14. Vivian's Question

 雲ひとつ見当たらない晴れ渡る夏の青空の下で、アナトール・ワイズが上半身をむき出しにして巨大な鉄鎚(かなづち)を振り下ろしている姿を、ヴィヴィアンは黙って眺めていた。
 空を割るような音とともに、丸太が深く土に埋まっていく。
 一見、アナトールの身体は鉄鎚と一体になっているようにしなやかで、まるで力を入れていないようにさえ見えたが、額や背中に光る汗はかなりの量だった。
 ヴィヴィアンは細身の男性が好みで、男の肉体美を筋肉の量で計るような趣味はなかったが、それでもアナトール・ワイズの身体は素晴らしいほどたくましく、整っていることを認めざるを得なかった。

 アナトールが、ずっと修理が必要だった牧場の柵の修理を始めたのは、二日前だ。
 古くなって傾いた丸太を掘り起こし、垂直に地面に埋め直して、横向きにめぐらせる板を張り直す。想像以上の力仕事で、エリオット姉妹にはずっと頭痛の種だった柵の修繕を、アナトールは驚くべき早さで文句一つ言わずにやってのけていた。
 少なくとも一週間はかかるだろうと思われた修理は、二日目の今日にして、すでに終わりに差し掛かっている。このままいけば、明日の午前中には終わるのではないだろうか。
 テラスの日除け屋根の下に立って、ヴィヴィアンは目を細めた。
 そうだ、アナトール・ワイズはよく働いてくれている。
 しかし、彼がなんの見返りもなしに働いているわけではないのを、ヴィヴィアンはよく分かっていた。
 ほら、
 今も、腕で額の汗を拭っているアナトールの前に、どこからともなくエヴァが現れて、冷えた布を差し出している。
 アナトールは汗だくの男にしては優雅な仕草でそれを受け取り、エヴァに礼を言っているようだった。
 そして、
 自分と血を分けた妹が、十四歳の小娘のように頬を赤らめて喜ぶさまを、ヴィヴィアンは片眉を上げながら見守っていた。なんていうこと。

 その美貌とは裏腹に、ヴィヴィアン・エリオットは胸がときめくような恋愛とはほど遠い存在だった。
 恋愛を軽蔑しているわけでも、ましてやそれを嫌悪しているわけでもない。
 ただ、単純に、異性に狂って熱を上げるような感情を持つことが、全くないだけだった。好みの男性を見れば、ああ、好ましいなと思う程度で、それは綺麗なドレスを見つけたときにいいなと思うのと同列でしかない。
 だから、ヴィヴィアンはアナトールとエヴァのやりとりを、半分は羨ましく、半分は不可解に思いながら、静観することにしていた。
 アナトールの直したばかりの柵の上に小さなツグミが舞い降りると、彼らは二人並んでさも珍しそうにその小鳥の一挙一動を見つめて、肩をつつき合っていた。
 当然、ツグミはすぐに飛び去る。
 すると二人は向き合って一緒に笑い出した。それこそ恋人同士のように、お互いにしか分からないようなことで、楽しみを分かち合っている。
 なんていうことなのかしら。
 ヴィヴィアンはいっそ馬鹿馬鹿しくなってきて、くるりと二人に背を向けて家の中に入った。熱アイロンをかけなければいけない服が山ほどあるし、あの二人は、放っておいても大丈夫そうだった。
 いや、多分、ヴィヴィアンが関わらない方が、ずっと上手くいくのだろう。
 今日までのこの三日間、ヴィヴィアンとアナトールが会話をする機会だって、何度かはあった。アナトールには出来るだけ姉妹の寝室から離れた部屋を用意したとはいえ、一つ屋根の下に住んで食事と仕事を共にしているのだから、当然といえば当然のことだ。
 アナトールはいつも、判で押したように同じ態度だった。
 つまり、適当な礼儀正しさと、当たり障りのない会話……だ。
 曲がりなりにも、ヴィヴィアンを追って大陸を横断してきた男の行動とは考えづらい。そんな中で、ヴィヴィアンの疑いはすぐに確信に近いものに変わっていった。
 この男はすでに気付いているのだ、と。


