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Chapter 6: Decision of Paradise 5
選択の余地があっただろうか。あったとして、それで誰かが救われただろうか。 ――エマニュエルは差し出されたモルディハイの手を取った。 笑顔と呼ぶにはあまりにも残酷なそれを、エマニュエルは無言で見つめた。
*
ダイス宮殿は騒然としていた。 その即位から今日に至るまでの長きにおいて、国家の支柱であった若き王が、正気を失ったのだ。 『まさか』 と、人々は信じなかった。 時は折りしも、今年初めての熱風が、灼熱の季節の到来を告げたころ。 槍が打たれ、剣が磨かれ、兵は鍛え上げられた。
いつにも増して冷たく光る石の回廊を、マスキールは一人進んだ。 遥か上、天井に吸い込まれていく鋭い靴音を、まるで他人のもののようにさえ感じる――『王の間』 へ続く回廊。ここはかつて、これほどまでに冷たく、孤独な場所だっただろうか? 建物も、歳月を経ると性格を持ち始めるものだ。住人を生き映すように。 (それがどうだ――) もし地獄への門が存在したとしたら、そこはきっとこんな底冷えを湛えているに違いない。 重苦しい悪寒が肢体にまとわりついてくる。 「これ、は、マスキール様……っ、」 急に、マスキールの後ろから若い女性の声がした。声の主を知るのに、振り返るまでもなく……。 「ギレン! まだここに居たのか……里へ帰るはずだったのでは」 王、の一言に、ギレンの瞳が苦渋を浮かべる――同情を、しているようでもあった。 「エマニュエル様が、突然いなくなられて……私に事情の説明はありません……でも、ジェレスマイア様は、エマニュエル様はすぐに戻られると仰って……いつも通りに仕事をしろと。でも……」 彼女の細い肩が、小さく震え始めるのを感じて、マスキールは手を緩めた。 「でも、おかしいんです! ……ジェレスマイア様は、まるで……」 ギレンはそこまで言いかけて、咽を絞られたかのようにグッと言葉を飲み込んだ。 「……王は、マスキール様。王は、陛下は、今……何かが」 「王には私がお会いしてくる。ギレン、お前は下がっていなさい」 何か言いかけたギレンを遮ると、マスキールは視線の先にある厳かな扉を見据えた。
かつて洗練を極めた優雅な大部屋は、今や無残なまでに乱されていた。 布という布は切り裂かれ、どうやって行われたのか想像するのも恐ろしいが、頑強なはずの調度類から装飾品に至るまでが、割られ、破壊され、むなしく床に転がっている。 ジェレスマイアの後ろ姿を、その破壊の海の中から見つけるのに、時間は掛からなかった。 「ジェレスマイア様……」 「来たか、マスキール……お前にはジャフに寝返る道もあっただろう」 「――いいえ、ジェレスマイア様。私の忠誠は常に貴方の元にあります。国家の元に」 違います。マスキールがそう言おうとした途端、身体が予告なく宙に浮いた。 ジェレスマイアの片手がマスキールの首にめり込む。肉を絞られるような嫌な音がした。マスキールの顔が苦痛に歪められ、痛みに 背を痙攣させると、ジェレスマイアは乱暴に手を離した。 「……ぁ……っ、く……はぁ……っ!」 しかしジェレスマイアにマスキールを気遣う気配は皆無だ。それどころか、冷えた視線でマスキールを見下ろしていた。 「――私はあれを取り戻す。用意しろ。二度目はない」 「王……っ、それ、は」 髪が伸びた、と、こんな時に……そんな小さなことに気がいった。しかしジェレスマイアの瞳はもう、マスキールの知るそれではない。 「それほど……っ、それほどまでに、あの少女のことを!?」 「お前が言うのか」 「私は……王、貴方をお助けするのが使命です。貴方は常に正しかった。だからこそ私は貴方に忠実だった。しかし…… ひっ!」 床に倒れた格好のままだったマスキールの喉元に、ジェレスマイアの長剣が驚くべき素早さで当てられた。 「王……貴方があの少女に心を許していく様を……確かに、見ていました。……微笑ましくさえ思った……貴方に必要なものだったとも……」 マスキールは切れ切れに喋り始めた。声は悲しいほど震えていたが、言葉に迷いはない。 「……しかし、一線を越えたのをも……理解しました。……これでは、貴方の妨げになると……だからこそあの夜、私は貴方を裏切った……王、貴方の為に。そしてダイスの為に――」 ジェレスマイアの剣を持つ右手に、力が込められた。 覚悟は、していたのだ。呼び戻された時点で、例え極刑に処されても何も言えまい、と―― 「待ってください! ジェレスマイア様、どうかお止めになってください!」 ギレンの悲痛な叫びが、男二人の緊迫した場面を割った。同時に、ギレンはマスキールの元に駆け寄ると膝を折り、床に倒れていたマスキールの身体にしがみついた。 「どうか、どうか……っ、ご処分なら何なりと、私の首を持ってしても!」 「何があったのかは存じません。けれど、マスキール様はいつでも陛下の為に、必死で働いておられたはずです……どうか、どうか、ご恩情を! 代わりに私を!」 ――悲しく、そしてむなしい遣り取りだった。 ギレンの瞳には涙が浮かんでいた。 「ギレン!!」 ――ジェレスマイアの長剣が、大きく振りかぶられ、宙を切るのを、見た。 そこに思考は存在しなかった。マスキールはただ、自分に覆いかぶさっていたギレンの身体を抱きかかえると、体勢を逆転させた。 その悲鳴さえ押しつぶしてしまうほど、マスキールは彼女を抱く腕を強めた。 背を、切り裂かれる痛みが、強烈に走った。 「う……」 「マスキール様、マスキール様……っ! 嫌です、血が……動かないで下さい!」 しかし 「ジェレス……マ」 ジェレスマイアの声は、変わらず冷酷な響きをもっていた。 しかし、腕の中で泣きじゃくるギレンと、彼女を守ったという一つの満足感を前に、マスキールの言葉はかきけされた。 「どんな痛みをもだ。国さえ」 ジェレスマイアは血に濡れた剣をそのまま腰に収めた。 しかしそれは有り得ない。ジェレスマイアは、それほどまでに卓越した主君だ。運命が彼を許すはずがないのだ。 ――なんと悲しい男なのだろう。 小国の皇子として生まれ、一時の休みも無く教育に時を奪われ、両親を早く亡くし、その人生の全てを国の為に捧げ続けてきた男。 その結果が、今、ここにある苦しみなのだ。 「ジェレスマイア王……」 「ダイスは貴方を支えるでしょう……貴方が、ダイスを支えてきた、その恩恵として。そして――」 ジェレスマイアは既に、マスキールとギレンに背を向けて部屋を後にしようとしていた。
「運命が、王、貴方を祝福しますように」 |
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