Le jour et la nuit 【5】

 自分が消えてなくなる時。それはどんな感じになるのだろう。
 自分の存在がこの世から消えるとき。
 それは先細るように徐々に、じわじわと起こるのだろうか。それともある瞬間に突然、ぷつりと糸が切れるように全てが綺麗になくなるのだろうか。
 自分が、いつか消えることはよく分かっていたが、それがどんな風に起こるのかまでは予想がつかなかった。考えたことさえなかったというのが実際のところだ。今まではどうでもよかったのだから。
 ――結局、自分は何がしたかったのだろう。
 本当はあのまま隠れていればよかった。
 昔のように、響の一部として、奴のふりをしていればよかった……。
 そうすれば誰も傷付かずにすんだはずだ。
 少なくとも、沙織だけは絶対に気付かなかった。一ノ宮響は夜になると少し奔放になる。しかし薫子の死とともにそれも治まった――その程度の認識をもつだけで、全ては方がつくはずだったのだから……。
 しかし、沙織の存在は響を目覚めさせた。
 思い出の中だけの宝物だった少女が、現実となって目の前に現れ、あの頃と変わらない笑顔を見せる。それは至福で、そして同時に、うずくような地獄だった。沙織が一ノ宮家に居たころ、それは薫子の折檻がもっとも酷かったころに重なり、否応なしに不快なだけの思い出をも掘り起こした。そして、そんな中で、響にとって沙織がどれだけの救いだったかをも――。

『いつか、必ず迎えに行く』
 響《キョウ》 のふりを続ければよかった。――あの頃のように。

『いつか沙織を俺のお嫁さんにするよ。必ず迎えに行くから、俺を忘れないで欲しい』

 "Le Jour" の夜は昼時に比べてずっと静かだ。
 客数も半分ほどで、どの客もゆっくり食事をとるため給仕の沙織の仕事も半減する。沙織は手すきに明日の準備をしたり、賄いを取ったりして閉店の片づけに入るのを待っていた。
 その夜は特に落ち着いていて、目立った客は四人連れの家族と、若いカップルが数組だけだ。他にポツリポツリと、軽食を済ませていく客が数人。慣れたものだ。沙織は彼らの相手をしながら、仕事が終わった後のことをぼんやりと考えていた。
 最近の夜はずっと響と会っていた。
 夜中まで開いているカフェやバーに行ったり、つい先日は夜の遊園地へ行ったりした。響は大抵、仕事あがりの沙織を外で待っていて、彼女の疲れの様子や希望を考慮して行き先を決める。
 二人は沢山話をした……。
 思い出の話が多かったが、今思うと夜の響はあまり遠い未来の話をしない。
 たとえば幼い日の結婚の約束は一切口にしなかったし、これから二人――三人――の未来について、真剣に語ったり、何かを約束したりということもほとんどなかった。彼の口から紡がれるのは、刹那だ。
 刹那の願望。
 今、何が欲しい。今、何がしたい。今、誰が愛しい。
 そんな刹那の想い。
(今夜も……会えるかな)
 今日は昼の響に会ったばかりなのだから、よく考えるとひどい不公平な気がするが、沙織は彼に会いたいという思いを抑えることは出来なかった。
 彼に会って確かめたかった。自分の気持ちを。
 知りたかった――自分の本当の思いを。そして、これからどうすればいいのかという未来を。
 しかし、時間が経ち、閉店になって沙織が仕事からあがって外へ出ても、毎晩のようにそこで待っていた響はいなかった。辺りを見回してもその気配はない。沙織はがっかりと肩を落として短い溜息を吐き、それでも時々、どこかで響が自分を待っているかもしれないという淡い希望でそわそわしながら、仕方なくゆっくりと家路についた。
 どうしてか、緊張に鼓動が逸るのを感じる、妙に長く思える道程だった。

