ああ そうだ――
お前はまだそこに居たんだ。
息がかかるほど近く。 ただ、気付かなかっただけ……
A Breath Away
あの後リリアンは、突然ダンに手を引かれて、陸軍の部隊の一つが駐屯しているテントに連れて行かれた。
"ちょっと待っててな。心配しなくていいから" と言いながらダンが入り口を覗くと、責任者の様な人が出てきて。その人に二、三言ダンが話す。しばらくすると、出てきたのはデニスだった。
「綺麗な夜空ですね。市内じゃまず見られないな」
「はい……でも、あの」
その後、どういう訳かデニスと一緒に置き去りにされた。
すぐに迎えが来るはずだから、と言って。
リリアンにはダンが何をしたかったのか、いまいちよく分からない。あの後、リリアンがデーナに振られたのだという話をすると、ダンは怒ったような顔をした。
驚くならともかく、何故そこで怒るのだろう……? おまけに、こうしてデニスと2人きりにされてしまって。しかも場所は、本部のテントの裏。死角になっているとはいえ、大きな声でも出せばすぐに本部の人間に聞こえてしまう。
もしかしたら、本部に報告に出ていたデーナも、まだ中に居るかも知れないのに……。
「驚きましたけど、嬉しいです。もう一度、あなたとこうして話してみたかったんです」
「こちらこそ、光栄です。でも今は……私、もう戻らないと」
「ああ、厳しいですからね、フレスク少佐は。聞きましたか? 少佐と僕が賭けをしてた事」
「ええ、中佐さんから……驚きました」
「僕も驚きましたよ。結構自信はあったんですけどね? これでもそれなりに成績はいいんですよ。特に射撃は。でも、惨敗でした」
そう言って、デニスは少し離れていた距離にいるリリアンに、一歩近づいた。
デニスの事は良く知らない。ただ、好意は持っている。礼儀正しくて優しい。素直で、正直な人だと思う。が、それ以上の気持ちが湧くわけではなかった。
ダンやマリ、サリ達に対して思うような、親愛の情であって、デーナに対するものとは違う……。
しかし、デニスの方がリリアンに抱いている気持ちは違うようだ。恋愛に関してはあまり鋭いとはいえないリリアンだが、その位の察しは、雰囲気でつく。
「……フレスク指揮官が強すぎただけです。デニスさんもきっと優秀だと思います」
「そうですか? 嬉しいな、そう言って貰えるのは」
「そうです、きっと。でも、あの、私……本当に戻らないといけないので」
「もう少しだけ。すぐに、テントまで送りますから」
デニスが更にもう一歩リリアンに近づく。すぐ前に、向かい合って立つような形になった。
リリアンが彼を見上げた。
「まだ会ったばかりでこんな事を言うのは、不謹慎だと思われるかも知れませんが……」
「デニスさん、あの……」
さすがのリリアンも、次に続く言葉が理解できて、それを遮ろうとした。その時。
デニスの方が、自分から言葉を続けるのを止めた。そして、真っ直ぐリリアンを見ていた視線を外して、そのすぐ横を見る。
「…………?」
リリアンも、そのデニスの視線に誘われて自分の隣を見ると、そこには、意外な人物が立っていた。
「いらっしゃるんじゃないかと思ってました、フレスク少佐」
デニスが静かにそう言った。その口調には、嫌味な所はまったくない。ただ、そう思っている事実を伝えただけ、という感じだ。
「だったら分かるな。何が言いたいか」
「僕が連れてきた訳じゃないですよ。ファス指揮官の方が彼女を連れてきたんです。僕の方が驚きましたよ」
「分かってる。お前のせいだと言ってる訳じゃない」
いつの間にか、リリアンの隣に立ったデーナと、デニスが話し始めた。
「フレスク指揮官……」
突然の事に、リリアンが不安そうに声を上げると、デーナは彼女の手を強く握った。
「…………!」
「ダンが勝手にした事は謝る。お前もさっさと自分のところへ戻れ」
「分かりました。まぁ、一瞬でもボーナスの様なものですから……」
そう言うと、デニスは一歩離れて、小さく会釈をした。よく兵士が上官にするような、真っ直ぐな仕草だ。
「お話できて楽しかったです。また、今度」
「は、はい……」
デニスはそう言うと、さっと身を翻して去って行った。
