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Forgiving - Let it rain   The rain falls like a thunder, as I truly hate it. その夜、窓に打ちつけてくる雨を眺めながら、ケネスは無意識に眉をしかめていた。 週末――ロンドンの街中はいつも騒がしい。喧騒より静寂を好むケネスは、この休日の夜を、外を出歩くより自宅のフラットでゆっくりと休息を取ることにして、のんびりと過ごしていたところだった。 もちろん喧騒だけが引き篭もりの原因ではない。 ケネスの腕の中で、まどろみながら映画のワンシーンを眺めている存在……あかねこそ、ケネスが週末フラットを離れたくなかった本当の理由だ。数々の誤解やすれ違いを乗り越え、恋人同士となった現在の二人は、かつてない幸せと平安を手に入れたといえよう。それほど最近の二人の関係は良好だった。 イギリス人としても長身の部類に入るケネスにとって、華奢なあかねは本当に羽根のようで、そんな彼女を腕の中に包みながら過ごす週末の夜は、この世の至福になるはずだった。――いや、確かに至福だったのだ。 突然の強い雨が、降り始めるまでは。 「強い雨ですね。急だから、驚いちゃった」   あれは決まって雨の日ばかりだった――特に、こんな嵐のような降り方をする日は、最悪だった。(だったら何だ! 俺は、何を……) 書斎へ飛び込むなり、ケネスはマホガニーの仕事机を力任せに叩いた。机上に積み上げられていた書類が数枚、その揺れにしたがって、はらはらと床へ散っていく。 ケネスは音がしそうなほど歯を食いしばり、正面の窓を見やった。リビングほどの大きさのものはないが、採光のための小さな窓があり、雨が打ちつけている。 後悔がケネスを襲った。 意図したことではないとはいえ、あかねに暴力をはたらいたのだ。男として、人として、許されることではない。 おまけに、すぐに謝って彼女を助け起こせばいいものを……ケネスにはそれが出来なかった。そう、自分を見上げるあかねの澄んだ瞳に、また同じように怒りを爆発させてしまいそうな気がして、逃げ出したのだ。 雨に濡れた窓は、表面にいくつものドット模様を作り、それを滴らせていく。 ケネスはこれが嫌いだった。 生前の母に暴力を振るわれたのが、決まって雨の日だったからだ。 一条正敏に捨てられた後のケネスの母は、典型的なアルコール依存症に陥っていた。   結果からいえば、あかねは、ショックで夜の街をさ迷っていたわけでも、家出を決行したわけでもなかった。それでも、約五分後、水色の傘を差したあかねが一ブロック先の角から現れたのを見たとき、ケネスは奇跡を目撃したような気分になったのだ――。 驚いたのはあかねも同じだったようで、つぶらな瞳を一生懸命に瞬きながら、雨に濡れたケネスが駆け寄ってくるのを見つめる。 そのまま、道の往来で、ケネスはあかねを抱きすくめた。それも、あかねが狼狽してしまうほどぎゅっと、強くだ。 「ど、どうしたの……? ケン、もう、大丈夫なの?」 長身のケネスに立ったまま抱きすくめられてしまうと、もう、あかねには周囲が見えなくなる。彼は明らかに濡れていた。 ――あれから、まだ二十分も経っていないのに。 「あ、の」 戸惑いつつ、あかねはゆっくりと顔を上げた。すると切ない表情のケネスと視線が絡み合った。あかねは短く息を呑む。傘は、いつのまにか手から落ちていた。 「I don't know how can I apologise」 どう謝っていいのか分からない。 雨の中、ケネスはそうぼそりと言って、さらに強くあかねの身体を抱いた。一滴の雨さえ届かないような固い抱擁で、あかねは危うく荷物さえ落としそうになったほどだ。 押し付けられたケネスの胸が、ちょうどあかねの耳元辺りに当たって、焦り打つ鼓動がいやに大きく聞こえる。 あかねは微笑んだ。 「But you don't have to」 でも、そんな必要はないのに。 「Yes I do」 「You don't」 「I do」 そう、小さな押し問答が続いて、結局あかねが折れた。 「分かりました……。でも、それは家の中で……」   「本当に、痛くもなんともなかったし、怪我もないし、気にしなくていいんだから」と言ってみたものの、今夜のケネスは過ぎるほど過保護に豹変していた。 