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Paradise FOUND: Paradis des Fleurs 6
フローラが、モルディハイの身体に妙な熱を感じたのは、それからすぐだった。 そして、首元にかかってくる王の荒い息遣いに、通常ではあり得ないほどの速さを感じた。ドキリとしてモルディハイの顔を覗きこむと、水でも被ったかのような大量の汗が、額からにじみ、頬を伝ってしたたり落ちているのだ。 「陛下……どこか酷いお怪我を……」 「陛下……」 モルディハイはあくまで、彼らしさを保った。 ずるりと怠慢な動きで、モルディハイはさらにフローラの肩からすべり落ち始める。 「どうぞ、肩をとって下さい、陛下」 「この先に御身体を休められる場所があります。今だけでも……」 助けを呼ばなくてはという考えも頭をよぎったが、とにかく身体を休めることが先決だ。 二人はそのまま林の奥へ進んだ。 やっと辿り着くと、モルディハイはほとんど落下するような形で、フローラの肩から地面へ崩れた。 「陛下」 「水がいりますか……? それとも、助けを呼ぶべきでしょうか」 「水……」 「水……違う、お前は、ここに……」
この人はだれ……? 傍若無人の緋色の王。放漫で我侭で、絶対の力を持った、大国の頂点に立つ者。 では、この人はだれ……? 苦痛の汗を流し、迷い子のような切ない瞳で、私を見つめて、抱いていてくれと請う、この人は……。
「はい……」 フローラは答えて、土の上に両膝をついたまま、モルディハイを正面から包み込むように抱いた。 最初は、触れるか触れないかというような、淡い抱擁だった。 さらりとフローラの金の髪が揺れて、モルディハイの赤い髪に重なり、まるで最初からそうして混ざり合うためにあったかのように、自然で美しい赤銅色に溶け合った。 抱き返すだけの力は残っていなかったらしく、モルディハイはただ、フローラの胸に顔を押し付けて、何かを舌足らずな調子で呟いていた。 フローラは聞き返した。 「悪くない……匂いだ、肌の、張り……も、いい」 すると、モルディハイの無事だった方の手が、ゆっくりとフローラの腹の辺りを這い上がり始める。訳が分からず、急に肌を昇ってくる熱い感覚に、フローラは背筋を伸ばした。 「へ、陛下っ!」 顔を真っ赤に染めたフローラに、せっかく這わせた手を振り払われて、モルディハイは眉間に深い皺をよせながら低く唸った。 フローラは珍しく眉をキリッと上げ、負傷した王をしかと見据えた。 「もうっ! 助けて下さったことは感謝します、でも――」 「そもそも、どうしてこんな場所へいらしたのですか……っ。こんな怪我までなさって、ご無事のようですから良かったものの……もし陛下の御命にもしものことがあれば、私は……」 私は……何だろう。 「私は……」 今度はフローラも振り払わなかった。 ふっと、モルディハイが笑い声のようなものを洩らしたのを、フローラは閉じた瞳の先に聞いた。 「もう……貴方に会えなくなるかと思って……とても、怖かったんです。とても後悔しました……」 短い告白を終えてフローラが瞳を開けると、飛び込んできたのは――モルディハイの笑顔だった。
*
二人はしばらく、洞穴の切り口に背を預け、地面に腰をついて座っていた。 洞穴は誰かがその昔、雨風をしのぐためにくり抜いただけのものなのだろう、高さは人の背丈ほどしかなく、二人が並んで入れば一杯になってしまうほどの大きさだった。 その間も、フローラは甲斐甲斐しくモルディハイの汗を拭い続けていた。 中身は酒で、モルディハイはそれをまず手の傷口にふり掛け――消毒のためなのだろう――そして残りを飲み干した。 (この人ってば……) モルディハイがした大雑把な説明によると、フローラを襲ったのは刺客ではなく、王宮から出てくる貴族を乗せた馬車を狙ったならず者崩れで、もうこれ以上の追っ手はないだろう、との事だった。 しかしフローラは、少なくとも今は、そのモルディハイの説明に納得することにした。 彼の全てを知るのは不可能なのだろう……。また、その必要もない気がした。 モルディハイの容態は時を追うごとに回復へ向かいはじめ、荒かった呼吸も、次第に落ち着きを取り戻していく。 突然モルディハイに話し掛けられたのは、そんな時で、フローラはパッと顔を上げた。 「あれは彗星のような女だった……あるいは、雷(いかずち)か」 え、とフローラは声を漏らしたが、モルディハイはどこか遠く先を見つめながら、淡々とした調子で独白を続けている。 「邂逅はたったの一時ばかりだった。そのくせあの女は、その一瞬で、私の心の全てをさらっていったのだ」 それはフローラにとって苦しい告白である――モルディハイはこの数月の間、フローラに無茶や意地悪を続けていたが、他の女の影は全くと言っていいほどなかった。 「きっと……とても美しい方だったのですね」 「さあな、多分、そうだったのだろう」 初耳にフローラは瞳を瞬いた。 