後に残されたのは、手を繋いだままの2人……。
繋いだ、というよりは デーナがリリアンの手を一方的に強く掴んでいるような感じではあったけれど――
熱い―― と 思った。
繋がれた手から、その力と、体温と、肌の熱が伝わる。
リリアンがデーナを見上げると、デーナはまだデニスが去って行った方を睨みつけるように見ているままだった。が、リリアンの視線に気が付くと、彼女と向き合った。
「帰ろう」
デーナがそう言って、リリアンの手を引く。
「はい……」
手を引かれたままで、リリアンは静かに答えた。すぐに振り解かれるだろうと思っていた手が、繋がれたままなのが不思議だったけれど。
数歩、彼に合わせて歩くと、リリアンは足を止めた。
(謝らなくっちゃ……)
そう思って。きっと、テントに戻ったら人がいて言い難くなる。今言わなくては、機会を逃してしまうと、そう思って。
「どうした?」
歩を止めたリリアンに、デーナが振り返って訊いた。
またいつもの様に、厳しい視線と言葉を覚悟していたのに、それはない。逆に、振り返ってリリアンを覗き込んだデーナの視線は、とても優しげなもので。
(違う、の……)
優しい視線……。それはまるで、リリアンが覗いてしまった写真の中の彼のような。
勝手に人の過去を覗くような自分に、こんな顔を向けて貰う資格は、ない。そう思うと急に、目頭が熱くなった。罪悪感と安心が混じりあった感じに、胸が詰まりそうになって。
「ごめんなさい……」
リリアンがその瞳に涙を溜めながらそう言うと、デーナがひどく驚いた顔をした。そして、繋いでいる方とは逆の手を、彼女の頬へ当てた。
「謝る事じゃない。ダンが勝手にした事だ、あんたは何も悪くない」
そう、諭すように、言い聞かせるような口調で、デーナが言った。リリアンは、ただ泣いたまま黙って首を横に振った。
「違うん、です……その事もだけど、でも……」
「違わない。あんたは何も悪くない、分かるな?」
力強い、低い声。ただ優しいだけじゃない……厳しくて、でも、安心できる。
そんな声を知っていた。もう、ずいぶんと昔。心の中にいまも生きている……そう、父の声――。それが、デーナの声と、心の中で一緒に響いたような気がした。
でも、だからこそ……余計に罪悪感を感じてしまう……。
デーナの手が、ゆっくりとリリアンの頬をなぞって涙を拭く。手は繋いだままで。
リリアンは空いていたもう片方の手を、デーナがリリアンの頬に当てた手に、重ねた。
「違うんです、本当に。私……フレスク指揮官に謝らないといけない事が……」
リリアンが何とか涙声でそう言うと、デーナはそのままの姿勢で止まった。ただ、握っていた手に、もっと力がこもって……痛いほどで。
「今日……覗いちゃったんです、勝手に……フレスク指揮官の写真を」
「……写真?」
咄嗟には何のことを言われているのか分からずに、デーナが聞き返した。
「ケースの中に畳んであったのを。今日、テントの片づけをしていたら落として……」
落としたのはマリだったが、そこまでは説明しなかった。
「だから……謝りたかったんです、今日ずっと……」
「…………」
デーナはすぐには答えなかった。少し考えるような間があって、リリアンが何の事を言っているのか思い付いたようだ。
「……泣くな。別に、構わないから」
「でも」
「いいから。止めてくれ」
そう言われて、リリアンは涙を飲み込んだ。普通、"止めてくれ" と言われて止まるものでもないのだが、デーナの声が困っているように思えて、必死でこらえた。
数秒……それ以上かも知れないし、それ以下かもしれない。まるで2人の間だけ時間が止まったように、見つめ合った。
しばらくすると、デーナはゆっくりと頬に触れていた手と、繋いでいた手の両方を離した。
「それで、今日中ずっと様子がおかしかったのか?」
リリアンがこくりと頷いた。
「勝手に見ちゃって……謝りたかったんです。でも、どう言っていいか分からなくて……それに……」
――あなたの事が、もっと 知りたくなって。聞きたくて……。沢山の事を……
そんな、言う資格もない言葉が喉から出そうになったけれど、それは飲み込んだ。
「構わない。別に隠してる訳じゃないんだ」
