23. The First Letter

 アナトールは苦痛が治まるのを待っていたが、いつまでたっても痛みは静まるどころか、徐々にその勢いを増していき、彼の全身を巣食いはじめていた。
 だんだんと視界が青のような緑のような非現実的な色に染まりだし、心臓が反乱を起こしたように激しく打ち続けて、そのせいで息をするのが億劫になる。
 アナトールの唯一の救いは、この忌々(いまいま)しい毒のおかげで、興奮状態にならずにすんだことだ。
 もし、噛まれずにすんだとしたら、今度はアナトールは内なる悪魔と戦わなければならなかっただろう。
 こんな人気のない洞窟にエヴァと二人きり、彼女が他の男と結婚してしまうという考えとともに、高ぶったアドレナリンを静めるのは、今与えられている以上の苦痛を強いられるものだったかもしれない。
 ──いや、違う、とアナトールは自分の心の声を否定した。
 エヴァは奴と結婚しないと言った。
 そうだろう?
 あれは蛇の毒が作り上げた幻聴だっただろうか? そんなはずはない。アナトールは確かにエヴァの声を聞いた。そして、彼女の告白を。
 エヴァは奴とは結婚しない。
 理由はなんだったか……くそ、よく覚えていない。毒のせいで頭が石を入れられたように重くて、考えをまとめるのが難しかった。しかし重要なのは、エヴァが奴と結婚してどこかへ行ってしまうことはない、という事実だった。
 それがそのまま、エヴァが自分のものになったという意味ではないのは分かっていたが、少なくともわずかな機会がアナトールの手元にも残っているという訳だろう。おそらく。
 そのためにも、彼女に真実を知ってもらう必要があった。
 どこから話すべきか、毒にやられた頭で考えるのは容易ではなかったが、心はもうずっと前から決まっている。
 エリオット牧場にたたずむ、彼女を一目見た瞬間から。

「戦争が始まってすぐ、」
 アナトールは時々遠くなる意識を手放さないように努力しながら、記憶をたぐりよせるのと同時に、エヴァの身体をぎゅっと抱きしめながら話しはじめた。
 俺は毒蛇に噛まれて死にそうなんだ、慈悲深き聖母よ、このくらい許してくれてもいいだろう。
「俺の入れられた部隊は、最北部の最前線に送られた。俺を含めてほとんどの歩兵は招集されたばかりの新人で、人なんて殺したことのない連中ばかりだった」
 エヴァの瞳はじっとアナトールを見つめている。
 いつも、この茶色の瞳に見つめられると、アナトールの心は燃え上がった。「のちに、北の大虐殺だとか、歩兵の墓場だとか、そういう呼ばれ方をする大激戦だった。敵も見方も生き残ったのはほとんどいない。俺が最初に昇進を受けたのも、そのせいだ。他に誰も残っていなかったんだ」
 アナトールは当時を思い出そうとした。
 重い灰色の空から、にわか雨が降っていた朝。
 四方からつんざく銃撃の音に、どこから飛んでくるのか分からない砲撃の恐怖、飛び散る足下の泥には、必ず誰かの血肉が混ざっていた。戦闘は開始から終わりまで、アナトールの記憶が正しければ、二日かかった。
「終わったあとの援軍も、食料の補給も、ほとんどなかった。死体の山に囲まれて、残った俺たちは自力で生き抜いて、帰らなければならなかった」
 あの数日の記憶は、いまでもアナトールの中で、手に取るように生々しく息づいている。あるのは飢えと、悪臭と、疲ればかりだった。
 この時点ではまだ、悲しみは湧いてこなかった。
 嘆き悲しむことができるのは、一種の贅沢なのだと、アナトールはとっくの昔に学んでいたけれど。
「なんでもした。エヴァ、俺たちは生き残るために、なんでもしたんだ。聞いたら、きっと君は二度と俺に触れようとはしなくなるだろう。そんなことまで」
 エヴァは小さく首を振った。
 そしてアナトールの胸元にそっと手を触れた。
 アナトールはなぜか、急に目頭が熱くなって、そこからなにかがこぼれそうになるのを我慢しなければならなかった。蛇の毒め……とアナトールは内心悪づいたが、どこかもっと意識の奥底では、この涙には別の理由があると、きちんと気が付いていた。
「二日目の夕暮れ、俺は死体の一つの軍服を調べていた。確か、敵のだったと思う。もう一々考えるのはやめていたから、その辺はうろ覚えだが」
 そう言って、アナトールは深く息を吸った。
 肺が痛んで苦しかったが、エヴァの指先だけは冷たく、心地いい。
「相手は、俺と同じ年くらいの男だった。育ちの良さそうな顔で、眠っているような死に顔だったよ」
 そしてアナトールは、肩で息をしながら、なんとかエヴァから腕を放し、濡れたズボンの内ポケットの中を探りはじめた。
 エヴァは驚き、手伝いたさそうにまごついていたが、アナトールは自分で探し物を取り出すことに成功した。
 出てきたのは、雨に濡れにくいワックス紙の間に挟まれた、一枚の紙きれだった。
 アナトールはそれをエヴァに差し出した。
「読んでみてくれ」
 エヴァの瞳はアナトールを見つめたまま、無言で紙切れを受け取った。
 そして、エヴァがその紙に書かれた文字を読んでいるあいだ、アナトールは地面に落ちた枯れ葉をながめていた。あるいは、土の上に転がっている小石を見つめた。
 要するに、なにかエヴァでないものを見ていなければならなかった。
 エヴァが息を呑むのが、聞こえる。
 アナトールは顔を上げた。
「これは……」
 エヴァの声は震えている。
 無理もない。しかしそれは、彼女がこの手紙をよく覚えていてくれた証拠でもあった。
「これは、あなたの手紙だわ、アナトール……最初にあなたが送ってくれた手紙」
 アナトールはなにも答えず、ただじっとエヴァの姿に魅入った。
 ──あの時、誰がこんな結果になると想像しただろう。アナトールはただ必死だった。魂の奥から飢えた悪魔の群れのように次から次へと湧いてくる罪悪感を、どうにかして追い払いたいばかりだっただけだ。
「一文字、一文字、ぜんぶあなたの言葉と同じよ」
 つぶやきながら、エヴァは紙切れとアナトールを交互に見つめる。「宛名と署名以外は、すべて」
 アナトールはうなづいた。
 今エヴァが持つ紙切れには、始まりに『親愛なるマリーへ』 そして最後にアナトールとは違う男の名前が綴られている。
 誰か、家族がいて、帰りを待つ女性がいた男の名前が。
「胸のポケットから、それを見つけた。そばには写真もあった……それは、遺体と一緒に残してきたが」
 アナトールは顔を歪めながら語った。「最初のうちなにも感じなかった。感傷に浸っている余裕はなかったんだ。しかし、その夜にまた、なぜかこの手紙を読み返したんだ……そうしたら、いても立ってもいられなくなった」

