22. Anatole and Eva

 エヴァはできるだけ今の自分にできることを探そうとした。
 なにも持たずにここにたどり着くはめになっていたから、持っているものはほとんどなにもない。あるのは、エヴァ自身の身体と、いくばくかの知識と、アナトールのズボンの中に入っていたいくつかの小道具だけだった。
 携帯用のスプーンがあったので、エヴァはそれで新鮮な雨水を集めてアナトールの口に運ぶことに何度か成功したが、時が経つにつれそれも難しくなってきた。アナトールが中々飲んでくれなくなったからだ。
 ナイフでえぐられた傷は、アナトールが脱いでエヴァに渡してくれたシャツを破って、止血に使っていた。

 激しい呼吸はいつまでもおさまらず、アナトールの意識は時々朦朧として、視線の焦点が合っていないように見えることもあった。
「行かないでくれと……言っただろう」
 また水を集めようと立ち上がったエヴァを、アナトールはどこか不機嫌そうな声で引き止めた。「一人で死なせないでくれ」
 あまりにも哀れっぽい声で言うので、エヴァは心を鬼にすることができなかった。
「でも……お水は欲しくないの?」
「欲しいのは君だ」
「わたしはここにいるわ、アナトール。なにも心配することはないのよ」
 アナトールは違う、と力なく首を横に振った。
「抱かせてくれ」
 この時のアナトールの瞳は、しっかりとエヴァを見据えていた。いつものように。エヴァを熱くさせる、あの瞳で。
「抱かせて……?」
「抱きしめるだけでいい。それ以上はなにもしない。したくても、できない」
 険しい呼吸の狭間で、アナトールはそう懇願した。
 どうやって断ることができるというのだろう? 世の中には、そういった強硬な意志を持つ女性もいるのかもしれない。しかし残念ながら、エヴァはそういった種類の女性ではなかった。
 愛する男性が、自分を守るために蛇に噛まれ、その毒に苛まれながら側に来てくれと訴えている。
 たとえ相手が上半身裸で、自分が雨に濡れて身体の線を露出する格好をしていたとしても、ノーとは言えなかった。
 エヴァは遠慮気味に、アナトールの隣に座った。
 するとアナトールはよく聞き取れない声でなにかを呟き、怪我をしていない方の腕で、エヴァをぐっと抱き寄せた。そして、エヴァの肩に頭をすり寄せてくる。
 エヴァは身体の芯がとろけるような感覚に洗われ、それに溺れそうになった。
 これは、蛇の毒よ。
 毒のせいなの。
 エヴァはそう自分に言い聞かせた。
 雨に濡れたアナトールの短い漆黒の髪が、エヴァの頬をくすぐる。
 もしこんな状況でなければ、エヴァの心は幸せの踊りを踊っただろう。しかし、実際には、アナトールは危険な状態にある。少なくとも彼自身はそう思っている。
 火が焚けたらよかったのにと、エヴァは思った。
 エヴァは火の粉が舞うのを見つめるのが好きで、そうしていると、他のことをなにも考えないでいることができたのに。

 しばらく二人は溶け合うようにお互いの身体を寄せ合い、互いに相手のことを想いながらも、なにも言えないでいた。
 最初に口を開いたのは、エヴァだった。
「わたしが……手紙を書いていたこと。驚かないのね?」
 アナトールはわずかに首をふってみせた。
「知ってた」
「ヴィヴィアンが言ったの?」
「いや、自分で……気が付いた」
 そして、アナトールは短い笑い声をもらした。「君は、君が思うほど演技はうまくないよ」
 エヴァは諦めたように首をふり、両手で顔をおおって嘆くふりをした。
「ほら、な」
 アナトールの声は優しかった。
 暖かくて、この深い声の持ち主がもうすぐ死んでしまうかもしれないなんて、とても考えられなかった。
「ごめんなさい……アナトール」
 エヴァは心からの謝罪を口にした。
 額に脂汗をにじませながらも、アナトールは微笑む。
「君に言わなければいけないことがある」
 エヴァは顔を上げた。
 真剣な瞳のアナトールと目が合って、二人はかつてなかったほど近くに顔を合わせていた。ごくりと息を呑み、エヴァは小さくうなづいた。


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