「でも、ごめんなさい 勝手に」
「いいから気にするな。一々謝る事でもない」
デーナはそう言ったけれど、やはりまだ驚いたような顔をしている。
そんなデーナを、リリアンは黙って見つめていた。しばらくすると、デーナは一歩彼女から離れて、小さな溜息をついた。
「どう思った?」
突然、デーナがリリアンにそう聞いてきた。
「え?」
「見たんだろう、写真を。誰だか分かったか?」
「はい……あの、フレスク指揮官と、男の子が2人……ご家族だと」
「弟だよ、2人とも」
「……やっぱり」
今までの距離からは少し離れて、急に風が冷たく感じた。でも、視線だけは合わせたまま。
デーナが写真について説明してくれたのは、リリアンにとっては意外だった。きっと、たとえ訊いたとしてもデーナは答えてくれないだろうと思っていたのだ。それを、彼の方から喋ってくれるなんて。
すぐに終わってしまうのかと思ったが、デーナはまだ続けた。
「名前はディーンとテオ。小さい方がディーンだ。生きていたら多分、あんたと同じ年かな」
「フレスク指揮官……?」
「年が離れてたから……特にディーンは。可愛かったよ、過保護な兄だったかもな……でも」
デーナはゆっくりそう言うと、どこか自嘲的に、まるで自分自身を責めるように、口元を歪めた。
「肝心な時には、護ってやれなかった」
そう言って、リリアンの瞳を真っ直ぐに見据えた。
その視線は、厳しくて、でもどこか、その裏に脅えや悲しみが隠されているような……。
デーナのこんな目を、前にも見た事がある。あれは、式典の夜。デーナがリリアンの父について語ったあの時。
あの時も思った。その厳しい視線の奥には、震えている子供がいるようだ、と。"助けて" と泣いている、そんな、震えた迷子の子供。
その手を取って、抱きしめて、大丈夫だよと言ってくれる誰かを 必死で探しているような。
きっとそう……。ダンも言っていた。デーナは、人に弱みを見せない。その分、自分で自分をガードしているのだと。
そうして隠そうとし過ぎて、自分自身でも見付けられなくなってしまったのかも知れない。心の傷を――
デーナの瞳を見ながら、リリアンはそう思った。
きっとこの人には、"誰か" が必要……。
ずっと閉ざしてきた心を、開くことの出来る誰か。優しく抱きしめて、その傷を癒してあげることの出来る、誰か。
――それは きっと 自分ではないけれど
いつか、そんな女性がデーナの前に現れて、2人が幸せになって……そうしたら、自分はどう思うのだろう。
祝福することが出来るのだろうか。
彼が救われて、幸せになって それで良かったと 思えるだろうか。
――分からない
(でも 今は)
一歩離れていたデーナに、リリアンが小さく歩み寄った。
気のせいかも知れない。でも、縮まる距離に、デーナが一瞬だけビクっとしたような気がした。
(今だけ…… だから……)
リリアンが、そっとその手をデーナの顔に寄せた。振り払われるかとも思ったが、それはない。そのかわり、少し悲しそうな顔をした気がした。
いつかきっとこの人には、そんな、心を開ける素晴らしい女性が現れる。
それだけの価値のある人なのだから――
でも それまで……
今だけで、構わないから。
そっと触れたデーナの頬は、思ったよりも冷たくて。そして、柔らかかった。その瞳に自分が映るのが、くすぐったい。
「そんな事ないです。きっと2人とも……幸せだったはずです。貴方のようなお兄さんを持って」
リリアンのその言葉を、デーナは何も言わずに聞いていた。
「貴方は……きちんと2人を護ってきました。昔は、傍で。今はきっと、貴方の心の中で……」
あんな風に擦り切れた写真を、ずっと持っていてくれること。きっと嬉しいはず。忘れずにずっと、その心の中に住まわせてくれること……
そうリリアンが言うと、デーナは、頬を触っていた彼女の手首を掴んだ。
痛いくらいに強く。そして、怒ったような目をして。
「……体さえ全て見つけてやれなかった。滅茶苦茶で……分かるか? 必死で集めたんだ」
「フレスク指揮官……」
「そうすれば元に戻るかも知れないと思ったんだ、あの時は本気で」
