二人の響 【3】

 

「あ、いけないっ」
 一人きりのアパートの台所に立っていたにもかかわらず、沙織はつい声を上げた。
「ミルクがなくちゃ作れないのに……」
 台の上には、すでに計量を始めた粉類と卵が広がっている。
 菓子作りは沙織の数少ない趣味の一つで、腕も悪くない。特に吉見は沙織の作るパウンドケーキが好物で、出来がいい時は馴染みの客にサービスとして出すこともあるほどだった。
 ――響と別れたのがまだ夕方前だったから、中途半端に時間が余ってしまって、それでも作ろうかと思い立ったのだ。が、直前になってミルクが足りない事に気がついた。
(まだ少し明かりがあるし……コンビニにあるよね)
 沙織はエプロンの前で手を拭きながら、時計に目を向けた。時刻は午後六時過ぎ。
 この界隈は比較的治安もよく、深夜前なら若い女性一人の外出も平気だったから、沙織は迷わずバッグを掴むと、エプロンを脱いで外へ出た。
 外に出ると、穏やかな風がとても心地よくて、コンビニへの道の途中、街の隙間から覗いた大きな夕日が辺りを照らしているのが見えた。
(一緒に見たかったな、響と)
 そんな寂しさをも感じたけれど、同時に、次の約束があることを思い出した。そうだ……また今度、その時一緒に見ればいい。
 そう思い直して、沙織は足早に歩道を渡った。

 ごく十数分で帰ってくるつもりだったのだ――
 それが、沙織がコンビニを出た時にはすでに日も完全に暮れきった、七時過ぎになってしまっていた。
 店内である顔なじみの中年女性に会ってしまったのが運の尽き。ご近所でもあり、"Le Jour" の常連でもあるその女性は、明るく親しみやすい人で沙織は好きだったが、話が長いのだけが欠点だった。
 ずるずると話に付き合っていると、いつの間にかこの時間だ。
 沙織は、必要だったミルクと、その女性に勧められてなぜか買ってしまったいくつかの惣菜を持って、早足に家路についた。
 空はもう完全な闇で、いくら治安がいいとはいえこのご時分、一人歩きはあまりいい気がしない。途中、少し遠回りをして人通りの多い道を使い、アパートの前まで辿り着くと――
 アパートの建物を囲んだ低い塀の前に、一人の男性が寄りかかって沙織を見ていた。
(え……)
 沙織は一瞬、幻を見たのかと思った。
 しかしそれは幻にしてはあまりにも存在感がありすぎた。

