秋は夕暮れ。   Autumn, or calling all angels  私に意識が戻ったのは、それから数週間後だった。まず最初に視界に映ったのは病院の白い天井で、それもぼんやりとしていたから、しばらくは何も考えられなかった。自分が生きているとか死んでいるとか、そこまで意識がいくこともなく、ただ視界に飛び込んできた白を、静かに眺めていた。 「植物状態ですね」 私は起きたり、眠ったりしていたが、それを己でコントロールすることは出来なかった。 それらについても、私は当初、冷めた意見を持っていた。     意識が戻ってからもしばらく、私は医師や看護士たちのビジネスライクな会話以外、ほとんど耳にしなかった。もちろんそこには、それ以外の下衆な台詞も多く混じっていたのだが。 テニス界の貴公子が火遊び相手の夫に刺され、植物人間となったとあれば、タブロイド紙の格好の話題でもあり……。 「可哀想に」 と言いながらの嘲笑を、何度聞かされたことか。 私は、冷酷で傲慢な男であったが、自分の名声や富に対する執着をあまり持たないタイプだった――生れ落ちた瞬間から、あの夏まで、それらは当たり前のように私に付いて回ってきていたから、執着のしようがなかったのかもしれない。 それでもあの頃、私は、傷ついていたのだろうと思う……。   そんなある日のことだ。「大丈夫よ……ウィル、私がついてるわ。私が、皆からウィルを守ってあげるから、心配しないで」 そう声を掛けられたとき、私はその声の主が誰なのか分からなかった。もうずいぶんと長い間、こんな風に誰かから声を掛けられることもなかったから余計だ。 「なかなか来られなくてごめんなさい。でももう、弁護士にも付いてもらったし、誰にもウィルの命を奪わせたりしないから……だから、早く目を覚まして」 そして、手を握られた。 それは若い女性の声で、不思議と心地よく、透き通った声だった。 私は声の主が知りたくて不器用に視線を動かした。そして、ゆっくりと横へ流れる私の視界に映ったのは――柔らかいカールをしたブルネットの髪の、小枝のように細い少女だった。 エリー……。 重い黒縁めがねの、私の義妹。 「私の声が聞こえる?」 ああ、聞こえる。 そう答えたつもりだったが、私が実際に示した反応は精々、眼球を一ミリ動かしたとか、その程度だっただろう。しかしエリーは微笑んだ。 「聞こえる……のよね? よかった、ウィル……」 彼女の瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。 それは美しい水晶の粒のようで、キラキラと輝いて見えて、私は息を呑んだ――あるいは、息を呑むような感覚をわずかに覚えた。エリーは片手でめがねを外し、涙を拭うと、上半身を屈めて私の手の甲へ軽くキスをした。そして顔を上げる。 「私が守ってあげるわ、ウィル、大好きよ」 エリーはそう言って、さらに強く私の手を握った。   後から、周囲の会話でぽつりぽつりと理解していったことには、確かに私は当初考えていた通りの、見放された患者だったのだ。昏睡状態が一ヶ月を過ぎた頃、医者はさじを投げていた。 植物状態の患者を維持するための医療費は、莫大なものだ。私の口座にはそれを払えるだけの金額が入っていたし、保険も、加害者からの賠償金もあったわけだが、いつ目覚めるのか、そもそも目覚めるのかさえ疑わしい私を生かしておくことに、賛成する者は少なかった。 私に、家族と呼べる存在はエリー一人しかいない。 そのエリーもまだ未成年で、出来ることは限られている。否……「出来ること」 どころか、私が死ねば、彼女には莫大な遺産が転がり込む。そして逆に、私が生きている限り、金は出ていく一方となる。 誰がどう考えても、エリーは私の生命維持を放棄したい筆頭人物になりえた。 ――私は最低の兄だった。 まだ学生で、シャイで、私という義理の兄をのぞけば天涯孤独だった彼女に、私がしたことといえば、氷のように冷たい台詞を投げつけ続けたことくらいだ。 もし彼女が望むなら、この最低な義兄を見放して、大金を手に入れる方法が幾つでもあったはずだ。 しかし周囲の予想に反し、エリーが選んだのは、私の命を守ることだったのだ――それも、多大な努力と尽力の上で。   それ以来、エリーは、放課後になると必ず私の元へやってきた。私に話しかける為に。 「今日はいい天気ね、ウィル、気分はどう?」 例えば一日の出来事、外の様子、天気などを。 彼女は大抵において、私が、彼女の声を含める全てのものを理解できていると信じて疑わない姿勢を崩さなかった。周囲の者が、無駄な努力ではないかと忠告すると、エリーは必ず「そんな事を、ウィルに聞こえる所で言わないで」 と言って眉を上げた。そして私に向かって謝る。 「ごめんなさい、気にしないでね。皆、分かっていないだけだから……私は信じてるわ」 この頃、エリーが私の元を訪れるのは、いつも彼女の学校が終わった放課後だった。 そして秋も終わりに近付くころ。 「私が初めてウィルに出会ったのは、まだ小さい頃ね。でもよく覚えているわ……貴方はあの頃からとってもハンサムで、すぐに私の王子様になったの……」   当時、私は自分の姿を見ることが出来なかったから自覚のしようがなかったが、私の容姿は醜く変貌しはじめていたのだ。筋肉という筋肉が衰弱し、かつて隆々さを誇っていた二の腕や胸板や足は、骨に皮が付いただけの惨めなものへと変わり果てていた。顔色も冴えなく、頬はこけ、状態も褒められたものではなかったらしい。急にエリーが昔話を始めたり、泣き出したりしたのは、そのせいらしかった。 精悍なミケランジェロの彫刻は、今や人生の終焉を迎えようとする老人のようになり、四六時中チューブに繋がれ、己の糞の世話さえ出来ない有り様へと転落していたのだ。涙の一つや二つも出るだろう。 特に、エリーのように優しい娘は。   弁護士やマスコミ……私を守るために方々へ出る羽目になったお陰で、人目に触れることが多くなったエリーは、それに合わせて自然と美しくなり、大人の女らしさを身に付けていった。元々彼女の母親は、美しさで私の父を手に入れたようなもので、その血を引くエリーは当然、輝かんばかりの美貌を持ち……それを重い黒縁めがねの奥に隠してきていたのだ。   日々、美しく変容していく義妹に、私は懸想した。彼女の優しさに触れ、その声に癒され、その言葉に励まされ、私は……生まれてはじめての恋をしたのだ。 可笑しいだろうか。 「ウィル、外の木々が綺麗に紅葉しているわ」 「近くに素敵なレストランが出来たの。目が覚めたら一緒に行きたいな。ウィルの舌に合うかどうかは、分からないけど……」 「空を見て……見慣れない鳥が飛んでる。渡り鳥かしらね」   |