 テラスの軒先から物音がして、玄関がぱっと開くと、アナトールが家の中に入ってきた。
 ヴィヴィアンは熱アイロンから顔を上げて、背の高いアナトールが入ってくるのをゆっくり上から下へと観察した。よかった、家の中ではシャツを羽織るだけの良識が、この男にはあるようだ。しかし白いシャツは汗でぐっしょりと濡れて、大部分が肌に張り付いている。
 それをヴィヴィアンが指摘する前に、
「こんな格好で、すまない」
 と、アナトールは単調に謝った。「着替えるつもりで入ってきただけなんだ。すぐに仕事に戻るよ」
「別にいいのよ、気にしなくて。なにか飲みたいかしら?」
「いや、必要ないよ。もう飲んだから」
「そう?」
 ええ、そうでしょうとも。エヴァが嬉々としてして作っていた氷入りレモネードは、もちろんこの男の喉を通ったというわけだ。
 ヴィヴィアンはますます値踏みするような目で、アナトールを睨(ね)め付けた。
 エリオット家の屋敷は古典的な造りで、玄関口は幅も広く天井も高いのに、アナトールが立つと急に小さくなったような感じがする。背の高さだけではなく、妙な存在感が、この男にはあるのだ。
 アナトールがエリオット牧場に来てから三日目……。
 まだエヴァは躊躇しているが、ヴィヴィアンにはそろそろ、真実を告げてもいいころのような気がしている。
 とはいえ、一筋縄に説明してやる気はなかった。
 姉として、妹の相手選びには十分気を使わなければならない。
 ヴィヴィアンは、自分が最も魅力的に見える、意味ありげな微笑みを顔に張り付けた。
「アナトール、ご苦労さま……よく働いてくれて、嬉しいわ。あなたは頼りになる人だって、ずっと分かってた」
 アナトールは鳩が豆鉄砲をくらったような、妙な顔をした。
「それはどうも」
「ええ、本当よ。あなたからの手紙には本当に感動したわ。頼もしくて、男らしくて、知的で。ねえ、わたしたち、少し個人的な話をしないかしら?」
 熱アイロンを横にどかし、心持ちかぐっと胸を前に強調しながら、ヴィヴィアンは前に出てアナトールに近づいた。
「二人きりで、二階のあなたの部屋で」
 アナトールは黙って立ったままで、特にヴィヴィアンの胸元に吸い寄せられるようなこともなく、彼女を見下ろしていた。
 大胆にも、ヴィヴィアンはそのままアナトールの汗ばんだ身体に近づいた。土の匂いがする。しかし、ヴィヴィアンの手がアナトールの胸元に触れようとすると、アナトールは彼女の手を素早く握った。
 想像以上の力で、ヴィヴィアンはわずかに眉間に皺をよせる。
「なにがしたいんだ?」
 アナトールの声は相変わらず単調だったが、あまり穏やかではない響きをしていた。まるで挑戦を受けたような気分になって、ヴィヴィアンはキッと目の前の長身の男を見上げる。
「なにがしたいですって? わたしはただ、四年間もわたしに恋文を送り続けてきた男が、どうして妹にすり寄っているのか知りたいだけよ」
 ヴィヴィアンの悪い癖だ。
 どれだけ美しくても、ヴィヴィアンは女優にはなれないだろう。感情を隠したり、本心を偽って演技するということが、彼女には全く出来ないからだ。
 静かに首を横に振りながら、アナトールはヴィヴィアンの手を離した。
「まず第一に、俺はエヴァにすり寄っているつもりはない」
 そして、アナトールは顔を上げた。ヴィヴィアンの肩越しにあるなにかに、じっと視線を定めている。
「……もちろん、彼女のことは好ましく思っている。でも、『すり寄る』 というのとは違う。そして第二に、下らない芝居はしないでくれ、ヴィヴィアン」
