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Paradise FOUND: Paradis des Fleurs 6

 

フローラが、モルディハイの身体に妙な熱を感じたのは、それからすぐだった。
そして、首元にかかってくる王の荒い息遣いに、通常ではあり得ないほどの速さを感じた。ドキリとしてモルディハイの顔を覗きこむと、水でも被ったかのような大量の汗が、額からにじみ、頬を伝ってしたたり落ちているのだ。

「陛下……どこか酷いお怪我を……」
フローラは素早くモルディハイの手を取った。矢傷からの出血は、それを受けた当時よりは治まっているものの、依然と赤い液体がじくじく湧いている状態だ。
あまりにも痛々しいその傷に、フローラは瞳を潤ませはじめた。

「陛下……」
「泣くな、あんな雑魚に、私へ深手を負わせられるはずが、な……い」
「でも」
「これは毒のせいだ……矢に、仕込まれていたのだろう、しかし、この程度には慣らして……ある」

モルディハイはあくまで、彼らしさを保った。
窮地においてさえ何者にも屈しない王者だ――それを横柄だととるか、高尚であるととるかは、相手や状況次第でいくらでも変わるのだろう。しかし、モルディハイがいくら気高くとも、肉体的な苦痛は確実に彼を蝕み続けているようだった。

ずるりと怠慢な動きで、モルディハイはさらにフローラの肩からすべり落ち始める。

「どうぞ、肩をとって下さい、陛下」
フローラはそう言って、モルディハイの脇の下に回った。傷付いた身体を担ごうと、フローラはモルディハイの背中に片腕を回して、肩で彼の半身を支える。前を向くと、フローラはゆっくり歩き出した。

「この先に御身体を休められる場所があります。今だけでも……」

助けを呼ばなくてはという考えも頭をよぎったが、とにかく身体を休めることが先決だ。
モルディハイ本人も逆らわない――逆らわないのだ、彼が。

二人はそのまま林の奥へ進んだ。
身長差もさることながら、逞しい体躯のモルディハイと比べれば、フローラの身体は彼の重みの半分もないかもしれない。モルディハイは自分の足で全体重を支えきれない容態で、二人の足取りは頼りなく、目と鼻の先であるはずの洞穴に行き着くことさえ、たっぷりと時間を要す有様だった。

やっと辿り着くと、モルディハイはほとんど落下するような形で、フローラの肩から地面へ崩れた。

「陛下」
フローラは、そんなモルディハイの前に、急いで膝を付いて手を伸ばした。

「水がいりますか……? それとも、助けを呼ぶべきでしょうか」
モルディハイの瞳は、熱に浮かされているせいか、しばらく空ろに地面をさまよっている。しかしフローラの手が頬へ届くと、モルディハイはふっと瞼を上げて、彼女を見つめ返した。

「水……」
モルディハイは枯れた声で反芻した。

「水……違う、お前は、ここに……」
「陛下?」
「お前は、ここに居て、私を……抱け……」

 

この人はだれ……?
傍若無人の緋色の王。放漫で我侭で、絶対の力を持った、大国の頂点に立つ者。

では、この人はだれ……?

苦痛の汗を流し、迷い子のような切ない瞳で、私を見つめて、抱いていてくれと請う、この人は……。

 

「はい……」
フローラは答えて、土の上に両膝をついたまま、モルディハイを正面から包み込むように抱いた。

最初は、触れるか触れないかというような、淡い抱擁だった。
それをモルディハイは、静かに瞳を伏せ、わずかな微笑みさえ口元に浮かべながら、素直に受け入れたのだ。

さらりとフローラの金の髪が揺れて、モルディハイの赤い髪に重なり、まるで最初からそうして混ざり合うためにあったかのように、自然で美しい赤銅色に溶け合った。

抱き返すだけの力は残っていなかったらしく、モルディハイはただ、フローラの胸に顔を押し付けて、何かを舌足らずな調子で呟いていた。
「……い……だ……」
「陛下……?」

フローラは聞き返した。
何か重要な伝言なのかも知れないと思ったのだ。どこに助けを呼びに行けばいいとか、追っ手があそこにいるとか、何が必要だとか。
フローラは真剣だった――しかし、次に聞こえたモルディハイの呟きは、それらとは何の関係もなかった。

「悪くない……匂いだ、肌の、張り……も、いい」
「え?」
「胸は……もう少し……欲しいところだ、が……私が、なんとかしてやろう……」
「え、え、え?」

すると、モルディハイの無事だった方の手が、ゆっくりとフローラの腹の辺りを這い上がり始める。訳が分からず、急に肌を昇ってくる熱い感覚に、フローラは背筋を伸ばした。
ゆっくり、しかし確実に……モルディハイの褐色の手は、なんとフローラの胸のふくらみへ到達する。

