三人の想い 【2】

 

 ドクン、ドクン……
 痛いくらいに心臓が強く打った。
 ただ、本に記された一つの可能性を目にしただけだというのに、まるでそれが実際に現実として起こったような気がして――ひどい怖れを感じた。
 そして同時に感じたのは、絶望に似た空虚な思いだった。
 響との再会に歓喜していた自分はもう居なくて、替わって頭をもたげてきたのは、何だろう……責任感のような、罪悪感のような、ひどく重たい感情だった。
 昼の響と夜の響は、彼が言うところの"一種の処世術" として、平和に共存していたという。
 その平和を乱したのが、沙織の存在だった、と。
 それは、愛の告白でもあったのだ。
 ――あまりにも情熱的で、挑戦にも近い。
 彼ら二人には、第一に逃げるという選択肢があったはずだ。何よりも簡単で、そしてきっと、二人の心の平和を考えれば、最も合理的な答え。
 しかし昼の響は、リスクを犯してまでも沙織に会いに来ることを選び、それに気付いた夜の響もまた、まるで自分の存在に気付いてくれと叫びを上げるような形で、沙織の前に現れた。"俺にしろよ"――
(でも……選ぶなんて)
 沙織にとってはどちらも響で……きっと、選ぶなんて出来ない。

 昼食時と夕食時の間に与えられた休憩時間はだいたい一時間半で、店の忙しさによって多少変わる。
 オーナーの吉見は、海外で料理とレストラン経営を学んだとあって、客にも従業員にも、そして吉見自身にも、奔放かつ自由な方針を貫いていた。つまり多少の遅刻に煩く言われることはないけれど、それが後々しっかり給与に響いてくるということだ。
 最初に目に付いた本と、他に数冊、同じ主題の本を集めて貸し出し手続きを済ませた沙織は、急いで図書館を後にした。
 外に出ると、眩しい午後の光が視界に溢れて、沙織は目を細める。
 ああ、今、響を支配しているのは《キョウ》 なのだろう……
 彼はもう知っているだろうか。
 夜の響が彼女の元を訪れたこと。彼が彼らの二重人格について告白をしたこと。
 出来るだけ早く、昼の響と話をするべきだった。
 彼の口から、彼の言葉で話を聞くまでは、沙織に出来る事はあまりにも限られていたし……選べないとは言いつつも、沙織の知っている響の大部分は恐らく彼の方なのだ。
 歩いて"Le Jour" まで戻れなくもないが、途中、通りを横切るバスが目に入ったので、沙織は慌ててそれに乗り込んだ。一駅分だけだが、これで落ち着いてメールが打てる。
 沙織は出口前の席に腰を下ろすと、携帯を取り出した。
 はやる鼓動を落ち着かせながら、一字一字を慎重に押していく――
『響へ』
 と始まるメールは、以下に短く続いた。
『今週中にまた、うちのお店にランチを食べに来ませんか?』
 恐らく、こうして昼時を主張すれば、響は全てを理解してくれる。そんな確信があった。昔から彼はこういったことに敏感で、時には、鷹のように鋭い人だと思わせることさえあったものだ。
 沙織はごくりと息を呑んで、送信ボタンを押した。
 携帯は、当然のようにすぐメール送信を済ませて、正常に届いたことを知らせる一文をディスプレイに映し出した。
(これで……)
 響はまた会いに来てくれるだろう。問題は、いつになるかだ。

 

