この森が彼のことを知り尽くしているのと同じくらい、彼もこの森を知り尽くしていた。
毎年、鮮やかな春が新緑とともにその訪れを告げるころ、彼の心は40年前に帰り、あの甘く切ない想いを再び手に取るように思い出して、動けなくなる。
エリーザは背の高い松樹の生い茂る森の入り口に立ち、なつかしい感慨とともに足下の草を踏みしめていた。
見上げると、木々は青々と林立し、エリーザを誘い込むように葉をならして春風に揺れている。
ざわめく森を前にして、締めつける想いに息をつまらせながら、エリーザは思った。
同じだわ。
まったく同じ、40年前となにも変わらない。
かぶっていた黒いビロードの帽子を確認するようにさわると、葉ずれの音に誘われるまま、エリーザはゆっくりと森の中へと足を運んでいった。
足下の柔らかい土が彼女を迎える。
そのみずみずしい感触も、記憶と寸分違わなかった。
──最後にここに来たとき、エリーザはたった15歳の無邪気な少女だった。
世間知らずで、夢見がちで、目の前にいる一人の青年だけに強く心を奪われていた、無垢な娘。肌はすべすべで、瞳は若さに輝いており、恋人のほんの小さな一言だけで眠れない夜を過ごすような、うぶな乙女。それがエリーザだった。
あの頃、自分は愚かだったのだろうか?
いいや、そうは思わない。
若かったけれど、あの愛は本物だったと、信じている。
あれから40年経った今も、エリーザの15歳の思い出は鮮烈で、夜、繰り返し夢に見ることがあった。
時には甘い初恋の情景として。
時には、底知れぬ後悔と、彼への懺悔をはらんだ苦い記憶として。
一歩、一歩、やおらに森の中へ足を踏み入れていくエリーザの脳裏には、40年前の記憶がゆっくりとたぐり寄せられてくるようだった。
森が深くなるにつれ、木々が太陽を遮り、時々ちらちらと揺れる木漏れ日が目に眩くなる。しかし、日が入ってくる方向から、現在の時刻を当てることさえできた。
40年前、そうしていたのと同じように。
あの頃は両親に気づかれないように、決められた時刻までに屋敷へ帰らなくてはならなかったから、時計を持つ習慣のなかったエリーザはこうして時を計っていたのだ。今思い返すと、本当になんと幼かったことだろうと笑いたくなる。まるで童女だ。
しかし彼は、そんなエリーザをも愛してくれていたのだ……。
彼女と駆け落ちしようと、思うくらいに。
『駆け落ち』 という言葉を思い出して、エリーザはつい微笑んだ。
当時のエリーザは、この言葉をことあるごとに切り出しては、彼を困らせていた。その度に彼はエリーザをなだめ、優しくあやし、そんなことを言ってはならないと諭したものだ。
しかし、あの運命の夜、この言葉を使ったのは彼の方だった。
そして、エリーザがそれを裏切った。
太陽の光が鮮やかな日中の色から、優雅な夕焼けの橙色に変わりつつあるのを感じて、エリーザは思わず歩調を早めた。もう誰が追ってくる訳ではないのに、なぜか身体がそう反応してしまう。
エリーザは、わずかに踏みならされた気配のある道筋と40年前の記憶を頼りに、この奥にあるはずの山小屋を探して歩き続けた。
この年になってもエリーザは健康そのもので、年齢よりずっと若々しく見えたが、それでも昔のように小走りで進み続けることは難しかった。1マイルほど進んだところで、だんだんと息が上がり、足を進めるのが苦しくなってきた。
身体が疲れはじめると、心の方まで次第にしぼんできて、不安が頭をもたげてくる。
彼はもうここにはいないのではないだろうか?
もう、ここにいないというだけではなくて、亡くなっている可能性さえある。
運良く、奇跡的に、彼がまだここに住んでいたとしても、エリーザを喜んで迎えてくれるだろうか?
