を許可された日で―― マリやガル、そしてペキン大佐も顔を出してくれて、嬉しかった。が、同時に疲れたのも事実だ。
デーナは基地の仕事に戻ったため、昼間に会うことはなかった。しかし、夜には来てくれるかも知れないという淡い期待があって。看護婦には、もし彼が来たら寝ていても起こして欲しいと伝えてあった。
けれど、それはなかった。
(最初の日だし、きっと忙しかったのよね)
そう、思おうとして。リリアンはきゅっと手でシーツを握った。
今までずっと傍に居てくれただけでも充分なのに、仕事の後にまで来て欲しいと思うのは、贅沢だ。そう、思おう、と。
――思おうと、したのに。
目頭が熱くなってきた。
ずっと傍に居てくれた事を、ただ自然に感じていた。
嬉しくて、くすぐったくて。強くて優しいあの声を聞くのを、どこか、まるで当然のように受け止めていた。
自惚れていた訳じゃない。
でもそれを自然だと、当たり前のことの様に享受していたのも、事実だ。
"俺が想っているのは あんただ"
あの夜の告白。
軽い気持ちで、あんな事をいう人じゃないと、分かっていたから。
わざわざ確かめることでもないと、そう思っていた。それでも、今日のマリとの会話に、不安を感じてしまった。――"くっ付いたと思っていいのよね?"
(……どうして?)
同情や責任感だけで、傍に居てくれたのだとは思いたくない。
思いたくないけれど、同時に、不自然なくらいそういった話はしなかったのも、事実で。
……どうしてだろう、最初は、ただ普通に話が出来るだけでも、幸せだと思えたのに。怪我のせいなのだろうか? こんな風に、我侭なくらい、彼を恋しいと思うのは。傍にいて欲しいと、そして 愛して欲しいとさえ 思ってしまうのは――。
(駄目……しっかりしなきゃ)
そんな思いと、1人の寂しさを振り切るために、リリアンはベッドの上で小さく頭を振った。
自分がこんな風に弱くなっていたら、それはますますデーナにとって負担になる。そう思って。
たとえどちらにしても、自分の気持ちは変わらない。
だから――
(でも、会いたかった な)
そう思いながら、ふと、横を向いた。
そこは、今までずっとデーナが居てくれた場所で。
(え…………?)
誰も居るはずはないと、そう思って目を向けた、その場所。
居るはずがないと思った、でも、居てくれたらどんなにいいだろうとも思った、その ひとが。そこに座って、腕を組んだまま、眠っていた。
(嘘……)
――夢の続きかと、一瞬、思ってしまった。
リリアンが目を向けた先には、制服を着崩したままの格好のデーナが、椅子に座ったまま目を閉じている。もちろん、ブランケットも何も掛けないまま。少しだけ俯いて、静かに寝息を立てている。
デーナの寝顔を見るのは、リリアンにとって初めてだった。この一週間も、寝ているところは一度も見ていない。ずっとリリアン自身、眠っている時間が長かったし、その間にデーナはどこかで仮眠を取っているのだろうと思っていたのだ。
けれど、今は――
(え、ど、どうしよう。起こした方が……?)