今キッチンに立っているのも、ケネスだ。あかねはソファに座らせられて、今夜は寝るまでそこから動かなくてもいい、とのことになっている。 「イライラしてたみたいだから、これを淹れてあげなきゃ――って思ったの。ちょうど切らしていたところだったから、買いに行ってただけで……」 あかねはケネスが差し出す温かいカップを受け取りながら、そう言った。 そう、あかねは歩いて数分のコーナーショップへ出向いていただけだったのだ。買ってきたのはハーブのティーバックで、根っからのコーヒー党のケネスが唯一好んで飲むブランドのものだった。 「おいしい……」 と、カップに口をつけるあかねの横に、ケネスは腰を下ろした。 しばらくあかねの顔を見つめてから、彼女の肩に腕を回して抱き寄せると、ケネスは小声でSorry、と呟く。 「こういう雨が降ると急に、意味もなく苛立つことがある。もし次、俺が同じことをしたら、張り倒してくれて構わないから」 「う、う〜ん……」 あかねがケネスを張り倒すとなると、武器でも使わなければ無理のように思えるのだが。 「……理由を、聞いてもいいですか?」 「下らないよ」 ケネスはそう言って自嘲して、大まかな経緯をあかねに語りだした。母のアルコール依存症、雨になると彼女の機嫌が悪くなり、暴力を振るわれたこと。そのお陰で雨の屋外を当てもなくさすらった過去……。 あかねは真剣な顔で全てを聞いていた。 「だからって俺のした事は正当化されない」 「もういいんです。わざとじゃないって、すぐに分かったから……あの直後のケンってば、すごい顔してたもの。こう、英語でなんて表現するんでしたっけ、本で読んだことがある……」 視線を泳がせながら、あかねは言葉を探していた。そしてあっと声を上げると、手を打つ。 「そう、"間違って自分の子供を頭から食べてしまったような顔"!」 「……そんなに酷かったのか?」 「ふふ、少なくとも、怒る気にはならない顔でしたよ」 あかねの笑顔につられて、ケネスもわずかに微笑した。――自分はなんて幸福なのだろう。こんな女性と巡り合い、罪を許され、笑顔を見つめることができる。過去のわだかまりも、あの頃流した涙も、凍えた思い出も、今の幸福と天秤に掛ければ、軽いものだったのではないか……。そう思えるのだ。 「ただ……今夜、分かったことが一つある」 ケネスは言った。 「俺を叩いた後の、母の気持ちが。叩かれたのは俺なのに、いつも彼女の方が驚いて傷ついた顔をするんだ。あの頃は解せなかったが……今はなんとなく分かるよ。やりたくてやった訳じゃないんだな、多分。最悪の気分だった」 指先であかねの髪を弄りながら、そう言って、彼女の首元に顔を埋める。 あかねもケネスの髪に触れた。 「いいアイデアがあるの。次……こんな雨が降ったら、ご馳走にしたいなって」 「ごちそう?」 「例えば、ですけど。ケンの好きなものを沢山作って、豪華な食事にしたり、友達を呼んだり……何か楽しいことをするんです。そうやって少しずつ楽しい雨の日の思い出を作っていけば、いつか苛立ちも消えてなくなるんじゃないかなって、思って」 こんなのは駄目? と、小首を傾げるあかねだ。 ケネスは微笑んで、彼女のあごに手を当てると、ゆっくりとキスを落とした。 「Good idea」 そう呟いて。   その夜中、ケネスがベッドの上でふいに目を覚ますと、外はすでに静かだった。雨は止んだのだろうか。 隣で小さく寝息を立てているあかねの額に、気付かれないような軽い口付け残して、身体を起こす。ケネスはそのまま静かにリビングへ出た。 窓を見やると、水滴の名残がガラスに残っていたが、雨自体は本当に止んでいたらしかった。 ケネスが窓を開けると、冷えた空気が肌を撫でる。 雨は止んでいた。 雨雲も去り、夜空には星が浮かんでいる。遥か宇宙から宝石のように輝く星たち。緑の匂いを含んだ夜風。その時、この澄んだ空に向かって、ケネスは久しぶりに――本当に、数十年来の時を経て初めて、こんなことを思った。 (Let it rain) 雨よ、降れ。 嫌悪の対象でしかなかった雨も、これからは、あかねの笑顔と共に愛すべきものへと変わっていくのかもしれない。 遠い夜空を見上げながら、ケネスは目を細めてもう一度思った。 Let it rain. |
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