最後の思考が、エリーザの胸に剣で突き刺されたような痛みを与えた。
彼は許してくれるだろうか。許してくれただろうか。エリーザを憎んだだろうか。彼女を恨んで、軽蔑し、信用のならない小娘だとあざけっただろうか。
ああ……どれも、エリーザがしたことを思えば、彼にはそう考える当然の権利があるのだ。
エリーザは疲れだした足を止め、つんと痛くなった目頭を押さえながら、手近にある木の足下に埋もれるようにうずくまって自分を呪った。ああ、神よ、自分はなんと愚かだったんだろう。
どうしてここに帰って来てしまったのだろう。早くこの森から抜け出さなくては。
なんとか涙を押しとどめて立ち上がろうとしたエリーザの目前に、しかし、突然、奇跡のように、見覚えのある風景がとびこんできた。
小さなテラス、質素だが幅の広い正面の扉、角度の急な雪除け屋根。
小屋の横面に立てかけてある斧と熊手でさえ、まるで、当時の思い出そのままのようにさえ映った。エリーザは最初、疲れがつくりだした幻覚を見ているのではないかと思い、手で目をこすった。
再び、エリーザの目の前には、小さなテラスが付いた山小屋があった。
──信じられない。
外で日が陰りだしたのを感じて、イーサンは暖炉の前の椅子から立ち上がり、玄関を押し開いて外へ出た。
いつものようにテラスを片付け、歩いて数分のところにある井戸から、今夜のための水を汲んでこなくてはならないからだ。
イーサンは乾いたようにきしむ膝に悪態をつきながらも、慣れた動作でテラスの椅子と道具を片付け、桶(おけ)を手に取って階段を下りようとした。
もう40年以上繰り返し続けてきた仕事だ。
たとえ目をつぶっていても、イーサンは難なくこの日課をこなしていただろう。ただし、年月という現実には勝てず、昔のような俊敏な動きはできなかったが。
それでも彼は、自分の人生を悲観したことはなかった。
溢れる自然以外にはなにもないこの森を、守り、管理するという仕事を、彼なりの誇りと感謝をもって続けていた。
本来なら、街へ出て、もっといい仕事に就くことができるのにと、イーサンに忠言するものもあった。
イーサン自身、もっと若い頃は、本当にそう考えていたのだ。
大富豪にはなれないだろうが、どこか大きな都市に行き、安定した仕事を得る。イーサンは読み書きも計算もできたし、帳簿をつけることもできた。体力にも自身があった。もっと違う人生を歩めたはずだった……。
それでも。
イーサンは森を守り続ける。
この森を。その奥にある、捨てきれない思い出を。
そのまま階段を下りて井戸のほうへ向かおうとしたとき、しかし、イーサンは人の気配が近づいていることに気が付いた。こうして森に生きていると、否が応でも五感が研ぎ澄まされ、瞬時に周囲の異変を感じるようになってくる。目に見る前に、感じるのだ。侵入者、密猟者、迷い人……。
危険は感じなかった。
しかし、明らかな変化が、彼の近く、どこかに潜んでいる。
「誰だ」
イーサンは声を上げた。
叫びはしなかったが、よく通るだけの声量で、間違いなく侵入者に聞こえるように。
答えがないので、イーサンはもう一度同じ台詞を繰り返そうと口を開けた──開けかけた、ところだった。目の前の小道から、黒いベールをかぶせた帽子と、黒い喪服に身を包んだ細身の女性が、ひっそりと現れたのは。
その女性は、イーサンが年を取ったのと同じくらい、年齢を重ねていた。
背筋もわずかに曲がっている。
昔は黒かった髪も、気品あるグレーに染まっている。あれほど細かった腰も、いくぶんか重くなっている。しかし、分かった。
同時に、イーサンはなにを考えていいのか、分からなくなった。
そんな、はずが。なぜ。
どうして。
驚きに硬直し、目を見開いているイーサンにかわり、小道の脇に立った女性のほうが、控えめに一歩前に進んだ。ざくりと草を踏みしめる音がして、イーサンはさらにはっきりと彼女の姿形を見ることができた。
イーサンはもう少しで、持っていた桶を地面に落とすところだった。
そして、あまりの感情の渦に、涙を流すところだった。
「イーサン……ここに、いたのね」
彼女の声は、40年前、きっと彼女が年を取ったらこんなふうな声になるだろうと想像していたのと、まったく同じ響きをしていた。イーサンは深く息を吸い、桶を握り直した。
イーサンがなにも答えずにいると、彼女は不安げに肩を狭める。
その仕草も、この40年間ひと時も忘れずに覚えていたのと同じで、イーサンは目眩を感じるほどだった。わたしもついに、太陽のあるうちからこんな幻覚を見るほど、老いてきたというのか?
