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Chapter 1: Paradise LOST 4
マスキールはしばらく、見開かれたエマニュエルの両瞼を推し量るように見つめて、そしてベッドから静かに離れた。 咳払いを軽く一、二回すると、短い溜息を吐く。 「……失礼しました。とにかく、ここに居る限り、貴女の望む物は何でも差し上げよというのが王からのお達しです」 あの灰色の瞳の男だ。エマニュエルにとっては全ての元凶。 冷たい、彫りの深い彫刻のような男だった。美しいと言っていいのかは分からない、が、一度目にすれば心から離れなくなる、そんな魅力を持った姿。 「あの人が……本当にこの国の王、なんですか。若いのに……」 「王様、なんでしょう。願いなんて、何もしなくても何でも叶うし……どうして」 エマニュエルは真っ直ぐマスキールの目を見ながら言葉を続けた。 彼女の両親はずっと彼女を隠していたのだ。当然学校にも通わせていない。 「――王だからと言って、何でも叶うというのは違います。エマニュエル様」 「それどころか、王だからこそ叶わない願いも多い。そして、王だからこそ叶えなければならない願いも」 エマニュエルは瞬いた。 「とにかく。大丈夫な様ですので、私はこれで下がります。外には警備が張っておりますので、逃亡は考えない方が身の為です。昼食までには侍女をよこしますので、お休み下さい」
*
「ふ…………っ」 マスキールが去って、扉が閉まり、部屋に静寂が戻る。 ――あの者達は何なんだろう。 そう思った。まだ大勢と顔を合わせた訳ではない。 これまでのエマニュエルの行動範囲は確かに、自然の中を除けば広いとはいえなかった。 彼らは例え素っ気無くてもどこか温かみがあった。 (痛い……いろんなところが……) 身体だけじゃない――どこかもっと深いところがじくじくと痛んでいる様な気がして、エマニュエルは白いシーツに顔を埋めた。
「私、ギレンと申します。本日からエマニュエル様にお仕えいたしますので、どうぞお見知りおきを」 マスキールが出入りした扉から、そう言ってエマニュエルとそう変わらない年頃の少女が現れたのは、あれから数時間後。 「つ、仕え…………?」 「はい。お着替え、お食事、湯浴(ゆあ)みなどのお手伝いを……」 ……そして顔を上げる。と、ギレンとエマニュエルの目が合った。 「あ、あの……とりあえずお食事をご用意したのですが」 こんな状態で、一体何をどんな顔をして食べろというのだろう? 「ご飯、食べたいです。どこに行けばいいんですか……?」 エマニュエルは出来るだけ丁寧な風に、ギレンと名乗った少女に尋ねた。 と、エマニュエルはごく当たり前の質問をしたつもりだった。 「もちろん、こちらにお運び致します。姫君は皆、そうなさいますし、マスキール様からエマニュエル様を外に出さないよう申し付かっておりますので」 ――今度はエマニュエルが驚いた顔をする番だった。 「マスキールって、あの、背の高い男の人のこと……ですか?」 「ご存じないのですか? マスキール様は王の右腕、王の従弟でもいらっしゃいます。この王宮で知らぬ者はおりません」 もちろんエマニュエルには知り得なかったことだ。 「それに王様って……あの若い灰色の目の男の人ですよね……? もっとお爺さんじゃないんですか?」 ギレンは眉を上げた。 "王の大切なお方だ。失礼の無いように" ――マスキールからは、ただそう言われていただけだ。 「エマニュエル様……ご質問なら、出来る限りお答え致します。今はお食事を先におすましになった方が……」
ベッドの上、エマニュエルの太腿の辺りに低いテーブルが据えられ、食事が供された。 なんとも繊細な装飾を施された皿の上に供されているのは、エマニュエルが見た事もないほど透き通った、飴色のスープだ。 そしてエマニュエルのベッドの横には、給仕用と思える腰の高さほどの車輪付テーブルと、その傍に立っているギレンが居る。 「美味しい…………」 ――いつか自分を殺すと言った男の王宮から出された食事。 「マスキール様から、最高の物をお出しするようにと申し付かっておりますから……。何か別の物が欲しければ仰って下さい、すぐご用意いたします」 エマニュエルは首を振った。 「ううん、充分です……。あの、貴女も食べた方がいいんじゃないですか?」 