07. Some Secrets Behind Us

 アナトールにとって、悪夢はいつも重苦しい騒音から始まった。
 身震いしたくなるような男たちの悲鳴、激しい銃声、鉄と鉄が衝突する鈍い音、爆発音に、時々すすり泣く声や、ひそやかな祈りの声が遠く聞こえてくる。
 彼らはなにに対して祈っていたのだろうと、今になってアナトールは疑問に思う。
 戦場は地獄そのものだった。救いなどどこにもなく、いつだって死神が自分の背後で鎌を振るおうとしているのを感じてきた。

 もちろん、戦争が始まる以前も、アナトールの人生が楽だったことなど全くといっていいほどなかった。しかし戦場は、その彼にさえさらなる地獄を見せた。たんなる肉体の痛みや苦しみや飢えだけでなく、アナトールの存在自身──魂といっていいのかもしれない──を、修復のしようもないほど傷つけた。
 確かに戦争は、根無し草だったアナトールに将校という地位を与え、ある程度の金と将来をもたらしたのは事実だ。だが、それがなんだというのだろう?
 彼の心は渇いていた。
 それは砂漠の大地にも似ていて、いくら潤いと水を与えようとしても、すぐに焼き枯れてしまうのが運命だった。
 それでも、ただ一つだけ。
 いや、ただ一人だけ、その乾きを癒してくれる存在があった。
 ヴィヴィアン……。
 彼女が彼に宛てた手紙を読む時間だけ、そして、彼女に向けて手紙の返事をしたためるその間だけ、アナトールはこの乾きを感じずにすんだ。獣だった自分が、正しい心をもった一人の人間に戻れるような気がした。

 だからアナトールはまだ彼女に真実を告げられない。
 少なくとも、今はまだ。


 古ぼけたハロゲンランプからこぼれる淡い光をたよりに、ヴィヴィアンとエヴァは台所に立って料理を続けていた。献立はあり合わせの野菜を煮込んだスープにパン、そしてニシンの薫製という質素なものだが、エヴァはいつも以上に味付けや出来映えに気を使った。
(だって……今夜はアナトールが)
 今朝早く、突然エリオット牧場に現れたアナトールだったが、長旅の疲れのせいだろうか、部屋に上がってすぐ寝入ってしまってそのまま夕方まで起きなかったので、彼が姉妹としっかり顔を合わせるのはこれが最初になる。
 ついさっきエヴァが石鹸とタオルを持っていったのを機に、アナトールは身支度を始めたようだった。
 時々、湯を使う音が下まで聞こえてくる。
 エヴァはそんな物音一つ一つに、ビクリと反応した。
 怖がっている訳じゃないのに……それどころか、エヴァの心は浮ついた期待に溢れていたけれど、それがなにを意味するのか説明するのは難しかった。
 ヴィヴィアンは目を細めながらそんなエヴァを眺めて、スープ鍋をかき回す手を止めた。
「まるで恋煩いをしてる牛みたいよ、エヴァ」
「え、えっ」
 あわてて我に返ったエヴァは、もう少しで手にしていた皿とカトラリーを落としてしまうところだった。
 なんとか立ち直って食卓に皿を置くと、エヴァは、胡散臭そうにこちらを見ているヴィヴィアンに向き直って、反抗的な視線を投げてみる。
「そこまでひどくないわ。ちょっと考え事をしていただけじゃない」
「ちょっと。考え事を。していた。だけ、ねぇ」
 意味ありげに口の端を上げる美貌の姉に、エヴァは返す言葉を失って顔を赤らめた。
 確かにエヴァ自身、今の自分が妙に浮き足立っているのを、否定できなかったからだ。
 当のアナトールは落ち着いているように見えるし、文通の相手だったことになっているヴィヴィアンは冷めた態度で、まるでエヴァだけが一人踊りをしているようだった。
 こんなお芝居、すぐにばれるわ。
 ヴィヴィアンの目はそう告げていたし、エヴァも心のどこかで、それを理解している。
 ただどうしても、二階にいる彼のことを考えると、エヴァはなにもかも手つかずになった。