きちんと空調をしているとはいえ、何も掛けないで寝ていれば少し肌寒いはずだ。
それに、初めて見る彼の寝顔は、思ったよりも子供っぽくて。
それが余計に、心配を煽る。
とにかく何か掛けるだけでも……そう思って、リリアンは慌てて起き上がろうとした。
「……痛っ!」
その時。リリアンはつい、無理に身体を動かしてしまった。その瞬間、まるで傷を引き裂かれるような痛みが、身体を駆け抜ける。
大きくはなかったが、声が漏れてしまった。デーナ達は、寝ていても僅かな音にも反応するように訓練してある。眠りも浅い。
(あ……)
と、思ったときには、もう遅くて。
デーナはすぐに、その声に目を覚ました。
――ゆっくりと開く、その漆黒の瞳に……痛みを忘れて動きを止めてしまう。
そして、目を覚まして顔を上げたデーナと、起き上がろうとやっと少しだけ身体を浮かしたリリアンの、目が合う。
元々の体質もあるし、そう、訓練してあるせいでもある。デーナは起きてすぐでも寝惚けることはなく、すぐに状況が把握できるタイプだ。
「どうした?」
それでも、眠りから覚めたばかりの、少し擦れたような声で。
デーナはすぐに起きてリリアンの傍により、彼女の背を腕で支えた。その力強い腕の中に、華奢なリリアンの身体が収まって、2人の目がすぐ近くで、合う。
まだ痛みが抜け切らずに、深い呼吸を繰り返すリリアンの頬を、デーナは彼女を抱えているのとは逆の手で触れた。そして労わるように、その柔らかい肌を撫でると、もう一度同じ台詞を繰り返した。
「どうした、痛むのか?」
その声は、リリアンが今日一日、ずっと求めていたもの。
今日だけじゃない、いつだって、初めて逢った時から 胸を震わす、その男らしい低い声。
けれど心配させたくなくて、リリアンはそのデーナの質問に首を横に振った。
とは言っても、デーナは鋭いし、リリアンの噓は下手だ。
彼女が無理をしているのは明らかで、デーナは少しだけ困ったような、そしてどこか切なそうな顔をして、リリアンをゆっくりとベッドに戻した。
「……医者を呼ぼうか?」
まるで、大切な宝物を慎重に箱に収めようとするような、そんな動作で。デーナはリリアンをベッドに寝かせると、そう訊いた。が、リリアンはまた小さく首を横に振った。
「大丈夫です。あの……フレスク指揮官こそ」
「俺こそ?」
「眠ってましたよ? ここで。それで、起こした方がいいかなって……」
リリアンがそう言うと、デーナは少し眉を上げて不思議そうな顔をした。
「いや、別に……最初からそのつもりで来てたんだ」
――今度は、リリアンの方が不思議そうな顔をする番だった。
てっきり、病室に顔を出すついでに座って、そのままうっかり寝入ってしまったのかと思っていた。デーナには、明日も基地での仕事があるはずだ。
「ごめんなさい、起こしちゃって」
「いいよ、気にするな。本当に誰も呼ばなくて大丈夫か?」
その質問に、リリアンがまた小さく首を横に振ると、デーナはまだ少し心配そうな顔をしてはいたが、身体を離した。
優しくベッドに戻され、一度感じた強い痛みも、ゆっくりと引いてくる。
何気なくリリアンがすぐ傍にある置時計を見ると、時間はすでに深夜の2時を指していた。
「何時頃から来てくれたんですか?」
リリアンがそう訊くと、デーナも同じ置時計に一瞬だけ目を向けた。
「9時過ぎかな……ガルの所にも顔を出してきたから。看護婦が、ちょうど寝付いたところだと」
「フレスク指揮官が来たら、起こして下さいってお願いしたんですけど……」
「聞いたよ。ただ、休んだ方がいいと思ったんだ。疲れただろ」
すぐ隣の椅子に掛けなおして、そう抑えた声で話すデーナ。リリアンは言いようのないくらいの安心感を感じた。1人だと思っていたのに、今日はもう会えないのだろうと諦めていたのに、彼がここに居てくれる事に。
けれど、あの時感じてしまった不安も、簡単には消せない。この優しさが、ただ責任感からくるものなのではないか、という そんな不安。
"責任だけでそんなに優しく出来ないものよ"――そんな風に、マリは言っていた。心配しているだけだ、と。興奮させたりしないように、と――
すぐ傍で自分を見つめてくれる、その漆黒の瞳。
低くて落ち着いた、優しいその声。広い肩。
そして何よりも、その心が、その存在そのものが、苦しいくらいに愛しくて。
――そう、例え彼の気持ちがどう変わってしまったとしても、自分のこの想いは変わらない。
忙しい彼に、迷惑は掛けたくない。もし自分に出来ることがあるなら、したい――
「……ごめんなさい」
そんな風に思うと、つい、リリアンの口から謝罪の言葉が漏れてしまった。
もし、彼が同情でわざわざここに来てくれているのだとしたら、謝らなくちゃいけない。
そして、そんな事はしなくてももう大丈夫だと、きちんと言わなくてはいけないと そう思って。
「わざわざ来て下さって……フレスク指揮官、忙しいのに」
それは、震えるような小さい声。けれどデーナは、そんなリリアンの言葉に、分からないというような怪訝な顔をした。
「……別に誰に頼まれて来た訳じゃない、どうして謝るんだ?」
「それは……」
それは、貴方が優しいから。
そして誰よりも、責任感が強くて――
「私が甘えてるから、だから、わざわざ来てくれて……きっと疲れてるのに」
傍に居てくれるのが、嬉しくて。ずっと甘えていた。与えてくれる温かい優しさに、子供の様に無邪気にはしゃいで。
――それに同情したの? それに責任を感じたの? だから、傍に居なきゃと思ったの?