「へ、陛下っ!」
「逆らう……な……」
「逆らいますっ! お、お、お元気じゃないですかっ」
「そう、言っただろう、が……」

顔を真っ赤に染めたフローラに、せっかく這わせた手を振り払われて、モルディハイは眉間に深い皺をよせながら低く唸った。
フローラのような細腕に振り払われてしまうようでは、やはり元気とは程遠い訳だが……かといって命に別状があるような容態ではないらしい。

フローラは珍しく眉をキリッと上げ、負傷した王をしかと見据えた。

「もうっ! 助けて下さったことは感謝します、でも――」
モルディハイもフローラを見返す。するとフローラは一瞬、口篭って、語気を下げた。

「そもそも、どうしてこんな場所へいらしたのですか……っ。こんな怪我までなさって、ご無事のようですから良かったものの……もし陛下の御命にもしものことがあれば、私は……」

私は……何だろう。
フローラはその先を、自分で見つけられなかった。
モルディハイの瞳もフローラをとらえたままで、特に何をも言い返してこない。

「私は……」
フローラはそう繰り返しながら、同時に急に、咽の奥から何かが込み上げてくるのを感じていた。
それが涙だったと……気付いたのは、一粒の涙が、真珠のようにきらめきながらフローラの頬を伝った後だ。モルディハイの手が、またしてもゆっくりとした動きで、それを拭おうと近付いてくる。

今度はフローラも振り払わなかった。
熱のせいで更に熱いモルディハイの手のひらが、頬を滑るのを受けて、フローラはそっと瞼を伏せる。

ふっと、モルディハイが笑い声のようなものを洩らしたのを、フローラは閉じた瞳の先に聞いた。
フローラは、震えた声で続ける。

「もう……貴方に会えなくなるかと思って……とても、怖かったんです。とても後悔しました……」
――と、そう言って。
「帰ってこようと思っていたんです、すぐに……故郷で家族と会って、強くなって、これからも貴方の傍にいられるように……それが、急にこんなことに……」

短い告白を終えてフローラが瞳を開けると、飛び込んできたのは――モルディハイの笑顔だった。
それは、どう表現していいのだろう。
喜びというには切なく、勝利の微笑みと呼ぶには儚すぎるのに、それでいてどこか誇らしそうな、彼という王者だけが成しえる、魅惑的な表情だった。

 

 

二人はしばらく、洞穴の切り口に背を預け、地面に腰をついて座っていた。
洞穴は誰かがその昔、雨風をしのぐためにくり抜いただけのものなのだろう、高さは人の背丈ほどしかなく、二人が並んで入れば一杯になってしまうほどの大きさだった。

その間も、フローラは甲斐甲斐しくモルディハイの汗を拭い続けていた。
水を調達しに行こうと二度目の申し出をしたが、モルディハイはそれをあっさりと断って、「ここにいろ」 と命じると、自らの懐に忍ばせてあった小瓶を取り出した。

中身は酒で、モルディハイはそれをまず手の傷口にふり掛け――消毒のためなのだろう――そして残りを飲み干した。

(この人ってば……)

モルディハイがした大雑把な説明によると、フローラを襲ったのは刺客ではなく、王宮から出てくる貴族を乗せた馬車を狙ったならず者崩れで、もうこれ以上の追っ手はないだろう、との事だった。
――それが真実かどうかは分からない。
ただのならず者崩れと断言してしまうには、あの矢手は洗練されすぎていた気がするし、モルディハイも曰くつきの王だ。

しかしフローラは、少なくとも今は、そのモルディハイの説明に納得することにした。
いくら我侭だ、傍若無人だ、粗野だと文句を言っても、やはり彼は多くのものを背負う立場の男で、フローラのような箱入り娘に全てが分かるわけではない。

彼の全てを知るのは不可能なのだろう……。また、その必要もない気がした。
何があろうとモルディハイはモルディハイであり、その背に背負った自分の知らない影の部分も含めて、フローラは……やはり、惹かれているのだと。こうして彼の傍に座りながら、確信を深めるのだった。

モルディハイの容態は時を追うごとに回復へ向かいはじめ、荒かった呼吸も、次第に落ち着きを取り戻していく。
日も暮れかけ、辺りはだんだんと薄暗くなり、視界も限られてきた。湿った夜の匂いがしてくる。

突然モルディハイに話し掛けられたのは、そんな時で、フローラはパッと顔を上げた。

「あれは彗星のような女だった……あるいは、雷(いかずち)か」

え、とフローラは声を漏らしたが、モルディハイはどこか遠く先を見つめながら、淡々とした調子で独白を続けている。

「邂逅はたったの一時ばかりだった。そのくせあの女は、その一瞬で、私の心の全てをさらっていったのだ」
「陛下……」
「タリーから話を聞いているだろう、私が金髪碧眼を探す原因になった女だ」

それはフローラにとって苦しい告白である――モルディハイはこの数月の間、フローラに無茶や意地悪を続けていたが、他の女の影は全くと言っていいほどなかった。
こんな昔話を口にすることもなかったのだ。
それが今になって……どうして?

