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Chapter 6: Decision of Paradise 9
戦場の色は、どこも埃(ほこり)がかっていて、不透明だった。 血が雨のように降るのを見た。 その全てが、悪夢の中でおこっている出来事のようで、現実だと感じられたものがあったとすれば、ただ恐怖の感情だけだ。それだけはひどく『現実』 だった。 ――貴方が、望んでいたのは。 ――貴方が望んでいたのは、ただ、この戦いを止めることだけだったはず。 序盤はエマニュエルを警護していたジャフの兵士達も、戦闘が激しくなってくるにつれ、散り散りになっていく。 隙を見て、エマニュエルは混乱の中を走り始めた。 それでも――自由になった今、求めるものは一つしかない。エマニュエルはただひたすらに、前だと思える方へ向かって走り続けた。 「ジェレスマイアさん!」 途中、エマニュエルは足をつまづかせて転んだ。砂が舞う。怒声が響く。一瞬、どちらが天で、どちらが地だったのかが分からなくなるほどの騒乱だった。 「見つけたぞ、小娘! 逃がすか!」 その時。 エマニュエルは急いで立ち上がろうとした。 そこに、だ。エマニュエルの前に、突然、黒の駿馬が全速力で駆けてくるのが見えた。 漆黒――濡れるような見事な黒の毛並み。 「――! ルーファス!」 初めてジェレスマイアと森へ出掛けた夜、彼らを乗せた馬だ。 確かにルーファスはそのまま、エマニュエルの追跡者だった男をなぎ倒した。 「乗せて、ルーファス。ジェレスマイアさんの所へ連れて行って!」 エマニュエルが鞍につかまってそう叫ぶと、ルーファスは内容を理解したらしい。 「お願い……ルーファス、ジェレスマイアさんの所に……!」 ルーファスの首筋を撫でながら、エマニュエルが懇願する。 そうしてエマニュエルはジェレスマイアの元へ辿り着いたのだ。
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モルディハイの宣言のあと、一時は水を打ったような静寂に包まれていた戦場が、少しずつざわめきはじめた。 何という事だ―― 疲労は怒りを助長する。 そして、ジェレスマイア…… 肩から溢れる鮮血が、王の甲冑を赤く濡らしていた。致命傷ではない。 「放して……」 拘束を解かれ、そのまま己の元へ走ってくるエマニュエルを、ジェレスマイアは恍惚とした、しかし切ない表情で見つめた。エマニュエルの長い金髪が、今は鎮まっている戦場を蝶のように舞って、戦士達の視線を釘付けにする。 エマニュエルが目前まで来ると、ジェレスマイアは出血を抑えていた手さえも傷から離し、両手を広げると、彼女を抱き締めた。 強く――強く。 もしこれが最後の抱擁だというのなら、永遠に……。 「エマ」 「ジェレスマイア、さん……」 エマニュエルが答えると、ジェレスマイアの腕はさらに強まった。 "会いたかった" と、エマニュエルは言いかけた。 抱き合っていた腕を下にずらすと、ジェレスマイアはエマニュエルの顔を覗いた。 晴れた春の空のような、澄んだ青の瞳が見える。 ジェレスマイアはやはり何も言わないまま、ゆっくりとエマニュエルを抱き直した。今度は優しく、ぎゅっと包み込むような抱擁だった。
ジェレスマイアはモルディハイとの対戦の前にルーファスを降り、ルーファスには、エマニュエルを見付け出して、彼女を安全な場所まで運び届けるようにと言いつけておいた――筈だった。 それがジェレスマイアに出来る、エマニュエルへの、唯一つの償いだったのだ。 しかし。 人の子には不可侵な運命というものがあるのだ。最早そうとしか思えない。 "この娘はいつか、王の為に命を捧げ――" エマニュエルはここへ戻ってきた。ここ、ジェレスマイアのもとへ。 愛しい娘、エマニュエル。 もし自分達に時間があったとしたならば……日に日に育っていく愛情は、きっと、年月を重ねる毎に深まっていったことだろう。今よりも更に。 今更――"もし" 二人を囲む現実は、冷たく時を刻んだ
