/Four Seasons/掲示板/

 

 

 

天と地の狭間(はざま)で――

二人は佇んでいた。来るべき未来と、捨て切れない過去を 持て余しながら……

 

__Heaven to fall

 

「どうして……離してくれないのですか。貴方と私は、愛し合ってはいけないの……」

背後からきつく自分を抱く男に、女はそう呟いた。
同じ台詞を言うのは、すでに何度目になるのだろう――そう思うくらい何度も繰り返してきた言葉だ。

それは、それが真実だから……。

「――神が決めた下らぬ戯言。私に、それを聞いてやる義理は無い」
答える男の声は低い。その声に……絡め取られそうになりながらも、女は反論する。

「私には、あります。理(ことわり)に反する訳にはいきません」

しかし男はさらに腕に力を入れた。女の衣服は白を基調にしており、男のそれは、逆に、黒だ。
服だけではない、その容姿も――柔らかく煌く女の金の髪と、深い漆黒の男の髪は総対照を成している。
そう、二人は、愛し合うべきではなかった、対(つい)。

出逢うことさえあってはならなかった二人。
惹かれ合うなど、恐れを知らぬ神への謀反――。

「私は天へ戻らねばなりません。そして大地と、人々を守り続ける義務が」

女は振り返った。振り返って、男を見つめる。
その髪と同じように深い黒の瞳は、愛と、それに劣らぬほどの怒りが現れている。

「ならば、人間など全て葬ろう。大地など塵ほどの形も残らぬよう、粉砕してくれる」
「――なんてことを仰るんです!」
「私は本気だ。お前を手に入れる為なら、何の躊躇があるというのか」

――あぁ……。女はそう、切なく短い吐息を漏らした。

自分は何という男を愛してしまったのだろう……
そしてこの男は、何故、これほどまでに私を求めてくれるの……?

「離して……下さい」
いつの間にか手首を強く握られていた。それを振り払おうとする――が。
「離さない、離すものか」
それは敵わなかった。男はさらに腕に力を込めて握る。たとえ女の手首が砕けることになっても、それを離しはしないだろう。そんな力だ。力と――熱、だ。

「私、は……」
女の声が、僅かに震える。

強く掴まれた手首には、すでに眉を歪めるほどの痛みが通っている。振り払うだけの力はもう出なかった。

「私は、天にあるもの。地上の生を司るもの――その、はしくれです」

その台詞に、男の瞳に残酷な光が宿った。
そして女の言葉の続きをするように、男は低い声で唸った。

「私は地の底にあるもの。地上の死と終焉を、司るもの――」

――だから。
だから私達は相容れぬのだと……それを言わなければならなかった。
言って、説得させねば、この男は破滅への道を歩むことになる。

「離して、下さい。私、は……行かなければ」
「――何処へ」
「天へ帰ります。そして、貴方のことを忘れます。そうしなければ、いけない……っあ!」

女が言い終わるより先に、男が掴んだ女の手首を捻り上げた。
痛みに、女は瞳に溜めていた涙を流す。

「痛……っ」
「何が痛いものか――お前は今、私の魂を、こんな痛みとは比べ物にならぬほど甚振った……」
「そん、な」

女が、懇願の瞳で男を見上げる。
男は一歩進んで、女との距離を更に縮めた。胸と胸、肩と肩が熱く触れ合う。

「行くというのなら――私を殺してからにしろ。それだけの覚悟があるのなら、放してやろう」
「な……!」
「そうだ、殺せ。お前を一瞬でも離して、生きて行く気など何処にもない。これを使え、そして私を殺してその屍を踏み倒し、天へ帰るがいい!」

――男は腰から剣を抜いた。
細身だが神々しい輝きと細工を持った神聖なる剣――。

不老不死の天使と悪魔を殺めることの出来る、唯一の道具。

(や め て)

――男を止めなければならない。
この人は、この、私が愛してしまった人は、その余りにも熱い情熱に溺れている。

剣は、空気を舞う度にシャラン……と、身体の芯へ響くような音を立てる。
その音に畏怖を覚えるのは、生存への本能か。
悪魔がそれを携帯しているという話は、確かに知っていた。しかし天使である自分は、触れた事さえない――のに。

「仕舞って下さい、戯れが過ぎます」
「戯れているのはお前も同じ。本気で私を忘れると言うのなら、出来るはずだ」
「出来ません……っ。命を、奪うなど」
「命でなければ、奪っても良いというのか? お前は既に私の全身全霊を奪った。その声と、姿と、心をもって」