 その夜は、週明けすぐとあって、客足も落ち着いたものだった。
 顔見知りの客が数組と、雑誌で見かけて寄ってみたというカップルが来た程度で、あとは喫茶店代わりにコーヒーを飲みに来るサラリーマンがぽつぽつと居ただけだ。
 すると、いささか手を余した吉見が、ホールに出てきて沙織の傍へ来る。
「それで、あの日のお坊ちゃまとはどうなったの?」
「お坊ちゃまって、吉見さん」
 沙織は少し驚いた。響について聞かれること自体は、朝から沙織の顔を見ればその度に口元を緩める吉見の態度で、すっかり分かっていたけれど、"お坊ちゃま" という単語を使われたことが、ちょっとした驚きだったのだ。
 まだ沙織は、響の出自について吉見に言及したことはなかった。
 それにあの日の彼はジーンズ姿だったはずだ。
「違うの? 良いところの子なんでしょう? 整った顔してたし、なんだか雅な雰囲気だったから、普通の子って感じはしなかったな」
「吉見さん……当たりです。すごい」
「本当? 何、何? 禁断の恋とか?」
「え、っと、それは」
 どうなのだろう――吉見の言葉に、沙織は考え込んだ。
 禁断と呼ぶのだろうか、幼い頃の響と沙織の深い仲は確かに、彼の両親からあまり歓迎されていなかった。もっと正確に言えば、彼の母から疎まれていたのだと思う。
 本当に幼少の頃は、むしろ歓迎されていたくらいだったけれど、お互いに思春期を迎えるような年齢になってくると、そうだ、疎まれるというより、警戒されるようになっていった。
 特に響は沙織より四つも年上で、別れた時にはすでに十六歳を迎えていた。
(響……)
 よく考えれば、響はこんな多感な時期に、昼の自分と夜の自分という、戦いようのない混乱を抱えていたことになる。
 両親からの圧力――
 別の自分への嫉妬――
 多分、彼は大人っぽかったのではない。きっとすでに大人だったのだ。彼を取り巻くあらゆる環境と苦悩が、無理矢理に少年を大人へと押し上げていた。
(結局、メールの返事も来なかったし……)
 沙織が黙っていると、吉見はそれを誤解したのか、バツの悪そうな顔をして肩を竦めた。
「嫌なら無理に言わなくてもいいのよ、ちょっと興味があっただけなんだから。でも、何か相談したいことが出来たら、遠慮しないでね」
「あ、違うんです! 嫌な訳じゃなくて、私達、まだ色々分からなくて……その、答えようがなくて」
「はいはい」
「吉見さん〜、本当に」
「分かったわよ。さぁ、お仕事、お仕事」
 吉見はそそくさと厨房の方へ戻っていった。
 残された沙織は、しばらくぼうっとしていたが、客からお冷の注文が入って我に返った。
 ――響も日中は忙しかったのかもしれない。
 そして、ある事に気がついた。子供の頃は、きっと昼の響と過ごす時間が圧倒的に長かった。沙織と沙織の母は夜間、間借りしている部屋の方へ引っ込んでいたし、あの頃の沙織は九時か十時には寝付いてしまう子供だった。
 しかし今は。
 成人し、お互い別の仕事を持っている今は、夜の方がずっと自由だ……
 ふいに"Le Jour" の入り口が開いたのは、その時だった。
 開いた扉から入って来る、背の高い男性……黒いシャツに、濃い色目のジーンズを着て、手には黒のメタリックの携帯電話を握っている彼は、すぐに沙織の姿に目を留めた。
「響……」
「昨日の夜、"これ" を奴の目に付かない場所へ隠しておいたんだ」
 そんなことを、悪びれた様子も無く語る男は――
 携帯電話を軽くかざして、悪戯に勝利した少年のような微笑を見せる。
「ランチじゃなくて、悪かったけどな」
 響は言った。
 ――逃げられない、逃げたくも、ない。
 この人は確かに私の愛した人……その、半身。

 沙織の仕事が終わって、"Le Jour" から外へ出るなり、響は長い腕を悠々と頭の後ろに組んで、言った。
「携帯が無くなったと分かった時の奴の慌てようときたら、面白かった。見せてやりたいくらいだったな」
「あ、慌ててって、当たり前でしょう!?」
「可哀想な奴だよ」
「え……」
 ぽつりと最後にもらされた響の一言に、沙織は反応した。
 響は、どこか遠く夜空を見ている。静かに――沙織は、思わず足を止めて、尋ねた。
「響は……今の貴方は、昼間の響《キョウ》 のこと、覚えてるの?」
「いや」
 変わらず夜空を見たまま、響が答える。
「覚えていることも、覚えていないことも……夢を見るのと同じような感じだ。覚えていても、すぐに忘れられる。奴は俺のしたことを余り覚えてない」
「…………」
 春の夜風が通りすぎ、優しく肌を撫でる。
 沙織は、響の横顔が、月明かりに浮かぶのを見た。
 そういえば吉見は、彼を雅な雰囲気だと言った。その通りだと思う。すっと綺麗に伸びた背筋と、真っ直ぐで迷いのない眼差し。そこに薄っすらと射す、哀愁のような影。
 "響"
 それを何と呼んでも。
「今夜は少し付き合え。キョウの方とは映画まで行ったんだろ」
 振り返った響はそう言って、沙織の方へ、さっと片手を伸ばした。
「…………」
 ――真っ直ぐな響の瞳に、捕らえられて。その甘い声に誘われて。
 気が付くと、沙織は響の手を取っていた。 

 

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