「殺せ! 殺してしまえ! たかが小娘だ!」 血気盛んな兵士の一人が叫んだ。 ダイスの兵だったのか、ジャフの兵だったのかさえも定かではない。この血生臭い戦いをたった一人の小娘の命で終わらせてくれるというのなら、どちらも同じ思いだっただろう。 その声を合図として、他の兵士達も同じ台詞を次々と叫び出した。 ジェレスマイアとエマニュエルの二人は、まだ抱き合ったまま。 「……そうして、下さい。最初からずっと、そういうことになっていたから……時が来たらって。きっと今が、そうです」 「だから……ね。最初はずっと怖かったけど、今は……ジェレスマイアさんと会えて、嬉しかった」 「貴方の願いを、叶えられるなら……それも、嬉しいから……だから」 エマニュエルはジェレスマイアの腕をすり抜けると、地面に落ちていたジェレスマイアの剣を拾い上げ、その柄を持ち主の元へ押し付けた。 「願いを、叶えてください……これで」
――モルディハイは二人の一挙一動を無言で、そして口を一文字に結んだ無表情で、見ていた。 (そうだ……) 着実と計画した通りに進む"事" を、見守る。 他に道がないのを、ジェレスマイアは分かっているはずだ。 もしエマニュエルに手を掛けるのを拒んだとすれば、その時は、モルディハイの近衛隊が彼女を射るまでの話。 モルディハイは自分の鼓動が高鳴っていくのを強く感じていた。 ドクン、ドクンと、脈を打つ心臓。原始の音。 しかし――手に入らないのならば、いなくなればいい。 ここに勝者はいない。しかし、少なくとも負けではないのだ。 (エマニュエル) では、この鼓動は何なのだ―― 胸をかきむしりたくなるほど痛む、吐き気さえしてくるほどの、この動悸は何だ……
ジェレスマイアは、エマニュエルに差し出された剣の柄を、一度は持った。 しかしすぐに投げ捨ててしまう。エマニュエルは足元に落ちた剣と、ジェレスマイアを交互に見つめた。どうして、と小さな声を洩らすと、ジェレスマイアは切ない表情を隠すこともなく、擦れた低い声で答えた。 「私に出来ると思うか……今更、お前に手を掛けるなど」 「お前は私の心をさらった。エマニュエル、私の生きる理由。お前は私の世界を変えた。お前がいなければ生きている理由のない世界に」 「私の願いはもう国にはない。お前自身が、私の願いだ」 ね、その門を開いて…… この一瞬の恍惚のためにだけ、今までの生を生きてきたのだとしても、後悔はしないから…… エマニュエルはそっと、片手でジェレスマイアの頬へ触れた。 灰色の瞳がとても優しく見えて、今が自分達の最期のときであるかもしれないというのに、もう、悲壮さはない。 「私も、ジェレスマイアさんの傍に居られる時間が、一番、幸せで……」 ……楽園そのもの。 戦場だったその場は、一瞬騒然とした。 城壁の上に立つ弓手達は、まだ弦を引き目標へ構えたまま、モルディハイの合図を待ち続けている格好だった。しかし地上の兵士達はどう振る舞うべきかを分かりかねていた。これは――ただ双方の王が一人の女を、いや、少女を、取り合っていたというだけの話なのか。 いや、これはダイスの王が乱心したのだ。いや違う、乱心したのは、ジャフ王の方だ。 二人の口付けは長く続いて、やっとジェレスマイアがエマニュエルの唇を離したとき、エマニュエルの身体は熱い余韻にくたりと倒れてしまいそうなほどだった。 これが最期なのだろうか、それとも、未来に希望を持っていいのだろうか。 