ギレンはつい高い声を上げて、そしてしまったという風に口に手を当てた。 「ゆっくり召し上がって下さい。しっかり療養なさらないと、王が心配されますから」 もちろん、侍女などというものが自分に就いたのは初めてだし、実際に目にしたのさえ彼女が初めてだ。しかしギレンの言動にエマニュエルは驚かされ続きだった。 「ど、どうして、あの王様が心配なんてするんですか? 私の具合なんて、命さえ無事ならどうでもいいって言ってたのに」 「そんな筈ありませんわ……エマニュエル様。この王の間にお部屋を頂けるというだけで、ご正妃様と同等か、それ以上の扱いなのです。しかもあのマスキール様が直々にお目付け役を受けるだなんて……本当に特別なのですよ」 エマニュエルはスプーンを盆に戻した。 ……と、そこまで考えてエマニュエルはギクリとした。 ジェレスマイアが自分をあの牢獄からここに移したのは"今死なれては困る" からだったらしい……。 またどこか、牢へ繋がれるのだろうか……? 「でも……きっと、怪我が良くなったらどこか別の所へ行かされると思います」 エマニュエルが目を伏せてそう言うと、ギレンは首を横に振った。 「いいえ、そんな筈はありませんわ。ずっとここでお仕えするようにと、申し付かっていますもの」 (どうして……) 「王の間に部屋が頂けるのは、本来ならご正妃様のみです。王のお部屋もこのすぐ近くなのですよ」 ギレンの言葉にエマニュエルは顔を上げた。 「あ、あの王様って、結婚……して……?」 エマニュエルが恐る恐る尋ねると、今度はギレンの瞳に好奇の色が宿った。 「いいえ、エマニュエル様。現王は即位してこのかた、側室は数人いらっしゃいますが形ばかりで……后は迎えられておりませんわ。これも有名な話です」 「お后様がいないから部屋が空いてて……それで私にあてがったのかも……」 自然と浮かんだ結論を、エマニュエルはぽつりと口にしてみる。するとギレンはまた口に手を当てた。 「まさか、エマニュエル様……この部屋はずっと主がいなかったのです。現王が即位されてからずっと。それを、突然部屋が必要になったからといって、誰それとなくあてがったりはいたしませんわ。空き部屋なら後宮にも客間にもまだあります」 ――エマニュエルは確かに、人里離れた地で隠されて育った。 「ち、違いますっ! それは絶対に違うはずです……っ」 (殺すつもりで) そう、言いかけて。エマニュエルは言葉を止めた。 「…………?」 ギレンが首を傾げた。 「とにかく、そういう理由じゃないはず……です」 どこかぎこちない感じで、エマニュエルはゆっくりと答えた。 「……どちらにしても、お怪我を治すのが先決ですね。パンもいかがですか?」 エマニュエルが頷くとギレンがパンの入ったバスケットを持ってベッドに近付いてきた。 「でも……どうして貴女は私の侍女に……?」 世話をするより、世話をされる方がよっぽど合っていそうだ。 「マスキール様の……ご好意で。遠い親戚なんです、もちろん、王家とは繋がりのない……マスキール様のお母様の姪が私の母で……」 (わぁ……っ)
そんな女性の美しさを知っている。 母だ。父を見つめるときの、母の表情――。 "恋" だ いつか自分にも訪れるのだと、信じて 疑っていなかった、想い
ギレンは知っているんだ。"恋" を。それは、経験のない自分にさえ、すぐに分かる――。 いつか。ずっとそう思っていた。はにかむギレンの綺麗な顔。 この豪華なベッドと広い部屋に閉じ込められて、逃げられない。 時が来るまで。私はここで、憧れていたあの想いを知らずに、殺されてしまうの……?
「え、エマニュエル様……っ!? 私何か、気に障ることを?」 突然、エマニュエルの頬を伝った一筋の涙に、ギレンが慌て出す。 けれどその瞬間、ガタンという音が部屋に響いて、ギレンは動きを止めて顔を上げた。 「…………え」 エマニュエルは声を出した。 「下がっていていい、必要になれば呼ぶ」 ――そう、短い会話がギレンとジェレスマイアの間で交わされた。 突然部屋に入ってきたジェレスマイアは、そのまま真っ直ぐにエマニュエルのベッドへと向かう。 「…………」 それは、誰によってもたらされたのか……
エマニュエルの瞳には涙が。 ジェレスマイアの瞳には、灰色の、冷たくて熱い、何か が――。 |
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