その目は、リリアンを見ているようで、どこか違う所を見ていた。そしてその怒りは、きっと彼が彼自身に向けたもの。
「馬鹿だろ? あいつらだって呆れてる筈だ、馬鹿な兄を持ったと。今も……」
そこまで言って、デーナは言葉を止めた。
そして、リリアンの瞳を真っ直ぐに見つめる。まるで、何かを言って欲しい、というように。
リリアンはただ静かに首を横に振った。
「いいえ……そこまでしてくれる人はきっと、貴方しかいません。愛していたなら、余計に」
サリやダンから聞いた話では、あれは爆弾でのテロだった。きっと、体の判別も付かないくらいで……普通なら、泣いて逃げ出すしか出来ないだろう。
それをそこまでしてくれて、それ以上 誰が何を求めるだろう。
本当なら、あの後すぐに心を癒すべきだった。
時間は掛かっても、愛情さえあればいつかは癒えるはずだ。
しかしデーナには、その相手が居なかったのかも知れない。両親も一緒に亡くなっている。しかもその後すぐに、デーナは最も厳しい道を選んだ。
軍隊、そしてクレフ基地という。
そして、そこで出会ったリリアンの父とは、まるで裏切られるような別れ。
「自分を、責めないで下さい。きっと皆、貴方のことを誇りに思っています。だから……」
さらに言葉を続けようとした、その時。
何かにそれを遮られた。気が付くとデーナの制服が、目の前にある。
(え…………)
心地よい匂いがした。いつの間にか、リリアンはデーナの胸に抱きすくめられていた。
それは、強すぎず、でも 弱くはない。顔を上げてデーナを見たかったけれど、彼はリリアンの肩に頭を絡ませるようにしていて、表情までは見えなかった。
「あんたは……」
「え……?」
「あんたは行かないな……?」
背中から、そんな小さな声が聞こえてきた。その声は、いつも真っ直ぐな強い調子で喋る彼からは想像も付かないような、擦れた小さな声。
言われた言葉の意味が分からなくて、リリアンは聞き返してしまった。
しかしデーナは、返事を期待していた訳ではないようだった。
ただ、リリアンの肩に乗せていた顔を上げると、またさっきのように見つめ合った。
距離だけが、ずっと縮んで。息が かかりそうなくらい。
リリアンには、咄嗟に何が起きているのか分からなくて、ただ彼を見つめ返した。
その瞳を受けて、デーナが少しだけ安らいだように見える。
「フレスク指揮官……」
リリアンが何か言おうとすると、それを遮るようにデーナの顔が近づいた。
そして、その唇が重なりそうに近づく――
その、時。
「おい、2人ともええ加減に……と、おゎあ!」
突然。
デーナの背後から響いた聞きなれた声に、2人は弾かれるように顔を上げた。
「ダン……」
「わわわ……すまん、あんまり遅いから流石に心配になったんや! まさかこんな!」
「…………」
「そ、そんな! ワザとやない! 神に誓って!」
突然現れたダンに、今までの緊張した空気がプツっと切れた。
デーナはダンの方に振り向いて、リリアンに背を向けた。ので、リリアンからその表情までは分からない。が、ダンは脅えていた。
「ご……ごめんなさい……ダンさん、あの」
リリアンが頬を染めながら、デーナの背後でそう言うと、ダンは苦笑いを見せた。
「や、こっちこそ悪い。なんか変な時に……」
「い、いえ! 違います……今のは……」
「言わんといてくれ! 俺は戻る! 何も見ていない! おやすみ!」
「……待て、ダン。俺達も戻る」
「そんな、人の努力を! っつーか、後で恨み持つなよ!?」
「持つか……。もういい、これ以上いても冷えるだけだ」
デーナがリリアンの方を振り返って、着いて来い……というような仕草をした。
リリアンも大人しくそれに従って歩き出す。
(今の……)
気まぐれ、なのだろうか。
それとも自分の勘違い……?
リリアンは赤くなったまま、片手で唇に触れた。
テントへ戻ろうとするデーナとダンは、何か言い合っていた。
が、それはすぐ傍にいるリリアンの耳には、遠くにしか聞こえなかった。
(気まぐれでも……いい……)
勘違いでも、構わない。
一瞬だけだったけれど、彼をあれだけ近くに感じられたこと――
これが
マルディ・キャンプ、2日目の夜の出来事。