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第四章: 不確かな想い

 

緊張しなかった、といえば嘘になる。
でもどこか浮ついていて、これが現実だと、しっかり掴めないような、そんな感覚で真珠はその病室に足を踏み入れた。

――もしかしたら夢だったのかも知れないという思いは、その時完全に崩れていった。

(真、さん――)

静かに、目を閉じて。
病室の床に横たわる姿は、まぎれもなく真珠が知っている"真" だった。
少し日に焼けた肌と、彫りの深い顔立ち。
ただ違うのは、現実にこうして横たわっている真は、真珠が会った彼よりも、血の気がなくて。そして、目を閉じたまま。

「それで、医者は今、何と?」
真珠の父が百合絵にそう聞くと、百合絵は少し答えづらそうに口に手をあてて、首を横に振った。
「まだはっきりとした原因は分からないそうですわ。本当なら、そろそろ目が覚めてもいい頃だと……」
百合絵がそう言うと、父は頷きながらも、何か考えているようだった。
そしておもむろに言う。

「……目が覚めても、障害が残るという事は?」

その時、その台詞に、病室の中に緊張が走った。そしてそれに、真珠は反射的に叫んでしまった。

「…………お父様っ!」

そう、声を上げてしまってから、真珠はハッとしたように背筋を硬くした。
父と百合絵の2人が、同時に真珠の方を振り向く。
後悔したときにはもう遅くて、父は怪訝そうな顔で真珠を見ていた。

「ご、ごめんなさい……」
とっさに謝ったが、それで済まされないのは分かっていた。父の言葉に声を上げた、しかも、他人――少なくとも今はまだ――の前だ。

真珠の思ったとおり、父はどこか不快そうな顔をして、いつもより少し低い声で話した。

「お前の口出しする事ではない、真珠。そもそも、お前の将来を思っての事なのだ」
「…………」

そう、たしなめる様に真珠に言った父と、真珠本人を、百合絵が戸惑ったような顔で見つめる。
その百合絵の視線は、どこか同情したようでもあった。

「ええ、真珠さん。気になさらないで。確かに、貴女には大切なことですから」
「……はい」

百合絵の落ち着いた声に、真珠は何とか小さく返事をしたが、居た堪れない気持ちだった。
父ならきっと、もし真に障害が残るような事になれば、婚約を破棄するだろう。それは、きっと百合絵にも分かっているはずだ。
実の息子が事故で昏睡状態だというのに、そんな現実まで彼女に突きつけるのは、あんまりな気がした。

しかし百合絵は気丈で、真珠を気遣うような言葉を言ってくれる。

(――ああ、だから)

真珠は昨日の夜を思い出した。
真は優しかった。今まで会った――それは、とても数が多いとはいえないけれど――どの男性よりも、優しくて、よく気を使ってくれた。
その優しさが、百合絵のその思いやりと、重なるような気がして。
彼の優しさはここから来たのかも知れないと、そう、漠然と思った。

その後、百合絵と父は社交辞令的な事を話し込んでいた。真珠はほとんど聞いているだけで、あまり口は挟めない。
ただ、時々、気遣うように床に横たわっている真の方を見る。
――静かな寝顔だ。そして、眠っているとは言え、その姿は明らかに真珠が夜に見る"彼" と、瓜二つで。

(今、何処にいるんだろう……)
もしかしたら、ここに、居るかも知れないのだ。ただ、誰にも見えないだけで。
昨日も昼間、真珠には見えなかったが傍にいたのだと、言ってくれた。今は母である百合絵もここに居るのだ。きっと――

だとしたら真は、どんな思いで、この場面を見ているのだろう……。そう思うと、胸の奥がきゅっと絞られるような、切なさを感じた。

 

 

夜、を。待ち遠しい などと思ったのは、本当に久しぶりだった。

一人っ子の真珠にとっては、夜はどこか孤独で、寂しいものだという印象が強い。
しかし今は違う、夜になれば、会える人がいるから。
夜でなければ、会えない人が。

 

結局あの後、真珠はあまり百合絵とも話せないまま、父に連れられて病院を後にした。
話によると、百合絵は今、真が1人暮らしをしていた部屋に泊まっているらしい。英家の邸宅から、徒歩で半時間ほどの距離だろうか。
百合絵は、時間があれば寄って行って欲しいと、真珠に優しく言ってくれた。が、結局詳しい住所を聞くこともないまま、帰る事になってしまった。

家に着いたのは、もう、日もほぼ落ちた夕刻。
夜と呼ぶにはまだ早い、しかし昼と呼ぶことも出来ない、そんな微妙な時間。
嬉しさと緊張が混ざった、不思議な感覚が心を占めた。

真珠が夕食を済ませて部屋へ戻ると、やはりそこには―― 彼が いた。

『こんばんは』
そう、どこか照れくさそうに言う。
それにつられて、真珠も少し頬を染めた。
「こ、こんばんは……あの、今日は……」
真珠が言い難そうにそう答えると、真は、まるで真珠がそう出るのは分かっていた……という感じで、はにかんだ様な微笑を見せた。

『初めての対面があんな風で、申し訳ない。あまりいい思いは、しなかったでしょう』
「やっぱり……いらしたんですね、今日」
『ええ。やっぱり、誰にも見ることは出来なかったようだけど、一応は』
「あの、お母様も……」

