Le jour et la nuit 【2】

 夜は、情熱が支配していた。
 と、言ってしまって過言ではないだろう――。穏やかで温和な昼の響《キョウ》 に比べ、夜の響は、触れただけで火傷してしまいそうな激しい一面を持っていた。
 彼は、それを隠そうと、あるいは抑えようとしてはいるらしかったが、はなはだ成功しているとは言いがたい状態で――炎は隠せても、煙りや匂いまで隠蔽することは出来ない、といった風情だ。沙織は戸惑った。
 最初は。
 しかし気が付けば、沙織の日常を恋人として支配しているのは、間違いなくこの夜の響の方となっているのだ。
 昼間はお互いに仕事がある。特に響は、家業とはいえれっきとした会社に勤めている身で、空いた時間など夜にしか取れない。唯一の例外が週末で、しかしこれも毎週というわけにはいかなかったから、沙織が昼の響《キョウ》 と会える時間は限られていた。
「あいつは毎日、ギリギリ歯軋りしながら仕事をしてる」
 響はそう言って笑った。
「わざと残業を作って、俺を縛りつけようとした日もある。馬鹿だろう、俺が従うはずもないのに。結局、翌日には奴の仕事が溜まって、ますます自分の首を絞めたというわけだ」
 これを聞いた夜、沙織は、さすがに響に大して怒って……翌日、休み時間を縫って響《キョウ》 へ会いに行った。
 あの 時の彼の喜びようを、沙織はずっと忘れないだろう。
 都内にある響の職場から"Le Jour" まではタクシー使いでも結構な時間が掛かったから、沙織は定刻に仕事へ戻れず、吉見に迷惑を掛けた。だから同じことを繰り返すことは出来ないが、いい思い出の一つではある。
 しかし、夜は哀愁でもあった。
 夜の響は、昼の響《キョウ》 にはない影がある。
 時折沙織に見せる、響のそんな物悲しい部分を、その理由を、沙織は知らなかったし、聞くことも出来なかった。
 最初に響が沙織にした説明によれば、両親から暴力を受けたのは昼の響《キョウ》 だったはずで、逆ではない。
 彼の言葉が――真実だったならば。