『いつか私は君の土地にもどり、この愛の為に尽くそう』

 あの、言葉を。
 自分に向かって言われたわけでもないのに。それどころか、アナトールはきっと姉を思ってこの言葉を綴ったのに、エヴァは常にこの一節を意識していた。
 彼が、こんな情熱的な心を持つ男性だと思い出すだけで、ゾクゾクと身体の芯が震えるような気さえする。
(だめ、だめ。なにを考えているの!)
 エヴァは食卓の上に握りしめた両手をついて、浅ましい自分の考えをどうにか振り払おうとした。
 その時。
 家の奥にある階段から、人が降りてくる気配がした。
 すぐにエヴァはそのままの姿勢で固まって、動けなくなった。そして間もなく、食堂の扉にきちんと白いシャツを着たアナトールが現れた。
 なんとか顔を上げたエヴァは、扉に立ったアナトールを見て思わず息を呑んだ。
 ズボンは薄い茶色の粗い生地で、着古されてはいるが、清潔に洗濯されているようだった。それが彼の彫りの深い顔と、ミステリアスな雰囲気に相まって、目を離せなくなるような魅力を放っている。──少なくともエヴァにはそう見えたし、ヴィヴィアンでさえ、少し驚いているようにみえた。

「こんばんは」
 と、低い落ち着いた声で挨拶をしたのは、アナトールだった。
 声を失ったエヴァにかわり、ヴィヴィアンが短い咳をして、鍋から上げた顔をアナトールのほうに向けて、答えた。
「こんばんは、ミスター・ワイズ。よく眠れたと思っていいのかしら? ちょうど夕食ができたところよ」
 ミスター・ワイズと呼ばれたことに、アナトールは少しだけ片方の眉を上げて違和感のようなものを示してみせた。
 エヴァはまた焦ったが……当のアナトールは特にそれ以上の反応はみせず、そのまま食堂に一歩足を踏み入れた。
「俺も食べさせてもらえると思っていいのかな」
 その声には、わずかなユーモアさえ混ざっているようだった。
 エヴァは思わず、壊れた仕掛け人形のようにコクコクと大袈裟に首をたてに振った。「もちろんよ! ヴィヴィアンのスープは美味しいの。それに、パンも古くないわ。たいしたものじゃないけど量だけは沢山あるから、好きなだけ食べて」
 その時エヴァは、アナトールの視線がずっと最初から彼女について離れないでいるのに、気が付いた。ヴィヴィアンに向かって話している時でさえ、彼はじっとエヴァを見ている。
 エヴァの鼓動は否応なしに早まった。
 アナトールも、エヴァが動揺しているのを分かっているようだった。
 彼は静かに微笑のようなものを目元に浮かべて、そのまま食卓へ向かい、並べられた皿とカトラリーの前に立つ。まったく嫌味のない仕草で、おかしな角度に置かれているスプーンをまっすぐに置き直して、微笑らしきものを浮かべた。
「なにか手伝おうか?」
 驚いたエヴァは、また忙しく首を横に振った。
「いいの! もう出来てるんだから、座って食べて。口に合うといいんだけど……」
 しどろもどろになるエヴァに、ヴィヴィアンは密かに目をぐるりと回すふりをして、鍋の火を消した。
 姉妹はすぐに皿にスープを入れ、質素だが十分に腹を満たしてくれる食事が始まった。

