三人の想い 【3】

 

 春の夜はまだ肌寒くて、時々思い出したように吹き渡る夜風から体温を守るため、沙織は腕を抱いて歩いた。
 その隣を歩く響は、厚手のカーディガンを羽織っている沙織よりずっと薄着であるのにも関わらず、寒さは気にならないらしかった。吹き抜けた疾風が冷たくて、沙織が抱いていた腕をこすると、響は振り返って言った。
「冷えるか?」
 その声は――鮮烈で、強く、胸を揺さぶる。
 振り返ってこちらを見つめる黒の瞳は、まるで獣のように鋭いのに、ちらりちらりと愛情のようなものがのぞく――甘えたら、きっと信じられないほど大切にしてくれるだろう。そんな事を思わせる深みがあった。
 同じ人なのに。
 同じ顔、同じ声、同じ身体のはずなのに、今の響は間違いなく昼間の彼とは違う存在だった。これに気が付かなかったとは、子供の頃の自分は本当に馬鹿だったと、沙織は思う。
 響は、どんな時も響だと、思っていた。
 それは確かに今も変わらない真実だ。しかしこの単純な思い込みが、彼の中に二つの人格がいるかもしれないという可能性を微塵さえも感じさせなかったのだ。例えどんな矛盾があっても、どれだけの違いを見せられても……。
「ううん……大丈夫よ」
「お前の"大丈夫" はあまり当てにならない」
 響はそう言うと沙織の肩に腕を回し、彼女の細い身体を抱き寄せた。
 きゅっと抱き締められる感覚、温かさ。
 どうしてか沙織は抵抗出来なかった。肩に回された響の腕の温もりは、熱く、まるで魔法のように素早く全身に通い渡る。
 駄目だと自分に言い聞かせようとしても、無理だった。
 無理に決まっている。
 だって――
「響は、寒くないの?」
 肩を抱かれたまま、後ろを見上げる。響は沙織と目が合うと顔を綻ばせて、彼女を抱く腕にますますの力を加えた。
 ――彼の答えは何となく分かっていた。
「お前を抱いてるのに、寒いはずないだろう」
 こんな風に想われて、一体どんな女が、それに抵抗できるというのだろう……?

 