『雨はいつか止む。
 いつか私は君の土地にもどり、この愛のために尽くそう』

 愛? 土地?
 アナトールにはなにもなかった。
 家族もいない。彼の帰りを待つ恋人もいない。帰りたい場所もない。アナトールが死んでも、悲しむものはこの地上に誰一人いなかった。そしてもっと悪いことに、アナトールには、死んで悲しくなるような相手さえ一人としていなかった。
 しかし神は、この罪深きアナトールを選んだ。

「俺はずっと一人だった。母はある金持ちの愛人で、囲われの日陰者で、酒だけが人生の慰みだった。俺が8歳の時にその愛人が──俺の父親が、死んで、一文無しになって路上に投げ出された。流行病で、母はすぐ死だ。俺は生きていくためならなんでもした。墓掘りもした、酒場の用心棒もした、法に触れるようなことも」

 吐き出されるアナトールの独白に、エヴァの目がゆっくりと潤んでいく。
 エヴァの泣き顔を見ることほど今のアナトールに苦しいことはなかったから、アナトールは一旦言葉を止めざるをえなかった。
 しかし、「やめないで」 とエヴァはささやいた。
 アナトールは一度深く息を吸い、続けた。
「エリオット牧場にたどり着く前、俺は賞金目当ての拳闘をしてた。この街まで流れてきたのは、そのせいだ。隣の街で試合があった」
 アナトールは毒で重苦しくなっている頭をなんとか奮い立たせ、当時のことを鮮明に思い出そうとした。

 ふらりと立ち寄った食料品店に張り出されていた、質素な求人の紙。
 アナトールがそれを破り取ったとき、頭の中にあったのはただ、毎晩のように殴り殴られなくてもベッドと食事が与えられるという贅沢のことだけだった。

 エヴァが指で涙を拭いている。
「面接のとき、君を見た」
 本当なら、アナトールは自分の手でエヴァの涙を拭いてあげたかった。人を殴ることばかりだったこの手が、銃を構えるために使っていたこの手が、それ以外のこともできるのだと、彼女に証明したかった。
「でも君は、俺には近寄らず、外で馬の世話をしながら、小さな女の子のようにチラチラと俺とヴィヴィアンの方を見ていた」
 エヴァは恥ずかしそうに微笑んだ。
「そんな君が忘れられなかった。どうしてかは分からない……ただ、どうしても説明しろと言われたら、多分、一目惚れというやつだったんだろう。そんな安っぽい言葉で片付けたくないが……」
 エヴァの瞳が見開かれる。
「あの夜、この手紙を読んでいたとき、どうしようもなく空しくなった。自分がなんのために生き残ったのか分からなかった。なんのために、生きてるのか……」
 エヴァが首を横に振っていた。
 エヴァは、エヴァの、エヴァが。視界がどんどん暗くなってきて、アナトールはエヴァのこと以外考えられなくなってきていた。
「嘘でもいい……俺にも、死んでいった奴らと同じくらい……生きる理由があるんだと思いたかった。そのとき、君の顔が浮かんだ。でも、くそ、俺は君の名前さえ知らなかった。君の姉の名前も。唯一覚えていたのは、苗字だけだ」
 だからの、「親愛なるあなたへ」だった。
 宛名はただ、ミス・エリオットとした。それをどういうわけかエヴァが、ヴィヴィアンへと勘違いしたのだろう。
 返事などまったく期待していなかった。
 しかし数週間後、一通の手紙がアナトールの元へ送られてくる。優しい労りの言葉と、アナトールへの励ましが綴られていた。
 そのときの感動は今でも忘れられない。アナトールは生まれてはじめて、血と死と恐怖にまみれた戦場にいながら、生きる理由を見つけたのだ……。
 誰かのために、生きることを。
「君からの手紙を読んでいる時間だけ、俺は人間に……一人の男になれた。名前なんてどうでもよかったんだ。そもそも俺は、君を思って最初の手紙を送った」
 アナトールは告白を終え、力尽きたようにエヴァの肩に寄りかかった。
 まぶたが鉛のように重くなり、視界が完全に黒くなっていく。アナトールは肩に回されたエヴァの腕の温もりを感じて、ああ、こんなふうに死ぬのも悪くないと思いながら、ゆっくりと意識を手放していった。


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