 ヴィヴィアンは、アナトールがなにを見ているのか気になって、肩越しに後ろを振り返った。大きなフランス窓から牧場の風景が切り取ったように見渡せて、その真ん中にぽつんと、エヴァが馬の世話をしているのが見える。
「芝居ですって?」
「それを言うなら君だけじゃなくて、エヴァもだけどね。でも彼女については、許すことにしている」
 ぽかんと口を開けたまま、ヴィヴィアンはしばらく黙った。
 アナトールの台詞の意味を考えたのち、ヴィヴィアンはある程度の理解をして、敗北のうめき声を上げた。
「やっぱり知っていたのね。いつから?」
 窓の先のエヴァを見つめたまま、アナトールはいっそヴィヴィアンの質問に対してさほど関心がないような適当な感じで、答えた。
「三日前、最初の夜、『シザーズ』 からの帰り道で」
「エヴァは、あなたが知っていることを知っているの?」
「いいや。今は、まだ」
「どうして言わないの?」
 両腕を胸の前で組み、苛立ちをあらわにしてヴィヴィアンはまくし立てた。
「あの子がまだ黙っているのは、真実を知ったらあなたが怒って牧場(ここ)から去ってしまうと恐れているからなのよ。でも、それは、まったくいらぬ心配のようね。さあ、さっさと妹のところに行って事情を説明して、この茶番を終わりにしてちょうだい」
「君に質問がある、ヴィヴィアン」
 ヴィヴィアンはぐるりと目を回した。「ええ、どうぞ」
「一番初めに俺からの手紙を受けたのは、君か、それともエヴァだったのか知りたい」
 短いため息を一つ吐いて、ヴィヴィアンは両方の拳を腰に当てた。
「エヴァだったと思うわ。というか、わたしだったとしても、覚えていないわ。戦争が始まった当時、わたしは結構な数の手紙を受け取っていたの。最初はどれも少し目を通したけど、返事を書いたりするのはわたしの性分じゃなくて、全部、横にどけていたのよ。その束をエヴァが見て、可哀想だからって返事を書きはじめたわけ。わたしの名前でね」
 ここまで言い切ると、ヴィヴィアンはアナトールの表情が少し変化したのを見て取った。
 相変わらずエヴァの方を見たままだが、明らかに顎のあたりが固くなっている。ヴィヴィアンはなぜか同情のようなものを感じて、続けた。
「『思わせぶりなことは書かないで』って頼んだのよ。実際、そうしていたみたいだわ。半年もした頃にはすっかり誰も手紙をよこさなくなっていたもの。でも、どういうわけか、あなたとだけは続いていたみたいね」
 アナトールがなにも答えないので、ヴィヴィアンはまた苛立たしげに眉をしかめた。
「……わたしにも質問があるわ、アナトール・ワイズ」
「ああ」
 アナトールは短く続けた。「どうぞ」
「あなたは本当にわたしが好きで、手紙を寄越してきたの?」
 単刀直入な質問に、アナトールはやっとヴィヴィアンに視線を戻した。まるで、あなたには目が三つあるの? と質問されたかのように、不思議なものを見る目で黒髪の美女を見下ろしている。
 少なくとも、まともな男が惚れた女を見つめる瞳ではなかった。
「どう思う?」
 アナトールは逆に訊いてきた。
 再び、ヴィヴィアンは目を回してみせる。
「まったくもって、そうは思えないわね」
 正直にヴィヴィアンが答えると、アナトールはまたフランス窓に視線を戻した。それは、意識してそうしているというよりも、身体が勝手にそう動いてしまっている、という感じの動きだった。
 そして、アナトールはぽつりと呟く。
「じゃあ、そうなんだろう」
 彼のエヴァを見つめる瞳は、それこそ、男が惚れた女を見つめる、恍惚とした獣のような眼差しをしていた。


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