ひとときの口付けに与えられた甘い希望に、エマニュエルは、背後のもう一人の王の怒りに気が付かなかった。 どう表現していいのか分からない。 「きゃっ!」 急いで振り返る――と、同時に、モルディハイの大剣が高く振りかざされ、ジェレスマイアを目掛けて振り落とされるところだった。 「――っ!」 ――――…… すべてが、ゆっくりとみえた。 そして、ジェレスマイアの剣がモルディハイに近付いたとき、エマニュエルは理解した。 同時に、城壁上に構えられた弓がさらに引かれるのをも、エマニュエルは見た。 彼らはモルディハイの兵だ。 (予言) そう――これは、全て予言されたとおり。 "その手でこの女を殺せ、ジェレスマイア!" エマニュエルは立ち上がると走った。 負傷した肩とは別の腕から繰り出されたジェレスマイアの剣は速く、そのまま、エマニュエルの胸に吸い込まれるように突き立てられていった。
「エマニュエル――!!」 二人の王の声が、同時に響いた。 エマニュエルの身体はまず、刺された反動でモルディハイの腕の中に倒れていく。 (どう、して……?) 薄れていく意識の中で、慟哭に歪んだ二つの顔を見つめながら、エマニュエルは思った。 ……これは、貴方たち二人が望んでいたこと。 ジェレスマイアは最初から、いつかエマニュエルを殺すと明言していたのではないか。 「……ぁ……っ」 エマニュエルは喋ろうとしたが、その途端に咽の奥から苦いものが込み上げてきて、声を出す邪魔をされてしまう。痛みに身体が震えた。 "王"―― 違う。 夢があって、恋をして、愛に飢え。 「死ぬな……っ、エマニュエル!」 自身の狂言が現実となって、うろたえてしまうような、そんな、不完全でずるい、ただの生身の人。 愛しい、ただの子供。 「泣か……ない……で」 絞り出すようにしてやっと喋ることが出来たのは、蚊の泣くようなか細い声だけで、二人に聞こえたのかどうかさえエマニュエルには分からなかった。 エマニュエル、エマニュエル もう、痛みは遠くて、後悔はあまりない。 エマニュエルは最期の力をもって、淡く微笑むと、言った。 「仲良く……して……ね、ずっ……と」
最後に、また小さく身体を震わせると、エマニュエルは眠りに落ちるように静かに瞳を閉じた。 そして動かなくなる。 くたりと、二人の男の腕に預けられた身体は、力を失っていった。
*
そして――指揮者を失った両軍は、混乱のうちに散り散りになっていった。 泣いている者もいたし、ただ無言で去る者もいた。 生気を失ったエマニュエルの身体が、大地に横たえられる。 ジェレスマイアとモルディハイはふらふらと立ち上がった。立ち尽くす、という言葉が、その二人の姿にぴたりと当てはまるようだった。 どこからか現れたタミール将軍が、ジェレスマイアの傍まで来ると、肩に手を置いた。 ――戦闘の跡は深く、大地に転がるエマニュエルの身体も、ただその一部でしかない。 嵐のあと。 そして嵐は過ぎ去った。傷跡だけを残して。 "やがて嵐が止んだとき、この王宮の前には沢山の花が咲くよ。草原に生えるような色とりどりの花さ……美しい。あんたは泣くだろうね"
*
これが『赤の決戦』、その結末だった。 次の朝には、悲劇の戦場に生きた者の姿はほとんど見えなかった。 何故、最初からこうなっていなかったのだろう―― 何故、犠牲を生んだ後でしか、許し合うことができないのだろう……?
そしてこの戦いの結末に、不思議なことが、もう一つ。 エマニュエルの遺体の行方だ。 そしてまた時を同じくして、一人の行方不明者が出た。 モルディハイの忍びであった彼は、この日を境に誰の前からも姿を消していた。 当然、この混乱の中、一人の間者の存在に気を止める者は少なく。 |
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