涙は出なかったけれど、それでも、リリアンの大きな瞳は何かを訴えていて。
デーナにもそれが分かって、ガルの言葉を思い出した。"傷ついたような顔をされた" と言っていた。"浮かない顔をしていた" とも。
「……何かあったのか?」
デーナが低い声で、静かにそう訊くと、リリアンはきゅっと唇を結んだ。
「何も……でも、私、ずっと考えなしだったと思って……忙しいのに、傍に居てくれて、私は甘えてばっかりで」
そう言って、リリアンは目を伏せた。
いつもは苦しくなるくらいに、真っ直ぐこっちを見てくる瞳だ。そして、こうして彼女が目を逸らすのは、何か 言いたい事が言えない時だと、なんとなくデーナにも分かってきていた。
デーナは小さく溜息を吐くと、椅子を引いて、リリアンとの距離を縮めた。
それに気が付いて、リリアンも一度伏せた瞳を上げる。
淡い明りに照らされたその表情は、それだけでも、心をかき乱すのに十分だった。
「何があった? 誰かに何か言われたのか?」
1日、離れていただけだ。
たったそれだけなのに。
「違うんです、でも今日、マリさんに言われるまで気が付かなくて……」
そうゆっくり喋り出したリリアンの言葉を、デーナは黙って聞いていた。
「もしかしたらフレスク指揮官、ただ、責任を感じて傍に居てくれただけじゃないかって。私が子供みたいに甘えるから、それに同情して、って……」
ポツリ、ポツリと 紡ぐように語られるリリアンの言葉を聞きながら、デーナは静止した。
("同情"――?)
「だから……私ならもう大丈夫ですから、無理しなくても」
――冗談じゃない
リリアンの台詞に、デーナは無意識に硬く拳を握った。
「リリアン」
デーナはゆっくりと、リリアンの言葉を遮るようにそう言うと、真っ直ぐにその瞳を見据えた。
その視線にはどこか怒りが篭っているように見えて、リリアンが少し身体を硬くする。
――あの、地獄のような3日間。
ただ彼女の無事だけを願った。そして、吐き気がする程の自分の行為への嫌悪。護ってやれなかったこと、傷付けたこと――
心の底から願った、もう一度その笑顔を見たいという想い。そしてそれが叶うのなら、もう二度と、失うことはないように。護ろうと誓った、あの無限にも感じた慟哭(どうこく)の時間。
そして 目を覚ましたときの あの笑顔――
「……どうしてそんな事を考えたのかは、知らない。もし俺が何かそう思わせる事をしたなら、謝る」
今度は、そんなデーナの言葉を、リリアンが聞く番だった。
ゆっくりと喋るその低い声が、一層熱気を帯びているように思えて、緊張が走る。
「同情でここに来てると思ったのか? 責任を感じたから、俺がずっとここに居たと」
デーナのその言葉に、リリアンは小さく首を振った。
「違うんです、でも――分からなくなって、どうしてって……」
リリアンは、もう少し何かを言いた気なのに、それを我慢しているような感じだ。
「言ったはずだ、俺が想っているのはあんただ、と。好きな女がいるから勝手に来てるんだ。それを、お前が謝る必要は何処にもない」
"好きな女"
その言葉を。疑っていた訳ではない。でも、あまりにも真っ直ぐで、すぐには現実味がなかっただけ――
「……本当、に?」
不安そうに聞き返してきたリリアンに、デーナは少し苦い思いを感じた。
