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Chapter 6: Decision of Paradise 5

 

選択の余地があっただろうか。あったとして、それで誰かが救われただろうか。

――エマニュエルは差し出されたモルディハイの手を取った。
その先に何があるのか、分からないまま。しかしモルディハイは満足そうに口の両端を上げた。

笑顔と呼ぶにはあまりにも残酷なそれを、エマニュエルは無言で見つめた。

 

 

ダイス宮殿は騒然としていた。
その即位から今日に至るまでの長きにおいて、国家の支柱であった若き王が、正気を失ったのだ。

『まさか』 と、人々は信じなかった。
今までも度々あったこと。我等が王の、激しい一面が表面に出されただけなのだろうと――これこそが本来の王の姿なのだろうと、 熱狂したほどで、それを狂気と結び付ける者は少なかった。

時は折りしも、今年初めての熱風が、灼熱の季節の到来を告げたころ。

槍が打たれ、剣が磨かれ、兵は鍛え上げられた。
――嗚呼、来るべき日が来たか。
予感が、噂が、現実となる時がやってきたというわけだ。西の大国、搾取が横行する尊大な国、ジャフ。彼らはいつだって飄々と我々を狙っていた。さぁ、誇り高く反旗を。

 

いつにも増して冷たく光る石の回廊を、マスキールは一人進んだ。

遥か上、天井に吸い込まれていく鋭い靴音を、まるで他人のもののようにさえ感じる――『王の間』 へ続く回廊。ここはかつて、これほどまでに冷たく、孤独な場所だっただろうか?

建物も、歳月を経ると性格を持ち始めるものだ。住人を生き映すように。
こここそ正にそれで、ジェレスマイアその人を体現したような、冷たくはあるが澄んだ、威厳に満ちた重厚な雰囲気が常に漂ってい たものだ。

(それがどうだ――)

もし地獄への門が存在したとしたら、そこはきっとこんな底冷えを湛えているに違いない。
マスキールにしてそう思わせる、嫌な冷気が漂っていた。
警備の数もいやに少ない。

重苦しい悪寒が肢体にまとわりついてくる。
陳腐に表現すれば、"嫌な空気" とでもなるのだろう。宵の口という時刻も手伝い、回廊はこれまでになく暗く冷たかった。
しかし、この道を引き返す訳にはいかないのだ。
マスキールは頭を振って前を据え直すと、同じ機械的な歩調で、長い廊下を進んだ。その途中、

「これ、は、マスキール様……っ、」

急に、マスキールの後ろから若い女性の声がした。声の主を知るのに、振り返るまでもなく……。
青い顔をして駆け寄って来たギレンの肩を両手で掴むと、マスキールは彼女に訊いた。

「ギレン! まだここに居たのか……里へ帰るはずだったのでは」
「いいえ、マスキール様。こんな状況で王宮を離れるなど……それに、ジェレスマイア様が、まだ」
「王が?」

王、の一言に、ギレンの瞳が苦渋を浮かべる――同情を、しているようでもあった。

「エマニュエル様が、突然いなくなられて……私に事情の説明はありません……でも、ジェレスマイア様は、エマニュエル様はすぐに戻られると仰って……いつも通りに仕事をしろと。でも……」

彼女の細い肩が、小さく震え始めるのを感じて、マスキールは手を緩めた。
マスキールを見上げるギレンの瞳はゆっくりと、しかし確実に、涙で潤み始める。

「でも、おかしいんです! ……ジェレスマイア様は、まるで……」

ギレンはそこまで言いかけて、咽を絞られたかのようにグッと言葉を飲み込んだ。
あぁ――やはり。
――恐れていた、ことが。
マスキールは、元々冷えていた自分の指先が、更に体温を失ってゆくのを感じた。力が散漫になる。思考が不安定に揺れる。

「……王は、マスキール様。王は、陛下は、今……何かが」
ギレンの声もまた、不安に揺れているようだった。

「王には私がお会いしてくる。ギレン、お前は下がっていなさい」
「でも――」
「もし何かあったら、人を呼ぶように」
「――っ」

何か言いかけたギレンを遮ると、マスキールは視線の先にある厳かな扉を見据えた。

 

かつて洗練を極めた優雅な大部屋は、今や無残なまでに乱されていた。
布という布は切り裂かれ、どうやって行われたのか想像するのも恐ろしいが、頑強なはずの調度類から装飾品に至るまでが、割られ、破壊され、むなしく床に転がっている。