「ひび……き……?」
 男性の名を呼ぶ。
「携帯に連絡してくれればよかったのに。どうしたの?」
 そう言ってみても、響はまだ動かなかった。
 立ち止まった沙織を、彼は、つま先から頭のてっぺんまで、まるで美術品を鑑賞するような興味に溢れた視線で眺めている。
 昼間と変わらない服装だ。
 しかし、雰囲気が違う。
 どこがどう違う、と聞かれても具体的には説明し難かったが、目つきや、立ち姿……そんなものが。
 話しかけられて答えないというのも、彼らしくない。
「何か、あったの?」
 手にあった荷物を無意識に握り締め、沙織は再度の質問をした。
 すると響はやっと、背を預けていた塀から身体を離して、一歩、沙織の方へ進んだ。
 そして、す……と、大きな骨ばった右手が伸びてきて、
「ひび――」
 沙織の頬に触れる。
「!」
 心臓が口から飛び出しそうなくらいに高鳴った。
 ――突然のキスを、されるのではないかと思ったのだ。しかし響は、また沙織に一歩詰め寄ったかと思うと、そのまま吐息が掛かりそうなほどの距離に顔を近づけてきて、ぴたりと動きを止めた。
「久しぶりだな」
 それは、響の声とは違った。
 否、確かに、響の咽を通して、響の唇から紡がれた声であったけれど……まるで響でない誰かが、響の身体を使って喋っているような違和感で、口調も違った。
「どうして……お昼に、会ったばかりでしょう?」
 急に背筋が冷えるような感覚に襲われて、沙織は声を震わせながら言った。
「らしいな」
 引き続き、響は同じ口調で答えた。――この時沙織は、何か異変があると確信した。この響は、響ではない。
 そんな沙織の胸の中を、響もまた察したのだろう。
 皮肉っぽく口の端を上げると、咽の奥で低く笑って、沙織の頬に触れていた右手をゆっくりと下へ向けて滑らせてゆく。
 形のいい唇が開かれ、ある、告白をした。
「お前は知らなかったな。響は、二人いるんだ」
「え……?」
「響は二人いる。お前が響と呼んでいるあいつを、俺は《キョウ》 と呼んでいる。響と書いて、《キョウ》 だ」
「キョウ……」
 沙織は響の使った言葉を繰り返した。
 にわかには何も信じられなくて、ただ、反復だけが沙織に出来た反応だったからだ。
 何? ……彼は何を言った?
 響は二人いる――?
 あまりにも突飛で、そして突然な台詞に、沙織は言葉を失った。響の右手はそのまま下りてきて、気がつくと沙織の腰を抱いている。
 信じられない。
 ――しかし、確かに、この響は昼の響とは別人だった。
「……その、キョウは、今どこにいるの……」
「あいつは今も、俺の中にいて眠っている。逆に、あいつが起きている時は俺が眠っている。どちらも俺だ。時々、記憶さえも飛ぶが、二人の人格が俺の中で共存してる」
「嘘、よ」
「嘘じゃない。あいつは俺に、お前と再会した事を隠そうとした。我ながら馬鹿な発想だと思わないか? 無理に決まってるんだ。あいつは俺だ」
 それは……なぜ?
 突然の話に、沙織の思考は嵐の海のように荒れた。
「いつから……」
 沙織が一歩下がろうとしても、腰を抱いた響の腕は力強くて、少しの後退さえ許されなかった。
(どうしよう……)
 もういっそ、何もかも放り出して部屋に戻りたかった。
 夢だと思いたかった。
 こんな事あるはずがない。そうでなければ、これは響の悪い冗談で、ごめんと今すぐ謝ってくれるはず。
「子供の頃からだ――俺の名前を見れば、そうなってもおかしくない」
「名前?」
「俺は元々、キョウの傀儡だから」
 キョウ……また、キョウだ。
 一体この名前にどんな意味があるというのだろう?
 沙織が無言で響の顔を見つめていると、彼はそれを受けて、ニヒルに笑って見せた。普段の響は、絶対にこんな笑い方をしない。
「"共"――俺が生まれる前に死んだ兄だ。共有の共で、《キョウ》 と読む。流石に死んだ長男と同じ名前は付けられなくて、同じ読みが出来る"響" が選ばれた訳だ」
 ひびき……キョウ。
 確かにそう読むことが出来る。
 響が生まれる前に幼くして無くなった兄がいたことも、うっすらと聞き覚えている。しかしそれがどうして……そういったものを信じる性質ではないが、幽霊とか、憑依とか……そういう種類のものなのだろうか?
「違う」
 まるで沙織の心を読んだように、響は続けた。
「両親は俺を共のように育つ事を望んだ――初めての子で、穏やかで頭が良くて、奴らのお気に入りだった共のように。その期待から外れるとすぐ暴力を振るわれた。言葉や、力で」
「…………」
 それは――。
 確かに、沙織の覚えている限りでも、響の両親、特に母親は時に病的なほど彼に厳しく、時々折檻のようなものが行われていたこともあったらしかった。
 響自身は絶対にそれを他人へ語らなかったけれど、一つ屋根の下にいればこそ、肌で感じてしまうものだ。特に子供同士は、時に残酷なほど鋭い。
 幼かった沙織も、何となくその存在を感じていたが、言及しようとすると響はわざとはぐらかしてしまっていたから、きっと知られたくないか、話したくないか、とにかくそっとしておいて欲しいということなのだと理解して、あまり触れなかった。
 ただそれを、共と結び付けて考えたことがなかっただけで。
「親の期待に応えるために自分を押し殺してた俺は、抑圧の中……勝手に二つの人格を生み出してた」
 従順で穏やかな、響。
 そして、この……
「俺達は昔から敵同士だったんだ。沙織、お前を巡って」