 食事の間中、喋っているのはほとんどエヴァだけという状況だった。
 ヴィヴィアンは冷めた態度を改めようとはせず、観察するようにエヴァとアナトールを交互に眺めては、時々エヴァの話に適当な相づちを打つだけ。
 それに焦ったエヴァが、間を持たせようとますます饒舌になるのだが、アナトールは相変わらず、そんなエヴァをじっと見ているばかりだった。時々、簡単な質問を挟んだりするし、笑い話をすれば一緒に短く笑ってはくれたが、彼が話の中心になることはなく。
 奇妙な空気のまま夕食が終わりに近づいたとき、突然、ヴィヴィアンが芝居がかった声を上げた。
「あら、もうこんな時間ね! わたし、今夜は『シザーズ』 に行かなくちゃいけなかったんだけど、疲れてきたわ!」
「そ、そうなの? 大丈夫?」
 エヴァは不思議に思って尋ねたが、姉は大袈裟な態度で手を振った。
「大丈夫は、大丈夫よ。早くお風呂に入って寝てしまいたいだけだもの。でもねぇ、わたし、ニックに渡さなくちゃいけない手紙があったんだわ」
「ニックに?」
 ニックはシザーズの経営者、兼、バーテンダー、兼、アコーディオン演奏者という町の人気者で、たしかにエヴァとはそれなりに親しい友人同士ではあった。
 しかし、手紙?
 アナトールとエヴァが手紙のやりとりを始めることになった理由こそ、ヴィヴィアンが全くの筆無精だったからで、エヴァは姉が手紙というものをしたためる性格ではないことを知っている。エヴァはすぐになにかおかしいと感じた。
「ヴィヴィアン……」
 アナトールには聞こえないくらいの小さな声で、エヴァは姉に警告を呟いた。
 ヴィヴィアンはそれを鮮やかに無視した。
「ねえ、悪いけどあなた、代わりに渡しにいってくれるかしら?」
 エヴァのほうを向いて、ヴィヴィアンは尋ねた。途端に対際に座っていたアナトールが厳しい表情になって、片方の眉を上げる。「そのシザーズというのはどこに?」
「町のメインストリートの端っこよ」
 ヴィヴィアンが答える。
「もう外は暗くなっている」
 と、アナトールは指摘した。「俺が行こう」
「でも、どこにあるかまだ分からないでしょう。それにニックのことも知らないし」
「誰かに訊けばすぐ分かるよ」
「でも、ニックの方が、あなたのことを知らないわ」
 短い押し問答の後に、ヴィヴィアンは芝居がかった仕草で『ひらめいて』 みせた。「そうよ! あなたとエヴァが一緒に行ってくれればいいんだわ。あそこなら、町の半分の人間と知り合いになれるわよ。ついでに少し楽しんできたらどう?」
 ヴィヴィアンは美しい黒の瞳をエヴァに向けてウィンクして、素早く席を立ち、そのまま二階に消える。
 あまりに見え見えで穴だらけの姉の計画に、エヴァは唖然としてぽかんと口を開けた。こんなの、アナトールに呆れられるだけ……。
 しかし。
 空になったヴィヴィアンの席をちらりと眺めたあと、アナトールはまたあの、不思議なほど真剣な瞳をエヴァに戻した。
 エヴァの鼓動は早まって、食べたばかりの胃がきゅっと締まって痛いくらいだった。
 どうして?
 どうしてこの人は、わたしをそんな目で見るの?

 膝元に置かれていたナプキンで口を拭ったアナトールは、立ち上がると食器を台所のシンクまで自分で持っていった。本当なら、そんなことはしなくていいと止めるところだが、狼狽したエヴァはただアナトールの姿を見ていることしかできなかった。
 アナトールは台所から振り向き、まだ食卓に座っているエヴァを見下ろす。
 こうして見ると、アナトールはさらに背が高く、逞しくみえた。
「じゃあ、行こうか」
 アナトールは言った。
 答えにつまっていると、二階に上ったヴィヴィアンが忙しく降りてきて、エヴァに折り畳まれた紙切れを手渡す。
 表面には大きく、いかにも雑な字で、『ニックへ』 と綴られていた。エヴァは急いでスカートのポケットにその手紙をねじ込んだ。
 ──アナトールに見られたら一瞬で見破られてしまうほど、筆跡が違うのだ。
「じゃあ、よろしくね」
 にっこりと微笑んで、ヴィヴィアンはまた素早く二階に逃げた。

 ヴィヴィアンの微笑みに対抗できる人間は少ないだろう。姉妹であるエヴァでさえ、姉の魅惑的な瞳にはなかなか抵抗できないのだから。
 エヴァは恐る恐るアナトールに視線を戻したが、彼はまた何事もなかったように、エヴァをじっと見下ろしている。
「じゃあ、今度こそ行こうか」
 淡いハロゲンランプに後ろから照らされたアナトールは、そう言ってエヴァの反応を待っている。
 エヴァはうなづくことしか出来なかった。
 

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