ジェレスマイアの後ろ姿を、その破壊の海の中から見つけるのに、時間は掛からなかった。

「ジェレスマイア様……」
マスキールが呼ぶと、王は――そうだ、正に王の、万人の息を飲み込んでしまう気迫を持って――振り返った。

「来たか、マスキール……お前にはジャフに寝返る道もあっただろう」
低く、冷たい声だった。マスキールは息を呑む。

「――いいえ、ジェレスマイア様。私の忠誠は常に貴方の元にあります。国家の元に」
「その為にあれを差し出したと言うか」
「あの宴の夜は、確かに――しかし今度のことは」

違います。マスキールがそう言おうとした途端、身体が予告なく宙に浮いた。
「ぐ……っ!」
「どちらでもいい! あれが受けた苦しみを思い知るがいい!」
「ぐあっ!」

ジェレスマイアの片手がマスキールの首にめり込む。肉を絞られるような嫌な音がした。マスキールの顔が苦痛に歪められ、痛みに 背を痙攣させると、ジェレスマイアは乱暴に手を離した。
散らかった床に、マスキールの長躯が投げ出される。

「……ぁ……っ、く……はぁ……っ!」
マスキールは背をそらすと必死で息を吸った。まだ、息が出来るということが、奇跡にさえ思えた。

しかしジェレスマイアにマスキールを気遣う気配は皆無だ。それどころか、冷えた視線でマスキールを見下ろしていた。

「――私はあれを取り戻す。用意しろ。二度目はない」
ジェレスマイアは無機質な声でそう言い放った。

「王……っ、それ、は」
「第一陣の準備は出来ている。お前は宰相として私の不在を守れ」
「行かれるおつもりですか!」

髪が伸びた、と、こんな時に……そんな小さなことに気がいった。しかしジェレスマイアの瞳はもう、マスキールの知るそれではない。
狂気が生気にとって代わり、冷静さはただ冷酷へと姿を変えている。
ダイスの王。若き銀の虎。今はただ――

「それほど……っ、それほどまでに、あの少女のことを!?」
マスキールは声を上げた。
「貴方は仰ったはずです、覚悟は出来ていると! 今こそがその時ではありませんか! ジャフはあの少女を餌に貴方を誘き出そうとしている!」

「お前が言うのか」
短く答えたジェレスマイアの声は、ひたすらに冷たく低かった。この世ではない何処かから聞こえてくる、非現実の響きをもって。

「私は……王、貴方をお助けするのが使命です。貴方は常に正しかった。だからこそ私は貴方に忠実だった。しかし…… ひっ!」

床に倒れた格好のままだったマスキールの喉元に、ジェレスマイアの長剣が驚くべき素早さで当てられた。
恐ろしいと……感じるより先に、大量の汗が額から首元にかけて溢れる。
たった一点。
しかし致命的な一点に当てられた、冷たい鉄の感触が、マスキールの体温を容易に奪っていく。下手に動けば命はない。マスキールはごくりと息を飲んだ。

「王……貴方があの少女に心を許していく様を……確かに、見ていました。……微笑ましくさえ思った……貴方に必要なものだったとも……」

マスキールは切れ切れに喋り始めた。声は悲しいほど震えていたが、言葉に迷いはない。

「……しかし、一線を越えたのをも……理解しました。……これでは、貴方の妨げになると……だからこそあの夜、私は貴方を裏切った……王、貴方の為に。そしてダイスの為に――」

ジェレスマイアの剣を持つ右手に、力が込められた。
肌を刺す鋭い痛みがマスキールの喉元に走り、ツ、と温かく赤い流れが、一筋走る。マスキールは眉を寄せ、両瞼を閉じた。

覚悟は、していたのだ。呼び戻された時点で、例え極刑に処されても何も言えまい、と――
その時、だ。

「待ってください! ジェレスマイア様、どうかお止めになってください!」

ギレンの悲痛な叫びが、男二人の緊迫した場面を割った。同時に、ギレンはマスキールの元に駆け寄ると膝を折り、床に倒れていたマスキールの身体にしがみついた。
そして顔だけを上げると、王に向かって叫んだ。