真は部屋の窓際に立ったままで、真珠の方を見ていた。
真珠は後ろ手で扉を閉めたままで、同じくそこに立ったまま。待ち遠しく思っていたくせに、いざ彼が目の前に来ると、目を合わせることが出来ないでいる自分に、少し嫌悪を感じながら。

『残念ながら……。といっても、多分、見えない方が楽だろうけどね』

真がそう言うと、真珠はハッと我に返って、言うべき事を思い出した。
「それと、あの、ごめんなさい。父が言ったこと」
『え?』
「あの、あんな席なのに……無神経に」
『……ああ、あれか』

一瞬、何を言われているのか分からない、という顔をした真だったが、すぐに思い出したようだ。
どこか切なそうな微笑と共に、首を横に振った。

『貴女が謝る事じゃないですよ、真珠さん。それに、彼の言う事ももっともだし』
「でも、真さんのお母様の前で……」
『いいんです、本当に。彼女も強い人だし……真珠さんのせいではないんだから』

そんな真の声に、真珠は俯き気味だった顔を上げた。
目が合うと、心臓が高鳴る。――それは、今まで真珠が知らなかった種類の、鼓動で。

『疲れたでしょう。立ったままも何だし、座りますか?』
真が勧めるようにベッドの縁を指した。つい、勧められるままに、真珠はゆっくりと歩を進め、そこに腰掛けた。
すると真も、同じように、真珠とは少しだけ間を置いて、ベッドの縁に腰を下ろす。

真は、少しの間、何か考えるように床を見つめていた。そして、決心するように顔を上げると、真珠の方を向いた。

『正直、嬉しかったですよ。貴女が、お父上に向かって声を上げた時は』
「いえ……」
『もちろん、自惚れるとか、そういう事ではないです。でも僕と、母を気遣ってくれたんでしょう? 嬉しかったですよ』

――なんて素直な人なんだろう、と。
真珠は頬を染めながらも思った。「嬉しかった」 なんて、男の人が簡単に言う台詞とは思えない。少なくとも、父が母にそういう類の台詞を言うのを、聞いたことがなかった。

『でも、聞いて下さい、真珠さん。父上の仰ることも、正しいんです』
「……そんな、真さん」
真が真面目な顔で喋り出そうとするのを、真珠はまるで、止めて欲しいと言うように見つめ返した。
何となく、これから真が話そうとしている事が、見えてきて。

『大切な事です。僕自身、自分がどうなっているのか分からない。一応医者は小康状態だとは言っているけれど、自分はこんな風だし……』

そう言って、真は両手をきつく握った。

――その、横顔に。
真珠は初めて、真の内面を見た気がした。
昨夜の、優しく話をしてくれた彼。今もこうして、信じられないほど素直に礼を言ってくれる彼。
……でも、そんな側面ではなくて、もっと別の、深い内側。
不安を抱える、1人の、ひと。

『これからどうなるのか、何も言えないんです。だから、もし君のお父上が婚約を破談したいと言ったら……彼に従って下さい』

苦しいのか、切ないのか。
真の言葉に、真珠は今までに抱いたことのない苦い思いを味わった。

――そして、複雑だった。とても。
もし、こうして幽霊――か、どうかもまだ分からないのだが――の真に会っていなければ、こんな思いは抱かなかっただろう。父が真珠との婚約を破棄したいと言い出せば、特に何のためらいもなく、それを受け入れてしまったはず だ。
そもそも彼の事故さえ、最初はずっと現実味が無かったのだから。

そして真も、その事を言っているのだ。
こうして幽霊の彼に会ってしまったことで、真珠が彼に同情し、辛い道を選んでしまわないように……と。

「そんな事、言わないで下さい。お医者様も、そのうち目が覚めるだろうって……」
『けれど、このまま目が覚めない可能性もあると。最悪の場合さえ――』
「すぐに良くなります、きっと。お医者様は慎重なだけだから――」
真は、真珠のその言葉と、切なそうな瞳を受け止めると、どこか照れたように目を逸らした。

『まいったな、本当に。何で君には僕が見えるのか……』

片手で、真は、短く揃えた黒い髪をかき上げるような仕草をした。そしてまた、考え込むように床を見つめる。
そんな彼に、真珠が何を言ったらいいのかとオロオロしていると、真はゆっくりと喋り出した。

『僕の母が――良かったら遊びに来てくれと言ったのを覚えてますか?』
「は、はい、もちろん。でも……結局住所も伺えないままで」
『住所なら、僕が知っています。まあ、僕の部屋ですから……』
「…………?」

そしてやっと、真は顔を上げて真珠を見た。
2人の目が合うと、真珠はまた、今まで感じたことのないほどの、胸の高鳴りを覚えた。

(な、なんで…………)

恋、と呼べるほどの想いを――
まだ 抱いた事がなかった。
まして愛など、本の中にしか存在しないのかも知れないとさえ、思っていた。

それが、どうして 今?

婚約者とは言え、傍にいるのに触れることも出来ない、彼に――

『……貴女に、渡したいものがあるんです』
真はそう、ゆっくりと続けた。

『これからどうなるのか分からないし……後悔しないように。きっとあの母なら、分かってくれますから』
「……真、さん?」

真珠がそう名前を呼ぶのと、ほとんど同時に。真は立ち上がって、真珠の方を振り向いた。

 

『一緒に来てくれますか、僕の部屋まで』

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