「きっと……とても美しい方だったのですね」
フローラは淡い笑顔を作り、そう言ってみたが、声はわずかに震えていた。

「さあな、多分、そうだったのだろう」
「多分なんて」
「今となってはどうでもいいことだ。思い出そうとしても、霞が掛かって見えなくなる時さえある。子も産んだらしいからな、見栄えも変わっているかもしれん」
「子……?」

初耳にフローラは瞳を瞬いた。
彼女は、名はエマニュエルといったか、行方不明になったのだと聞かされていた。しかしモルディハイは彼女の行方どころか、近状まで知っている……?

どういうことだろう。例え他の男の妻になっていたとしても、モルディハイの力を持ってすれば、取り返すことも可能なはずなのに。
そんなフローラの声なき疑問に答えるような形で、モルディハイは続けた。

「もしあれを取り返すことが出来たとしても――最初から私の元にあったとは思わないが――今の私はもう、あれを受け入れないだろう。過ぎたことだ。過ぎたのだと、今は確信がある」

モルディハイはフローラに顔を向けた。瑪瑙色の瞳は、フローラを捕らえるとわずかに細められる。

(…………!)
これだ、とフローラは高鳴る鼓動と共に悟らされる。
この笑顔がいけないのだ、と。
散々嫌な思いをさせられても、どうしても彼の元を去れなかったのは、この笑顔のせいだった。熱くて強烈で、相手を捕らえて放さないもの。

「――私がこんなところまで散策に来るとでも思うか」

そう言って、モルディハイはフローラの頬へ両手を伸ばした。
矢傷を負った方の手には、フローラが自らドレスの裾を破って作った布が止血の為に巻かれている。最初のうちはいらないと言って鬱陶しがっていたモルディハイだが、いつの間にか馴染んだのか、もう文句も言わない。

「お前を追ってきた」

大きな手がフローラの顔を包み込んだ。
こ慣れた動きで近付いてくるモルディハイの唇を――フローラは拒めなかった。

一つ、熱い口付けが落とされたあと、小鳥たちのついばみのような短い触れ合いがなされ、そしてまた、情熱的な長い口付けを与えられた。

「は……、ぁっ」
身体の芯から力が抜けていく。熱くなった身体が、このまま溶けだして形を失ってしまいそうで、フローラはぎゅっとモルディハイの上着の裾を掴んでいた。

「どうして……貴方は私に、帰りたければ、帰れ、と、いつも……」

それは、一種の反論であったのだろうけれど、批判的な響きはどこにもない。
モルディハイはゆっくりとフローラの後ろ髪に手を回して、軽く上下に漉いたかと思うと、一房だけ手に取って、そこに口付ける――まるで何かの儀式ではないかと思えるほど厳かなその行為は、次の、モルディハイ得意の名言に続いた。

「私に二言はない」
「…………」

フローラは数回、瞬きをした。

「帰しただろう、確かに――しかし、追わないと言った覚えはない」
「あ」

モルディハイはまたも口元に笑みを浮かべる。――それが武器になることを、知っているように。

「帰りたければ帰るがいい。何処へなりとも、お前の好きな場所へ。ただし、私が何処までお前を追って行こうとも、文句を言うな」

 

 

モルディハイの体調が回復し、自身の足で歩けるほどになると、二人は林を出た。
夜のはじめ、周囲はほぼ闇に覆われ始めた頃だった。

ぴったりと寄り添いながら林を抜けた二人を迎えたのは、林道に立つ、一匹の馬を傍に従えた、一人の痩身の男だった。

「相変わらずですね、ジャフ王……貴方の王宮は大騒ぎですよ。王が消えたと。まさか貴方が警備兵のふりをして王宮を抜け出し、後宮から出ていった寵姫の後を追っているとは誰も思わないようで」
「ふん」
「ご無事で何よりです。あの者達は始末しました。ここはしばらく静かになりましょう」

そう言って、男は傍らの馬を従えモルディハイの前に進み、軽く頭を下げた。
微風のように優しい響きを持った声だった。
その痩身の男は、下げていた頭を上げるとまずモルディハイを見、そしてフローラに視線を移し、ふっと微笑んで見せた。