「どうか、どうか……っ、ご処分なら何なりと、私の首を持ってしても!」
「ギレン!」
ジェレスマイアに懇願したギレンに、マスキールが声を上げた。しかしジェレスマイアの表情は変わらない。剣も、引かなかった。

「何があったのかは存じません。けれど、マスキール様はいつでも陛下の為に、必死で働いておられたはずです……どうか、どうか、ご恩情を! 代わりに私を!」
「ギレン、やめなさい!」
「いいえ。陛下、どうか剣をお引き下さい! 代わりに私の命を!」

――悲しく、そしてむなしい遣り取りだった。
マスキールとギレン。二人の姿を見て、ジェレスマイアの脳裏に去来したものが何だったのか。後になって考えれば、答えはあまりにも明らかだったのだ。

ギレンの瞳には涙が浮かんでいた。
マスキールのそれには、痛切な祈りが――ジェレスマイアは無闇に臣下に手を下す種類の王ではない。しかし、この状況下で、どこまでそれが通用するというのか。
もし、今――

「ギレン!!」

――ジェレスマイアの長剣が、大きく振りかぶられ、宙を切るのを、見た。

そこに思考は存在しなかった。マスキールはただ、自分に覆いかぶさっていたギレンの身体を抱きかかえると、体勢を逆転させた。
きつく包み込まれたギレンが、悲鳴を上げる。

その悲鳴さえ押しつぶしてしまうほど、マスキールは彼女を抱く腕を強めた。

背を、切り裂かれる痛みが、強烈に走った。
ギレンの悲鳴を遠くに聞いた。
しかし――あぁ、しかし。

「う……」
マスキールは小さくうめき声を漏らすと、力なくギレンの身体に倒れかけた。
「マスキール様!」
ギレンが泣きながら必死に何かを語りかけてくる。涙と相まって、言葉の内容はよく分からなかったが、彼女が無事なのだけは理解 した。

「マスキール様、マスキール様……っ! 嫌です、血が……動かないで下さい!」
「大……丈夫だ……ギレン……」

しかし
「理解しただろう、マスキール」
後から響いた主君の声だけは、聞き逃すことはなかった。

「ジェレス……マ」
「痛みなど感じまい。愛する女を守る為なら、己の身体など幾千差し出しても惜しくはあるまい」
「王……」
「お前は私を高く見すぎた――国家も国民も歴史も、崇高な願いなど全て、一人の女を前にして捨て去れる男だ」

ジェレスマイアの声は、変わらず冷酷な響きをもっていた。
マスキールは振り返った――本来なら、ここで否定しなければいけないのだ。何に狂おうとも、ジェレスマイアが王であることに変わりはない。

しかし、腕の中で泣きじゃくるギレンと、彼女を守ったという一つの満足感を前に、マスキールの言葉はかきけされた。

「どんな痛みをもだ。国さえ」
「王、よ……」
「廃位にでもするがいい。後継はダヤン公……お前でも構わん。好きにしろ」

ジェレスマイアは血に濡れた剣をそのまま腰に収めた。
――この王は行くのだ。
たとえ王という地位を失っても、止めることはないだろう。

しかしそれは有り得ない。ジェレスマイアは、それほどまでに卓越した主君だ。運命が彼を許すはずがないのだ。
王位さえかえりみないと宣言したその姿こそが、あまりにも、王の資質を映し出していた。

――なんと悲しい男なのだろう。
マスキールはジェレスマイアをもって、初めて、深く同情した。

小国の皇子として生まれ、一時の休みも無く教育に時を奪われ、両親を早く亡くし、その人生の全てを国の為に捧げ続けてきた男。
礼節に基づいた王としての嗜み以上の贅沢を、この男は求めたことが無かった。
ただひたすら、先祖が残した国と王家の為だけに生きて。

その結果が、今、ここにある苦しみなのだ。

「ジェレスマイア王……」
痛みからなのか、悲しみからなのか、理由のはっきりしない涙が、マスキールの瞳に溢れた。
言ってはならない筈の言葉が、勝手に口をついて出ていた。

「ダイスは貴方を支えるでしょう……貴方が、ダイスを支えてきた、その恩恵として。そして――」

ジェレスマイアは既に、マスキールとギレンに背を向けて部屋を後にしようとしていた。
孤独な背中を見詰め、貧血に震える足元をなんとか奮い立たせながら、マスキールは祈った。そして

 

「運命が、王、貴方を祝福しますように」

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