 二人は、ある高層ビルの屋上へ来ていた。
 かりにも旧公家などで幼少時代を過ごしたからか、沙織は成長してからも夜遊びには無縁な規律正しい生活を好んで過ごしている。
 だから、響に誘われて赴いた夜の街で見る情景は、沙織にとって異国のもののようにさえ感じられた。
「いやだわ、一ノ宮さん、凄く久しぶりね」
「こちらこそ。香世さん」
 そこは高層ビルの屋上にあって、空と夜景が見渡せる、ビア・ガーデンとクラブの"あいのこ" のような場所だった。
 屋根が付いているのは入り口付近のバーと厨房のある一角だけで、それ以外は夜空に開けている。テーブルについて談笑に興じているグループもいれば、バーの止まり木で一人飲んでいるのもいるし、けたたましい音楽に合わせて踊っている若者達もいる。
 全体的に薄暗く、青いデコレーションのネオンが所々飾られているだけの、近代的な内装だ。
 二人が入り口に立つと、艶やかな黒髪を後ろに結った女性が現れ、響へ向かって真っ直ぐに歩いてきた。
「しばらく見ないから、結婚でもしちゃったのかと思ったわ」
 香世、と呼ばれたその女性は、響の隣にいる沙織をちらりと見やると、そう言った。
 沙織は緊張に背を伸ばす。
 嫌味のないさらりとした台詞だったけれど、日本画からそのまま抜け出してきたような和風美人の突然の登場に、沙織の胸中はあまり穏やかではない。
 響と香世は、慣れた風に向き合っていた。どちらも二十代後半の大人っぽい二人は、嫌味なほど絵になっている。
「まさか。それより二人分の席、空いてるかな」
「貴方の為ならいつでも空けるわよ。ちょっと待っててね」
 香世はそう言いうと、二人を残しホールの中へ消えていった。
 後には柑橘系の香水の匂いが、ほのかに漂っていて、沙織にはそれがどうしても苦く感じた。
「ここのオーナーの奥方」
「えっ」
「今の女……別にお前が思うような仲じゃないさ」
 言いながら、響は唇の片端だけを上げて、からかうような笑みを見せた。焦りと嫉妬を見破られたのに気が付いて沙織はかっと頬を染める。
「しっ、知らないっ!」
 ぷいと沙織が顔を背けても、響は逆に嬉しそうに声を上げて笑う。
「それはそれは」
 ――意地悪だ、この響は。
 それは憎めない悪戯のような種類のものだけれど、沙織のような小娘を興奮させるのには充分だった。
 加えて沙織はまだ知らなかった。
 二人の響がお互いをどう思っているのか。どう……持て余しているのか、を。
 沙織が振り返ってもなお、響は、頬を赤くした彼女をからかうようにくくっと声を漏らしながら笑っていて、それがますます沙織の戸惑いに火をつける。言わない方がいい……と、一瞬、良心が声を上げたけれど、気がつくと、言葉は唇をすり抜けていた。
「お昼の響《キョウ》 なら、こんな事で笑ったりしないのにっ」
 すると響はぴたりと笑うのを止めた。
 まさに、ぴたり、と表現するのが綺麗に当てはまる。そんな風に響の顔から急に笑顔が消え、突然の沈黙が流れたのだ。
(あ……)
 と気が付いた時には、もう遅かった。
 これは禁句なんだ。
 言ってはならないこと。言うと、響を傷つけること。
 響はまるで驚愕したような表情で沙織を見つめて、しばらくすると、ふっと視線をそらせて、吐き捨てるように言った。
「悪かったよ」
 ちょうどその時、香世が戻ってきた。
 二人から数メートル離れた所から、こちらへ来いという風に手招きしている。席が空いたのだろう。
 響は、沙織を振り返らないまま、香世に従ってホールの中へ進んだ。沙織も慌ててその背中を追ってついて行く。
「ここが一番景色のいい席なのよ、ゆっくりしていって頂戴ね」
 そう完璧なまでに艶っぽく、そして女性らしく告げて、メニューを置くと静かに去っていく香世を、沙織はあまりにも眩しく感じた。
 賢い大人の女性の前に立つ、馬鹿で浅はかな小娘の気分だ。
 多分、実際、そうなのだ。
 案内された席は、屋上を囲んだフェンス近くの、風通しのいい二人掛けの席だった。フェンスには緑の蔦が絡んでいて、まるで空に浮いた公園のようだ。テーブルには小さなキャンドルが一本灯っている。
「あの……響……」
 席に付くなり、響は、フェンス越しの夜景を睨むように見つめ続けた。
 沙織の声は聞こえているのだろうが、振り向く気はなさそうだ。
「ごめんなさい……そんなつもりで言ったんじゃないの……」
 言っても、響はそのままだ。
 沙織に向けられた横顔は、端正な線を描いて夜空に浮かんでいる。どこか遠く一点を見つめた視線は、振り向くのを拒否しているようにも見えた。
 沙織は仕方なくうつむいて、きゅっと唇を噛んだ。
「こっち、向いて……」
 そのまま数秒が過ぎる。やはり、何も変わらないまま。
 沙織は浮かれていた自分を後悔した。不用意なことを言った自分を呪った――けれど、いくら謝ろうとしても微動だにしない響に、沙織はだんだんと居た堪れなくなって、とうとう目頭が熱くなるのを感じだした。
 響《ひびき》 に、響《キョウ》。
 彼らは単純に一人なのではない。別々の人格で、それでいてやはり同じ身体を共有していて、そして、同じ想いを持っている。
 これ以上のパラドックスはないのかもしれない。
(でも)
 そうだ、響自身が言ったように、沙織の存在さえなければ、二人の関係は上手くいっていたのだ……
「私、帰った方がいい……?」
 沙織がこれを言うと、響はあれ以来初めて、反応のようなものを見せた。広い肩がピクリと揺れて、拳が強く握られる。しかしそれも、沙織の方を振り向くまでには至らなかった。
 では、どうすればいい?
 つい先程自分自身で認めたように、沙織は結局まだまだ小娘で、駆け引きなど分からないのだ。響の沈黙は、拒絶にしか思えなかった。
「響……」
 沙織は、続けて、嫌なことを言ってごめんなさい、と消え入るような声で呟いた後、静かに席を立った。これが唯一で最良の選択だと、悲しいながらも、思えたのだ。
 そのままテーブルに背を向けてとぼとぼと歩き始めた沙織の背後に、突然、ガタンと大きく鈍い音が響く。
 沙織は振り返った。
 立ち上がった響が、肩を震わせ、口を強く結び、沙織の方を見ていた。
「響……」
 沙織はもう一度彼の名を呟いた。
 行くな、とか、ここに居てくれとか、そういう台詞を響は言わなかった。
 しかし――
「いいの?」
 沙織が訊くと、否定はしなかった。
 立ち上がったまま向かい合った二人は、数秒、言葉無く見つめ合う。響の視線は、まるで凝り固まってしまったかのように沙織に注がれ続けていて、その表情は、泣き出す前の子供のようでさえあった。
(や……だ)
 このまま沙織が帰ったら、きっと泣くのは沙織だけではない。それが彼の瞳から分かってしまったから、もう動けなかった。
 周囲の客が、何事かと、二人を振り返ってざわついている。
 沙織はおずおずと元のテーブルに戻った。
 その間、響の視線はずっと沙織の一挙一動を追っていて……沙織が再び席に付いたのを見届けてやっと、響自身も席に腰を落とした。

 今夜は長くなりそうだ。
 席に付きなおすと、再び遠くの夜景を睨み始める響を見て、沙織はそんな予感を深めた。

 

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