どういうことだろう。例え他の男の妻になっていたとしても、モルディハイの力を持ってすれば、取り返すことも可能なはずなのに。 「もしあれを取り返すことが出来たとしても――最初から私の元にあったとは思わないが――今の私はもう、あれを受け入れないだろう。過ぎたことだ。過ぎたのだと、今は確信がある」 モルディハイはフローラに顔を向けた。瑪瑙色の瞳は、フローラを捕らえるとわずかに細められる。 (…………!) 「――私がこんなところまで散策に来るとでも思うか」 そう言って、モルディハイはフローラの頬へ両手を伸ばした。 「お前を追ってきた」 大きな手がフローラの顔を包み込んだ。 一つ、熱い口付けが落とされたあと、小鳥たちのついばみのような短い触れ合いがなされ、そしてまた、情熱的な長い口付けを与えられた。 「は……、ぁっ」 「どうして……貴方は私に、帰りたければ、帰れ、と、いつも……」 それは、一種の反論であったのだろうけれど、批判的な響きはどこにもない。 「私に二言はない」 フローラは数回、瞬きをした。 「帰しただろう、確かに――しかし、追わないと言った覚えはない」 モルディハイはまたも口元に笑みを浮かべる。――それが武器になることを、知っているように。 「帰りたければ帰るがいい。何処へなりとも、お前の好きな場所へ。ただし、私が何処までお前を追って行こうとも、文句を言うな」
*
モルディハイの体調が回復し、自身の足で歩けるほどになると、二人は林を出た。 夜のはじめ、周囲はほぼ闇に覆われ始めた頃だった。 ぴったりと寄り添いながら林を抜けた二人を迎えたのは、林道に立つ、一匹の馬を傍に従えた、一人の痩身の男だった。 「相変わらずですね、ジャフ王……貴方の王宮は大騒ぎですよ。王が消えたと。まさか貴方が警備兵のふりをして王宮を抜け出し、後宮から出ていった寵姫の後を追っているとは誰も思わないようで」 そう言って、男は傍らの馬を従えモルディハイの前に進み、軽く頭を下げた。 「――よく似ておいでですね」 「私の妻の方が美しい。奴に会うことがあれば、そう言っておけ」 男は、知らない者である上に、あんな事件に巻き込まれた後だというのに、不思議と恐怖を感じさせない人物だった。 「あなたは……」 「――だ、そうです」 ますます何だか分からなくて、フローラは肩を落とした。その間にもモルディハイは、男が連れて来た馬を色々と確かめている。若い茶色の雄馬で、モルディハイのような男がが近寄っても怯えることのない気丈さがあった。どうやら気に入ったらしく、モルディハイはその馬の首筋を撫でている。 「それも"あの方" からの贈り物の一つです、王」 男が言った。同時に、モルディハイの動きが突然ぴたりと止まる。 「国交を再開したいと――両国の為にも、これ以上、背を向けあう必要はないはずだと、あの方は仰っています。北の大国ターナも不穏な動きが多く、最近勢力を伸ばし始めています。我々は協力すべきだ、と」 モルディハイの瞳に、熱い炎が灯ったのを、フローラは見た。 何か……多分、モルディハイ本人にさえ掴みきれないほどの、情熱が芽生えた瞬間だったのだ。 モルディハイは無言で男に背を向けた。 「考えて、おこう」 ――その、瞬間だった。 ごぉっと空気が空に吸い上げられたような音がしたと思うと、疾風はすぐに止んだ。 風も止み、辺りが静かになって、フローラは恐る恐る目を開けてみる。――と、そこにはもう、男の姿はなかった。 「あ……」 モルディハイは言った。モルディハイにさえ食えない男と呼ばれるとは、一体何者なのか――。 そして、 「私の妻になるか――私の、楽園となり、地上の夢を見るか」
フローラ、花の娘。――花の楽園。 そこが天国でないことを知っている。 しかし知っている。季節は巡り、楽園はもう一度色づくことをも。 鮮やかな赤を迎えて。
「いつから……いつからですか? 最初は、そんな事、絶対にありえないと仰っていたのに。私だけは絶対に、と」 「そんな女を自分の後宮に入れる阿呆がいるか。最初からに決まっている」 それは決して、楽な道にはならないだろう。 でも…… でもきっと、それだけの価値があるものが、目の前に差し出されているのだ。 「私は、何処へも行きません……」 フローラは横抱きにされたまま、モルディハイの首に腕を回した。そしてささやく。「だから、もう離さないで……」
*
ジャフ王モルディハイの婚儀は、その夏、国を挙げて盛大に執り行われた。 隣国、ダイスの王がそれに参列することはなかったが、今まで無下に送り返され続けていた使者だけは、祝辞と共に受け入れられ、ジャフは返礼として数頭の名馬をダイスへ贈ったという。 そして、更に一年が過ぎた頃だ――ジャフ王宮に、新たな産声が上がった。 |
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