男は剣を縦に持ち、それを女の胸元へ押し付けた。

「この心はお前の物だ」
男は片方の手で剣を持ち、女の胸に差し出しながらも、もう片方の手で自身の厚い胸を押さえた。

「抉(えぐ)り出すがいい――お前を思うこの心臓など。抉り出し、握りつぶせ。お前に触れたこの指を切り落とし、お前に語りかけた、この喉を潰せ。そしてお前の記憶を持つ、この頭蓋を叩き割ればいい!」

――空気を震わすほどの怒声が、響き渡る。
それは、ただその声が強かったから、だけではない。心の底から出た叫びだからこその、痛切な響き。

「あ…………」
「そしてお前の帰るべき場所とやらに、戻るがいい。それがどれほど良い場所なのか、知らぬが、な」
「ち、違う……の……」

どう反論すればよかったのだろう――女はただ、男を止めたかっただけだ。
男を忘れる事など到底出来ない。そんな事は、もう、嫌という程分かっている――。

「忘れて下さい。お願い……忘れて、そして……これを仕舞って」

剣を押し返そうとした女に、男の残忍な視線が絡む。
怒りと焦燥、情熱と、愛。

(――違うの、怒らないで。私にそんな価値はないの……だから)

そう、女が言葉にしようと思ったその時、それはもう遅かった。
男の手に握られていた剣が、宙を切り、血肉を求め、真っ直ぐ振り落とされようとする。

「――っやめて!!!」

――女は、声の限りに叫んだ。

同時に、その鋭利な剣が向かおうとしていた、男の胸に飛び込む。
ザシュっという気味の悪い音と共に、鮮血が飛んだ。
「あ……」
小さな、か弱い、吐息にも似た呻き声が、女の口から短く漏れる……。

「な……っ! 何をした!!」

男は急いで剣を投げ捨てた。が、既に――刃は、男を庇おうとした女の背を傷付けている。
血が流れ始める。見た事もないほど透き通った紅の、命の流れが。

「何という馬鹿な事をしたのだ! 私を忘れると言ったのはお前だ、何を庇う必要がある!!」

男は己の掌を強く女の背に押し当てた。
――傷は、致命傷ではない筈だ。彼女が飛び込もうとした瞬間、それに気付いて男は剣を止めようとしたのだ――。
しかし咄嗟のこと。完全に止め切る事は敵わず、それは確かに、白い肌に喰い込んでいた。

「お前が……傍に居ない世界など、用は何もない。だからこうしたのだ――それを、お前が消えてどうする……」

腕は身体と傷を強く押さえながら、男は女の瞳を覗き込んだ。
女もゆっくりと男を見つめ返す。

「……違い、ます……私は」
女が答えたその声は、弱かった。

これはただの剣ではない。死を司る悪魔のみが持つ事を許された、神聖なもの。

――天使である女が、この神剣に身を晒したことなど、ある筈もない……。
しかし地の底で生きてきたこの男は、違った。悪魔は、その同属同士でも殺し合いが常だ。剣にもある程度の耐性が出来ている。
急所には届いていないであろうその傷が、しかし、女の身体を蝕んでいるのは明らかだった。

「うそ、を……ついたの。貴方に、永遠の命を、捨てて……欲しく、な……」
「――喋るな!」

 

"私達が結ばれる方法が、一つだけある"

――その時はまだ、それが現実になるとは思ってもいなかった。
出逢ったばかりの頃。

この地上に、舞い降りた一人の天使と、一人の悪魔が、巡り合う。

"いけません、貴方には貴方の使命が。私には、私の使命が……"
"生憎、我等が悪魔の使命は、人を困らせる事でね"

戯れだったのだ。
戯れだった――筈、だった。

気が付けば魂ごと攫(さら)われていた。

あの頃、男は悪戯に女を口説いていただけだ。
しかし遊びだった筈のその台詞の数々が、本心からの言葉に代わるのに、長い時間は掛からず……

"人間の生というのも、それ程悪い物ではないらしい。寿命が短いのが欠点だろうが、それでも色々と我々には無いものがある"
――男は言った。女は儚く微笑んで首を振る。

"不謹慎です。人の生は脆いもの……老いがあり、死があります"
"しかし子供というものが持てる。これは、我々には無いな"