 最後の最後。
 沙織はアパートの前まで辿り着いて、そこにもやはり響がいないのを見て、本当に落胆している自分に気が付いた。同時に、初めて「彼」 に会った夜のように彼がアパートの前に居るかもしれないと期待していたのだと自覚して、なぜかわずかに狼狽した。
 しかし、いないものは仕方ない――。
 沙織はいつもよりのろのろとした動きでアパートの敷地に入っていこうとした。するとその時、急に背後に視線を感じて背筋がぴんと張り、思わず後ろを振り返った。
(あ、あれ……?)
 背後は無人で、見慣れた住宅街の風景が佇んでいるだけだ。沙織は首を傾げた。今、確かに人の気配を感じた気がしたのだけど。
 しばらく後ろを見ていても誰も現れなかったので、沙織は肩にかけてあったバッグをキュッと握り直し、アパートの敷地へ入っていった。きっと変に気が高ぶっていて、幻覚を覚えたのだろう。そう自分を納得させて階段を上がりはじめる。するとやはり再び同じような視線を感じた。今度はもっと、近くに感じさえする。沙織は再び、階段の途中で手すりを持ったまま、立ち止まって振り返った。同じように誰もいない。
 でも。
 でも、確かに感じたのだ。
 見えない何かに突き動かされるように、沙織は上った階段を駆け下りて歩道へ戻った。突然の運動に息が上がって、軽く肩を上下させながらコンクリートの道へ躍り出ると、今度は自分が正しかったことを確認した。
 よく彼が着ている黒のジャケットではない。
 昼間と同じスーツ姿の彼が、向かいにある建物の影に佇んでいた。沙織を見ると、チッと舌打ちのようなものをして、顔をそらし片手で髪をかきあげた。
「どうしてこういう夜に限ってバレるんだろうな」
 と、ぼそりと呟くように言われた響の文句を、沙織は聞いた。
「どうしてって……響こそ、どうしてこんな所にいるの」
 沙織は訊いたが、案の定というべきか、響は顔をそらせたままむっつりとして答えなかった。一瞬ためらったものの、沙織は歩道をゆっくりと渡り響のそばへ向かう。
 響は逃げこそしなかったが、あまりその行為を歓迎している風でもなく、少なくとも表面的にはバツの悪そうな不機嫌な顔を崩さなかった。
 真面目そうな淡いグレーのスーツとの対比が可笑しいほどで、その瞬間、沙織は一つの確信をさらに深めた。
 響《ひびき》 と響《キョウ》 は別の存在なのだ、と。
 同じ服を着ているのに、これだけ雰囲気が違うなんて、他に説明のしようがない。
「驚かせようとしてくれたの? なにかのサプライズ?」
「違う」
「言いたくないなら別にいいの……ただ、今夜は少し肌寒いし……ずっとここにいるの?」
「ヤな女だな」
 そう言いつつ、響の口元はわずかに笑みが浮かんでいる。それが、少し疲れたような微笑に見えた。
 沙織は響の二の腕にスーツの上から触れて、「上がって」 と言った。
「お茶、淹れるから。本当はね、会いたいなって思ってたの。話がしたくて」
「昼間に響《キョウ》 と会ったんだろう」
「知ってるの?」
「だいたいは」 と言って、響はやっと沙織の方へ顔を向けた。真剣で、どこか強張った顔だ。響は続けた。「いい雰囲気だったんだろう? まったくお前らはお似合いだよ。真面目同士で清らかで、とって付けたみたいなカップルだ」
 わざと冷たくしているような口調だった。
 沙織は彼の意図が掴みきれず、眉を寄せた。
「機嫌が悪いの?」
「最高とはいえないな、確かに」
「じゃあ余計に、お茶でも飲んだほうがいいわ。ね、上がって」
 自分でも大胆なことを言っている自覚はあったが、その時の沙織に警戒心はわかなかった。響は結局、沙織に誘われるまま無言で彼女についてアパートへ上がった。
 玄関を前にして、沙織は今更ながらに緊張して鍵を探す手が震えたが、それでも後悔だけは一切浮かばない。
 ドアを開けると、見慣れたインテリアが視界に入って安心を誘ったが、それも一瞬だけだった。
「ひび……」
 名前を、呼び終える間さえなかった。
 響は、二人が部屋へ入るとすぐに沙織を背中から抱きすくめ、腕に力を入れた。
 抱擁は痛いほどで、沙織は戸惑いの声を上げようとしたが、それもすぐに絡め取られた。響は沙織を自分の方へ回転させ、深い口付けをした。
「ん……っ」
 沙織から吐息が漏れる。
 響からも同様の湿った息が漏れていた。
 ひびき。
 ついばむように何度も繰り返されるキスに、沙織が響を呼ぶ声はゆっくりと呑まれていく。身体の芯が溶けていくような感じがして、思考に靄がかかった。沙織は響に体重を預けた――すると、力強い腕がぎゅっと沙織の全身をすくって、抱え上げる。
「いいんだな」
 響は低く言った。
 葛藤は消えていた。
 あるいは、情熱の前に屈した。
 沙織は、頬を染めながら頷いて、響の首に両手を回す。後悔はしないと、その時はなぜか確信があった。
 響は沙織をベッドへ運び、シーツの上に沙織を横たえ、両腕を伸ばし彼女を守るような格好で覆い被さった。響の前髪が、沙織の額へかかる。
 二人はしばらく見つめ合った。
 そして、もう一度深い口付けが交わされた。
「俺を覚えていてくれ」
 響はかすれた声で言った。「あいつじゃない……俺がいたんだ。それを覚えていてくれ」

 二人は夜の闇に落ちていった。
 朝がまだ来ないことを願いながら。

inserted by FC2 system