もちろんアナトールは死んだりしなかった。
とはいえ、それらはすべて後になってから言えることで、二日二晩つきっきりで彼を看病しているあいだ、エヴァはひたすら彼の無事を祈り続けていた。
気を失ったアナトールをサタンに乗せて屋敷まで戻る道程は、彼自身が忠告したとおり、本当に不可能に近い難儀だった。
それでもエヴァはなんとか成功したのだ。
時々、愛は不可能を可能にする。いつもそうではないかもしれないが、時にはそういうこともあるのだと、エヴァは思えるようになった。
ヴィヴィアンはエヴァよりも薬草に詳しく、当然、取り乱していたエヴァよりずっと平常心を保っていたので、本当の意味でアナトールを救ったのはヴィヴィアンだったのかもしれない。彼女の作ったカラミントのお茶はよく効いた。
熱にうなされながら、アナトールは時々独り言をつぶやいた。
時にはささやくように、時には叫び声に近い声を上げたりして、不自由な身体に悪態をついたり、エヴァに側にいてくれとねだったりした。
「動物と同じだわ、まったく」
と、ヴィヴィアンは呆れ返っていた。「大きければ大きいほど、強ければ強いほど、病気になったときに大袈裟になるのよ。弱った自分を認められないんだわ」
そうだろうか?
そうかもしれない。二日が経って、ようやくアナトールの容態が安定して熱が下がりだしたころ、エヴァも冷静にそう分析できるようになった。
そして三日目の朝が来る。
太陽のきらめきが、夜の間に集まった朝露をすぐに乾かしてしまう、夏晴れの日だった。この朝、エヴァはやっとアナトールのベッドを離れることにして、牧場へ出てきていた。
アナトールは熱の疲れからかよく眠っていて、エヴァを止めるようなことはなく。
もちろん、アナトールの側にいるのが不満な訳ではない。
ただ、牧場の朝はやることが多くて、これ以上放っておくわけにはいかなかったのだ。エヴァはアナトールを愛していたが、この牧場のことも愛しく思っているのだから。
新鮮な藁を家畜たちに与える仕事を終えてから、エヴァは厩舎から出て空を仰いだ。
──親愛なる、あなたへ。
青い空と、草原の匂いをたっぷりと含んだ優しい風に吹かれて、エヴァは満足げなため息を漏らしながら目を閉じた。
夏風を肌に受けながら、はじめてアナトールから手紙を受け取った日のことを思い出した。
そして交わし合った幾つもの言葉を胸の中で繰り返した。
たしかに、最初の手紙はアナトールの言葉ではなかったのかもしれない。しかし、それを選んだのは、他の誰でもない……アナトール自身だ。
そしてエヴァは、ヴィヴィアンの名前を騙(かた)ったかもしれないが、すべての言葉は、一語一語違わず、心からの真実だった。
そんな二人がこうして寄り添い、惹かれ合うことができたのは奇跡だったと、エヴァは思う。
そして──
目を閉じたまま、小鳥のさえずりと風の音に耳を澄ませいていたエヴァは、後ろから近づいてくる人影にまったく気が付かなかった。
エヴァは突然、ふいに後ろから誰かに抱きすくめられ、驚いて目を開いた。
視線を降ろすと、日に焼けた小麦色の肌の、逞しくて長い腕が、ぎゅっとエヴァを抱きしめていた。片方の腕には、肘の付け根あたりに包帯が巻かれている。
「アナトール……起きてていいの?」
首だけ後ろに向けて振り返ったエヴァは、アナトールの顔が自分の肩に寄せられているのに気が付いて、微笑んだ。
三日も寝込んでいた彼の頬には青白い無精髭が生えていて、エヴァの頬に触れるとざらざらとした感触がして、くすぐったい。
「ずっと、この日を夢見ていた」
アナトールは寝起きの掠(かす)れた声で、エヴァの耳元にささやいた。「一度、手紙に書いた……覚えているかい?」
『そして誰よりも、私こそが、エリオット牧場にたたずむ君の背中を抱きしめたいのだということを、知ってほしい』
忘れる訳がない。
エヴァだってずっと、この日を夢見て生きてきた。苦しいとき、寂しいとき、不安なとき。エヴァを支えてきてくれた言葉。
アナトールの手紙。
「ええ……忘れたことなんて一度もないわ」
「君からの手紙は、いつも、天国からの木霊(こだま)だと思っていた。地獄の底にいる俺にも、時々届く、天国からの欠片(かけら)だと」
そう言って、アナトールはエヴァの片手を取ったと思うと、その手の甲にしっとりとした口づけを落とした。
「でも今、俺は天国にいる。エヴァ・エリオットという名の、素晴らしい天国に」