悪魔の微笑み――そうだ、文字通り悪魔の、魅惑の微笑み――を浮かべながら、男は女に言った。

愛し合うことを、摂理に反すると抵抗する女に、一つの"提案" を投げかけて。
その永遠の命と、永遠の若さを引き換えに……"人間" へ堕ちるという、その選択を。

そうすれば愛し合える。
短い短い時間。彼らからすれば、それは瞬きをする程の、一瞬の長さ。
――しかし自由だ。

けれど女は、それを受け入れることが出来なかった。

理由は、己の命ではなく。
愛した男を、その、短く儚い生命の檻の中へ入れたくなかったからだ。
人に堕ちれば寿命がある。今男が持つ、強力な魔力や力も、すぐに失われてしまうだろう。

ただ一時の戯れの為に、愛した男にそんな選択をさせる訳にはいかなかった。
一時の戯れ――そう、思っていたのだ。

男は悪魔だ。
きっと幾百もの女性に同じ愛の言葉を囁いてきたはず。
自分はその1人に過ぎない。そう思おうとした。それを……どこで踏み外したのだろう。
気が付けば、それでもいいと、思っていた。

それでも――天使としての道を離れ、地にこの身を落としても――この想いを抱き続けよう……と。

 

「忘れる……なんて、できない……から」

――きっとあの微笑だった。男が、最初に女の心を攫ったのは。
魅惑的で、悪意さえ含んでいたのに、どこか切なくて何かを求めている様な……そんな瞳の。

「私、は……地へ、堕ちます。天へ……戻る権利は、もう……でも貴方は」
男の腕に抱きかかえられながら、女は切れ切れに声を出した。
「喋るなと言ったはずだ……私の言う事が聞けないのか!」
男は、女の傷を押さえながら力の限りに叫ぶ。

「……貴方には、生き続けて、欲しい……の」
「馬鹿が――!!」

地へ、堕ちること。人間になるということ。

それは、未来永劫の命と永遠の若さを持った天使や悪魔から見れば、死刑宣告に他ならない。見る間に老い、日々の苦労を担ぎ、そして時が来ればその寿命は尽きる。

「お前一人が地に堕ちるつもりだったか! 一体この頭の何処から、そんな下らん考えを生んだ!」

男の怒声は、どこか断末魔に似ていた。
己の全てを振り絞る、そんな叫び声。女の身体がピクリと震えた。

「私に…………そんな、価値 は」
「お前の価値は私が決める。お前の全てをだ。何時、どこでどう生きどう終えるのかさえ、もうお前に選択肢はない」

――お前の想いを、知ってしまったからには。
男はそう、言葉の最後に優しく付け加えた。そして、蒼白になりかけている女の肌に触れた。痛みから来る額の汗を拭う。

そして微笑んだ。

「――共に堕ちよう、地へ。そして人として2人で生きよう」

女の瞳が大きく揺れる。
"生きよう" ――それは、考えてもいなかった言葉だ。
永遠の命を捨てるのだ。それは死を選んだも同然だと――そう、思っていた。

「子供を作るのも悪くないだろう。お前も憧れていたな、正直なところは?」

男の微笑みには悪戯が含まれていた。そう、初めて逢った、あの頃のような……。

「いい、の……?」
女は訊いた。男は答えない。答える必要はない、という意味だ。

 

堕ちよう、地上へ――。

愛と憎しみ、生と死、過去と未来が鬩ぎ合う、その世界へ。
限りある時間。
しかし後悔はない。永遠より尊い何かを、手に入れたのだから――。

 

「人には、名前、という物があったな」

そして地へ、辿り着いた時――男がぽつりと言った。もう魔力は無い。今までなら簡単に、空を飛び必要な場所へ移動した所だが……今は己の足で進む。一歩、一歩確かに。
傷を背負った女を腕に抱きながら、時々、労わるように髪を漉く。

「ええ……生まれた時に、決められるそうです。私達には、ありませんね」
「そうだな。別に必要も無かったが――どうだ、ここは一つ」

お互いを名付け合う、というのは? 男がそう言うと、女は愛しそうに笑って、さらに近く男の胸に顔を寄せた。

「そう、ですね。楽しそう……」
「そうだ。楽しくなる。先は短いんだ――大いに楽しもう。共に、な」

 

堕ちたのは、そう……

誰が何と呼ぼうとも、天国だったの……

/Novel Index/
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