「――よく似ておいでですね」
男が言った。
が、モルディハイはそれが面白くなかったのか、フンと荒く鼻を鳴らして男に歩み寄り、馬の手綱をひったくるように奪い取った。

「私の妻の方が美しい。奴に会うことがあれば、そう言っておけ」
「わかりました、王」
痩身の男は、引き続き微笑んでいる。なんと……モルディハイにこんな態度を取ることの出来る人間がこの国にいるとは、と新鮮な驚きに、フローラは一種の感動さえ覚えていた。

男は、知らない者である上に、あんな事件に巻き込まれた後だというのに、不思議と恐怖を感じさせない人物だった。
どこか異国を思わす切れ長の瞳に、後ろで一纏めにされた漆黒の髪。簡素な麻作りの衣服もまた、どこか異国の香りを醸し出している。

「あなたは……」
とフローラが問いかけると、モルディハイはすかさず、「お前は知らなくていい」 と制した。

「――だ、そうです」
男は微笑んだまま肩をすくめて、そう答える。

ますます何だか分からなくて、フローラは肩を落とした。その間にもモルディハイは、男が連れて来た馬を色々と確かめている。若い茶色の雄馬で、モルディハイのような男がが近寄っても怯えることのない気丈さがあった。どうやら気に入ったらしく、モルディハイはその馬の首筋を撫でている。

「それも"あの方" からの贈り物の一つです、王」

男が言った。同時に、モルディハイの動きが突然ぴたりと止まる。

「国交を再開したいと――両国の為にも、これ以上、背を向けあう必要はないはずだと、あの方は仰っています。北の大国ターナも不穏な動きが多く、最近勢力を伸ばし始めています。我々は協力すべきだ、と」

モルディハイの瞳に、熱い炎が灯ったのを、フローラは見た。
――それは、怒りではなく。

何か……多分、モルディハイ本人にさえ掴みきれないほどの、情熱が芽生えた瞬間だったのだ。

モルディハイは無言で男に背を向けた。
男の方は、それにひるむことなく颯爽と佇んでいる――フローラだけが一人おろおろとしていたが、当のモルディハイは、しばらくの沈黙のあと、意外にも落ち着いた声で短く答えた。

「考えて、おこう」

――その、瞬間だった。
男が、満足げに微笑んだかと思うと、急に周囲に疾風が巻き起こったのだ。砂が巻き上げられ、フローラは反射的に素早く目を閉じる。

ごぉっと空気が空に吸い上げられたような音がしたと思うと、疾風はすぐに止んだ。

風も止み、辺りが静かになって、フローラは恐る恐る目を開けてみる。――と、そこにはもう、男の姿はなかった。
ただモルディハイと、男が残していった馬だけが、佇んでいる。

「あ……」
「相変わらず、食えない男だ」

モルディハイは言った。モルディハイにさえ食えない男と呼ばれるとは、一体何者なのか――。
フローラが呆然としていると、モルディハイは、いかにも彼らしい大股でフローラの前に近付いてきて、彼女を横抱きにすくい上げた。

そして、
「フローラ」
耳元に囁かれる、王の声。

「私の妻になるか――私の、楽園となり、地上の夢を見るか」

 

フローラ、花の娘。――花の楽園。

そこが天国でないことを知っている。
その蕾は、時に、長い冬のなかで、凍え続けなければならないことを。時に、厳しい季節を渡らなければならないことを。一度咲いた花は、いつか枯れなければいけないことを。

しかし知っている。季節は巡り、楽園はもう一度色づくことをも。

鮮やかな赤を迎えて。

 

「いつから……いつからですか? 最初は、そんな事、絶対にありえないと仰っていたのに。私だけは絶対に、と」
「そんな女を自分の後宮に入れる阿呆がいるか。最初からに決まっている」

それは決して、楽な道にはならないだろう。
それどころかフローラは今まさに、茨の道を選ぼうとしているのかもしれない。

でも……

でもきっと、それだけの価値があるものが、目の前に差し出されているのだ。
フローラは穏やかに微笑むと、答えた。

「私は、何処へも行きません……」
「ふん、口が腐るぞ」
「それはお互い様です、陛下……だから」

フローラは横抱きにされたまま、モルディハイの首に腕を回した。そしてささやく。「だから、もう離さないで……」

 

 

ジャフ王モルディハイの婚儀は、その夏、国を挙げて盛大に執り行われた。

隣国、ダイスの王がそれに参列することはなかったが、今まで無下に送り返され続けていた使者だけは、祝辞と共に受け入れられ、ジャフは返礼として数頭の名馬をダイスへ贈ったという。

そして、更に一年が過ぎた頃だ――ジャフ王宮に、新たな産声が上がった。

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