 こんな事があっていい筈がない――
 否定をしたくて記憶を辿り返すと、まぶたに浮かぶのは、逆にそれを裏付ける思い出ばかりだった。
 確かに響には二面性があって、特に、夜になるとずっと奔放になる傾向があった気がする。
 例えば、夜の無断外出。
 例えば、時々、口調や態度が違ったり。
 それは子供にとって的確に指摘できるほどの大きな違いではなくて、ただ機嫌がいいとか悪いとか、その程度の理由からくる変化だろうとしか、沙織は思っていなかった。
「実際のところ、俺たちは上手くいってた」
 響の説明は続いた。
「俗に言う、二重人格って奴だろうな。中には私生活に支障をきたすようなのもいるが、俺たちは比較的上手くいってた。昼のいい子な俺と、夜になって現れる、本当の俺と」
 夜――そうだ、確かに。
「記憶は適当に飛ぶ。自分が何をしたのか、何をされたのか、意識的にもう一人の自分に隠すことも出来る。そうやって嫌な経験を忘れるように出来てたんだ……あの頃は」
「あの、頃?」
「最初は昼も夜もなかった。それが徐々に支配権が決まっていったのは、十を過ぎた頃だ。あの女は、旦那が帰ってくると息子を構わなかったからな。それで夜が俺の出番になった」
 あの女とは、きっと響の母親を指している。
 美しいが神経質な人で、沙織にはあまりいい印象や思い出はなかった。確か名前を、薫子といった気がする。
「昼はいい子を演じて……いや、演じる必要さえなかったな。《キョウ》 は元々そういう人格なんだ。両親の期待通りに一日を過ごして、夜は彼らの知らないところで色々とやってた。お前も知らない事が多いだろう。子供だったしな」
 何を答えていいのか、もう沙織には分からなかった。
 十年ぶりの再会だけでも十分な事件であったというのに、この突然の告白は。
 芽生え始めた希望の芽を、強引に摘まれてしまったような感覚。これから全てが上手くいくのではないかと想像した、その矢先に。
「これを病気だと言う奴もいるが、俺たちは上手く使い分けてたんだ。一種の処世術みたいなものだ――問題は」
 沙織の腰を抱いた響の腕に、ぎゅっと力が入る。
 緊張に、ドクンと心臓が暴れた。
「《キョウ》 がお前に恋をした。周囲の期待に答えるだけのいい子だったはずの奴に、自我が芽生えて、我がままを思うようになった。お前を自分だけのものにしたくて、俺にさえも嫉妬するようになった」
 不自然なほど落ち着いた、響の声。
 それはまるで長い間用意してあったシナリオを読んでいるような滑らかさがあって、沙織は確かに、響の語っている内容を理解していった。
 時々、常軌を逸すほど厳しかった両親、特に母親の"共" への期待と執着のせいで、子供だった響は傷つき、それから生き延びるために心の中に二つの人格を作った……ということらしい。そしてそれは彼の中で成功していたという。
 彼がキョウと呼ぶ、昼の響が沙織に恋をするまでは。
「貴方、は……」
 いままで、沙織が響に対してこんな呼び方をした事はなかった。響はいつも響であって、どんな身分の違いがあっても、いつだって最も深い親しみを持って接していた。
 離れていた十年間でさえ、こんな風に彼を遠くに感じたことはなかったのだ。しかし
「キョウ、と敵同士だったって……どういう意味なの?」
 それは二つ取れる。
 一つは、夜の響も沙織に恋をして、ライバルとなったという意味。
 そしてもう一つは、夜の響は沙織をなんとも思っていないか、あるいは疎んじていて、キョウが沙織と必要以上に親しくなるのを嫌がっていたという意味で――
「俺は、お前の響《キョウ》 のように優しい男じゃない」
 彼に真っ直ぐ見つめられると、思考が止まってしまう。
 彼が誰でも、どんな響でも、幼い頃から惹かれてきた男性の一部に違いないのだ。
「けどそれは、お前を愛していないという意味じゃない。二人の男が敵同士といえば、理由なんて一つしかないだろう?」

 こんな告白を知らない……こんな選択は出来ない。
 夢でさえ願ったことはなかった。
 選ぶことが裏切りになるような切ない恋を、したくなんてなかった。

 

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