再会 【2】
「沙織」
二度目に紡がれた名前は、最初のものよりずっと確信に満ちていた。
濃いグレーのスーツが、彼の長身によく似合っている。
仕事関係で付き合いのある家に、呼ばれて訪問していたところだったのだと、響は沙織に説明した。
ぎこちなさを感じたのは最初の十分ほどだけで、今日はもう仕事がないのだという響に誘われて歩きながら話していると、いつの間にか二人の間にあった十年の時の谷間は消えていった。
「最初は驚いたよ。でもすぐに分かった、沙織は綺麗になった」
「響こそ。声、変わったから、少し驚いちゃった」
響は現在、父が取締役を務めている一ノ宮貿易商社で働いているという。詳しい役職の説明は、企業に勤めたことのない沙織にはピンと来ないが、専務というからには責任のある立場だろう。
しかしそれを驕ることはなく、あくまでも控えめで、口外するのを恥じているような雰囲気は、それだけで沙織が覚えている穏やかな響そのままの姿だ。
ただ背だけが随分と伸びて、声が低くなって、男らしくなった。
短く黒い髪が前で分けられていて、社会人らしく落ち着いた印象を与える。正真正銘の、大人の男。それが今日の響だった。
「沙織」
口調も。
穏やかで、それでいて凛々しい彼の喋り方はどこまでも健在だ。名前を呼ばれるとそれだけで嬉しくなってしまうこの気持ちも、全く変わらない。
「うん、響?」
「いや、何だか変な感じだな。大人な沙織か。ちゃんと仕事はしてるんだ」
「してますよ、もぅ。響のみたいな難しい仕事じゃないけど、一応、お店の看板娘ってことになってるんだから」
「それはそれは……今度、食いに行かなきゃな」
「どうぞ。お昼時はすごく混んでるしOLばっかりだから、夜に来てくれた方が落ち着けると思うの」
沙織は気軽に答えた。
これはいつも人に店をすすめる時に言う常套句で、事実、"Le Jour" の昼時は忙しく、沙織に知人を相手できるだけの時間がないのが常だ。深い意味はない。
しかし響は急に、難色のようなものを顔に示した。
「夜――は、どうかな」
響は視線をそらし、どこか彼方を見つめて、硬い表情になった。
その時二人は再会した古道を歩き終え、人通りの多い現代的な歩道に出ていた。時々、すれ違う人々の視線を感じる。おごるつもりはないが、それでも沙織は自分がよく目立つ顔立ちをしていて、それが人目を惹くのをある程度分かっている。小さい頃は、瞳ばかりが大きく睫毛が長く、それをよくからかわれていたが、成長するにつれてそれらが美しい均整をとるようになり――見合った服装や化粧を覚えたこともあって、少なくとも外見に劣等を感じることはなくなっていた。
そして響。
彼の容姿が人目をさらうのは、単に造形が優れているからだけではない。小さい頃からそうだ。彼の血筋からくるのか、高貴な性格の現われか、人を簡単には近付かせない、それでいて一度見たら視線を離せなくなってしまう不思議な魅力を持っていた。
行きかう人々は二人を振り返った。
映画でも見るようにうっとりと眺めて、そして過ぎ去っていくのだ。
「あ、の……深い意味はないの。ただお店が混んでるだけで」
慌てて沙織が言うと、響ははっと目が覚めたように沙織の方へ視線を戻した。沙織の怯えた瞳を見て、驚いたように目を見開き、慌てて言い加える。
「違う、沙織、悪かった。沙織のせいじゃない。ただここしばらく毎晩夜中まで仕事で詰まってて、それを思い出して少し憂鬱になっただけだ」
「そう?」
「そう。明日は無理だけど、明後日あたり昼飯を食いに行くよ。いいかな」
響は穏やかに微笑んでそう言った。
「もちろん! 私が誘ったんだから……吉見さんに言っておくね」
「吉見?」
「オーナーシェフでね、知り合いが来るって言っておくと、時々特別メニューを用意してくれたりするの」
「へぇ、良い所に勤めてるな」
「うん」
嬉しいことがあると、嫌なことを忘れてしまえるのは、人間の性らしい。
沙織は取り付けた響との約束に胸を弾ませて、彼が何故か『夜』 について難しい顔を見せたことを、いつの間にか忘れていった。
二人はそのまま歩き続け、ちょうど日が落ちる直前に辿り着いた大きな駅の前で、レストランでの再会を約束して別れた。
日の暮れる手前。
早足に去っていく響の後姿に、沙織は何の疑問も持たなかった。
――どうしてだ。
声の限りにそう叫んで、無理矢理に時を巻き戻してしまいたかった。
けれど現実は違う。
響は拳を強く握った。
叫ぶことは許されない。時を戻すことも出来ない。沙織と再会してしまったという事実を、取り消すことは不可能だった。そして事実、彼女との再会に喜び震えている自分が、確実に、いる。
それが自分なのか――奴、なのか。
忘れかけていた地獄がまた頭をもたげながら迫ってくる。
(違う)
しかし、否定は空しく宙をかいた。
(あれは俺じゃない。いや、俺だったんだ。もう何処にもいない)
自分は変わった。もうあの頃とは違う。
いくら胸の中でそう繰り返しても、身体は正直で、握り締めていた拳がじっとりとした汗をかきはじめるのを止められなかった。
(沙織)
戦えるだろうか。
勝利のない孤独な戦い。仮に自分が彼女の愛を勝ち取ったとして、その時、もう一人の自分が泣くのだ。その逆も然り。たとえ彼女が両方を愛したとしても、今度は嫉妬という名の苦しみがいつまでも、昼も夜も休みなく続く。
けれど逃げられない。
それは分かっていた。十年前、この昼と夜との葛藤に苛(さいな)まされながらも忘れられなかった少女は今、あの頃より更に強く、響の魂を揺さぶった。このまま彼女を振り切って忘れるという選択肢は、もう既に存在しないのだ。扉は閉ざされた。
「…………」
響は自宅のマンションに戻る手前、空を見上げた。
日が暮れて、夜の帳が薄暗く空を覆うのを見る。その瞬間、残酷な現実を理解した。あの甘い地獄が、また始まったのだと。