 夜の遊園地は、昼の子供っぽさい明るさから一転、恋人たちが集う艶やかな場所へと姿を変えていた。
 原色の光がそこここに瞬き、人々の蛮声があちらこちらから聞こえる。
 アトラクションを体験したあとの興奮、夜風の涼しさなどから、恋人たちの距離も自然に縮もうといういうものだ。それを狙って来る若者も多いのだろう。時刻はもう深夜近くで、閉館も間際だったが、いまだ大勢の客が興奮に頬を高潮させながら忙しく園内を渡り歩いていた。
「ごめんね……響が乗り物駄目だなんて知らなくて……」
「俺も知らなかったさ、五分前までは……」
 そこに、中々見栄えのするカップルが一組――響と沙織がいた。
 ドラマを撮影していると言われても疑う者は少ないだろう、そんな人目を惹く雰囲気の二人だったが、今は周囲の人波から遅れを取っている。
 干上がった魚のような顔色の響は、口を手で押さえ、沙織に背をさすられながらフラフラと歩いている状態だ。彼らの背後には、園の名物である巨大ジェットコースターがそびえ立っており、轟音を上げながら稼動していた。
「こんな場所、来たことがなかったからな」
 そんな呟きも、マシンの轟音と"乗客" の悲鳴にかき消される。
 響は憎々しげに眉を寄せて頭を振り、背後でうなりを上げる鉄の怪物を呪いつつ、沙織と距離を縮めた。
 そして、ごく自然な仕草で彼女の片手を取ると、耳元にささやく。
「二度と御免だ」
「車は全然大丈夫なんでしょう……?」
「自動車とこれを比べるのか? 一体どこに共通項があるんだ……これは人間を乗せるもんじゃない」
 近くに小屋の形をした売店があったので、響はそこで水を買い、その場で一気に飲み干した。
 レジに立っていたアルバイトの女性二人が、「かわいい」 とくすくす笑い声を漏らすのを聞いて、恥ずかしいような、しかし確かにと同意してしまいそうな、妙な気分になる沙織だ。
 響はそれに苦笑いして、「分かってるよ」 と言う。
 ――それはある春の夜だった。
 日没後の気温が上がってきた時期で、こうした野外の行楽地に人が集まり始める季節でもあり――話題になっていた遊園地に、沙織が行ってみたいと言いだしたのが事の発端で。
 こういう時、響は……特に、夜の響は、沙織に絶対服従だった。
 沙織の願いを叶えるということに、一種の、執着のようなものを見せるのも、この夜の響なのだ。
 今だって、こうして散々文句を言った後でも、もし沙織がもう一度同じものに乗りたいと言えば、彼はそうするのだ……。当然そんな意地悪をする気も、理由も、沙織にはなかったけれど。
「少し、休もうか」
 そう提案してきた響に、沙織は頷いた。
 人波から外れると、幸運にも、電灯の下で空いているベンチを発見する。響はそこへ小走りで向かい、先に座ると、沙織を手招きした。
「来いよ」
 昼の彼からは、想像もつかないような口調で。
 沙織は、誘われるままに響の隣に座った。そしてお互い顔を見合わせる。多少は、であるが、響の顔色は良くなってきており、安心した沙織は朗らかに微笑んでみせた。
「連れて来てくれてありがとう……。こんな場所、響はあまり好きじゃないって思ったんだけど」
「嫌いじゃないさ、あの化け物以外は」
 降りたばかりのジェットコースターを指しているのだろう。
 今も背後から、甲高い悲鳴や轟音が聞こえてくるが、ずいぶん遠くに感じる。――辺りは光の洪水だった。アトラクションに取り付けられた色とりどりのランプが夜空に踊っている様子は、どこか現実離れしていて、心を浮かせる。
「それに、場所なんて何処でもいいんだ」
 響はそう、沙織を見つめたまま言った。
 しかし沙織は思わず短く息を呑んで、身体を硬くした。――恋人たち、夜の遊園地、二人きりのベンチ、溢れる光。行き着く先は……。
 案の定、軽く瞼を伏せた響の顔が、ゆっくりと沙織へ近づいてきた。
 気が付けば片手を取られていて、冷めた指の感触が沙織の手の甲を這うのだ。それに合わせて、沙織の身体の中に炎が灯る。熱く、身体の芯を、胃の辺りを、くすぐる。
 恋人たち、夜の遊園地……。そして、私はこの人が好き。
(でも)
 二人の唇は、吐息が届きそうなほどに近づいていた。
(でも、これを許したら)
 甘い誘惑が沙織を襲う。
 このまま響を受け入れてしまえれば、どんなに幸福だろう。愛し合う二人が口付けを交わす……そんなごく自然な成り行きを、受け入れてしまえれば。
 しかし沙織は、響との再会から二ヶ月近くが経とうとしている今でも、これを拒み続けてきている。
 昼の響《キョウ》 と夜の響《ひびき》 の間で繰り広げられている、葛藤と戦いのせいだ。沙織がどちらとも一線を越えないということが、二人の危うい均衡を守っているのだと、薄々気が付いているから……。
「待……って」
 沙織は響の胸を押して、最後の一瞬をさえぎった。
 響はぴたりと動きを止めた。ただ、唇だけが続きを求めるように軽く開かれたままで、熱い吐息は隠せていない。
「どうして止める……?」
 響の質問に、沙織は首を振りながら答えた。
「わからないの。でも……今は、まだ、駄目な気がして……」
 二人はお互いを確認するように見つめ合った。
 響は、沙織の真意を知ろうとするような顔で。沙織は、響の反応をうかがうような瞳で。
「……分かったよ」
 最初にそう言ったのは響だった。
 彼は、すっとベンチから立ち上がり、長い肢体を使って伸びをすると、数回の深呼吸を繰り返し、そして黙って夜空を見上げる。
 沙織はベンチに座ったままで、そんな響を見つめ続けていた。
「分かってる」
 響はもう一度繰り返した。
「"奴" もまだ同じなうちは、いいさ。大体、無理にすることじゃない」
「響……」
「いい加減、冷えてきたな。帰るか、姫?」
 すっと差し出される響の手を取った沙織は、ゆっくりと立ち上がった。響の表情は優しくもあったが、どこか物悲しくもあった。
 それは当然、どういう形であれ恋人である女性から口付けを拒まれれば、どんな男でもそれなりに悲しいだろう。
 ――しかし、違うのだ。響のそれは。
 悲壮? 焦燥? それをなんと呼べばいいのだろう。
 もっと、切羽詰ったような、痛々しい何かが表情から滲み出ていて、隠せていない。
「うん……今夜はありがとう」
 そう言った沙織の肩を抱いて、響はもう一度「帰ろう」 と言うと、出口に向けて歩き出した。原色のネオンが作り出す光に浮かぶ、二人の影は、そのまま人ごみの中に混じっていく。
 心なしか響の足取りは重く、沙織の肩を抱く手は、少し痛いくらいに強かった。

 "奴" もまだ同じなうちは、いいさ――
 彼はそう言った。
 では……いつかその日が来たとき、私達はどうなるのだろう?  

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