しかし彼女はまた震えるような声で、イーサンに話しかけ続ける。
「もう、あなたはここにいないんじゃないかと不安だったの。でも……どうしても一度来てみたくて」
彼女……エリーザ。
イーサンのエリーザだ。
40年前、身分違いの禁じられた恋に落ち、駆け落ちの約束をしたが果たせず、それでもずっと愛し続けてきた女性……。もう会うこともないだろうと思っていた。しかし、昼は記憶の中で、夜は夢の中で、イーサンからひと時も離れなかった女性。
エリーザ。
「あなたは約束を守ってくれたのね」
と、エリーザは言った。
ああ、そうだよ、わたしはこの森でずっと君を待っていたんだ。
「わたしのような者には、他に行くところがなかっただけですよ、お嬢さま」
本心とは裏腹に、イーサンの口はそう答えていた。
エリーザが視線を足下に落とし、ぎゅっと手を結ぶのが見えて、イーサンはさらに強く手を握り直さねばならなかった。
「怒っているのね。当然だわ……わたし、ずっとあなたに謝りたかった。あの約束を破ったこと……あの時、急に父が倒れて、わたし、他にどうすることもできなくて、」
怯えているような声で、エリーザは続けた。
本来なら、いいんですよ、あれは若者同士の戯れでしたと言って、エリーザの懺悔を止めるべきだと分かっていた。しかし代わりに、イーサンはなにも言わずに彼女を見つめ続け、彼女の言葉を待ち続けた。
聞きたかったのだ……彼女も、本当は後悔していた、と。
後悔している、と。
「あなたを忘れたことなんてひと時もなかった。夫とは……親しい友人のようになったわ。真面目でいい人だったし、息子も授かった。ちょうど一年前に亡くなるまで、仲も良かったの。でも、あなたに対するように愛することは、できなかった」
イーサンは深く息を吸うと、ゆっくりと階段を下りきった。
「いいんですよ、お嬢さま」
そして手にしていた桶を土の上に置くと、数歩だけ彼女に近づいた。「あれは若者同士の戯れでした。あなたが気にすることはなにもありません。わたしももう、忘れかけていました」
はっと顔を上げたエリーザの瞳は、あきらかに傷ついていた。
「本当に……?」
「本当です」
いいや、エリーザ。わたしは40年間、ひと時もあなたを忘れたことはなかった。朝、わたしが目を覚ます理由は、記憶の中のあなたを思い出すため。夜はあなたの夢を見るために眠る。ずっとそうしてきた。
エリーザはイーサンの顔をじっと見て、その真意を必死に探しているようだった。
しばらくのあいだ、二人はなにも言わずにただ見つめ合っていた。
しかし、どれだけ制御しようとしても、イーサンは自分の熱が上がっていくのを止めることはできなかったし、それはなんらかの形でエリーザにも伝わるはずだった。
怯えたように固まっていたエリーザの肩が次第にほぐれてきて、彼女は穏やかな微笑みさえ浮かべて、ゆっくりと言う。
「嘘が下手ね、イーサン、いつもそうだった。あなたはいつも……まっすぐだった」
イーサンは答えなかった。それ以上はエリーザも、追求しなかった。
40年前、イーサンは彼女に約束をした……そして、それが破られることはなかった。ここであなたを待ち続けます。たとえそれが永遠でも。
数秒後、さきに前へ進み出たのはエリーザだった。
しかし、それを受け止めるように彼女の元へ走ったのは、イーサンだった。まるで逃げられてしまうのを恐れているように、イーサンは素早くエリーザを腕の中に閉じ込めて抱きしめ、彼女の首元に顔をうずめる。
きつく。
この森を守る続けてきたように、優しく。
ああ。どれほど、どれほど、どれほど長く、この想いを持て余し続けてきただろう。
思い出すだけでも苦しかった。
どれだけ忘れようとしても、どれほど憎もうとしても、イーサンの心はいつも彼女の元へ帰った。もう、諦めることさえ、諦めていた。この魂が存在する限り、イーサンはエリーザを求め続け、彼女の帰りを待ち続け、そして、二人の約束を守り続けるのだと、そう納得していた。
彼はただの森林管理人で、彼女は伯爵家の一人娘だったのだから。
彼は貧しくて、彼女には身分相応の婚約者がいたのだから。
伯爵である父親が病に倒れ、彼女は家族を残して駆け落ちすることなど、できなかったのだから。そう、幾千もの理由を並べて、イーサンは一人静かにエリーザを愛し続けてきたのだ。
しかし、今、春風に揺れる木々の下で抱き合う二人は、すべての時を超えていた。
わたし達はもう若くない。
イーサンはエリーザの耳元にそう呟いた。しかし、その声が喜びに震えていたのに、エリーザが気付かないはずはなかった。
ええ、だからこそ、わたし達はまた会えたのよ。
エリーザはそうささやき返した。
二人を迎え入れるように、森がざわめいて揺れた。きつく互いを抱き合う二人の身体は一つの影をつくり、大地を飾っていた。
そして、40年前にこの森が聞いた二人の約束を、何度も何度も繰り返し奏でているようだった。
わたしはここであなたを待ち続けます、エリーザ。たとえそれが永遠でも。あなたは必ず帰ってきてくれると、信じています。さあ、今は父上のもとへ行きなさい。
ええ、すべてが終わったら、必ずあなたの元へ帰ってくるわ。
そしてずっと、ずっと一緒に生きましょう。
約束よ。イーサン、約束ね。
The End
本作は、オンライン文化祭2013年 -帰- への参加作品です。