彼女はこんな事で駆け引きをするタイプではない。聞き返してくるという事は、本当に疑問に思っているということだ。
「ずっと一緒に居たのに、何もなくて……もう、そんな気持ちは無くなっちゃったのかもって、思って」
――ずっと、どう言っていいのか分からなかった。どんなに言葉を尽くしても、とても足りない、と……
「ずっと謝りたかった、それだけだ。今まで何も言わなかったのは……」
そう言って、デーナは少し身体を引いて、リリアンとの距離を置いた。
でも視線だけは外さないまま。そして、一つ一つ、真剣に言葉を選ぶように、慎重に話した。
「今までお前にしてきた事も、あの時疑った事も、怪我させたことも、だ。まだ何も謝ってない」
「違います……貴方のせいじゃないです、あれは……」
遮るようにそう呟いたリリアンに、デーナは首を横に振った。
「違わない、俺のせいだ。理由はあったし、それはお前も分かってる筈だ。でも――」
そこまで言って、デーナは息継ぎをするように、一瞬だけ言葉を止めた。
「お前は何も悪くなかったんだ。それを俺の都合で振り回して、傷付けて、怪我までさせた」
最初に、厳しいことを言って無視し続けたこと。
彼女の告白を聞いても、まだ受け入れられないくせに、断ることも出来なかった。
そして今回のこと。疑った事も、怪我をさせたことも、護りきれなかったことも。
すべて、リリアンには何の責任もない。
「謝りたかったんだ、ずっと―― ただ、どう言っていいのか分からなくて」
「でも」
「いいから、聞いてくれ。謝りたかった。それまでは、俺にこういう事を言う資格はないから」
「……こういう、事?」
リリアンが先をねだるようにそう聞き返すと、デーナはまた一息置いた。そして、決心したように言葉を続ける。
「悪かった。今まで冷たくしたことも、厳しくしたことも、今回のことも」
「…………」
「許して欲しいとは言わない。ただ――謝罪を受け取って欲しい」
そう言った時のデーナの、その表情はどこか不安そうで。
そして、今まで見てきたどんな表情より、無防備 で。
「それからだと思ったんだ、こういう事を言うのは」
いいえ、謝らないで――
リリアンはそう言いたかったけれど、あえて黙っていた。
"理由はあった" と、彼の言うとおり。それを受け入れることを決めたのは、誰でもなくて自分自身だ。
それでもいいと―― そう言ったのは、自分自身で。
デーナが謝ることではない。
でも、彼がそうしたいなら……それはそれでいい と……
「私こそ、ごめんなさい。沢山心配をかけて」
柔らかい、甘い声。
今まで閉ざしてきた心の底に、ゆっくりと優しく染み渡っていくような、そんな感覚。
そんなリリアンの声に、デーナはどこか照れたように一瞬だけ下を向く。
が、すぐに顔を上げて、はっきりと言った。
「……好きだ。傍にいて欲しい」
「私も、ずっと――」
そんな、2人の声が重なって。
見つめ合うと、どちらからともなく小さな笑い声が漏れた。
そして、ゆっくりと。
でもまるで、どこか当然のように、優しく、触れ合うようなキスをする。
デーナはリリアンの息を気遣うように、すぐに唇を離したけれど……それでも離れがたいように、額と額を合わせあう。
柔らかい、淡い光だけに照らされたその病室の中で。
2人の微かな笑い声だけが、響いて――