06. Shadow of war

 その日の夕方、橙色に染まった太陽がゆっくりと西にその姿を沈めようとしているころ、エヴァは早鐘のように打つ鼓動をどうすることもできずに、二階の扉の前に立っていた。
 手には清潔なタオルと石鹸がある。しかし、指先が小刻みに震えそうになるので、落とさないように気をつけなければならなかった。
 ──さあ、勇気を出して扉を叩くのよ。
 エヴァは何度となく自分に言い聞かせてみたが、実際にそれを行動へ移せるほどの度胸を奮い立たせるのは、ひじょうに難しかった。
 アナトールがこの部屋に引っ込んでから、もうだいぶ時間が経つ。そろそろ彼も目を覚まして、食事か、そうでなければ湯を使いたくなるはずの頃合いだ。そう気をもんでみたはいいものの、それをこうして確認するのは、ひどく勇気のいる行為だった。
 優に五分は小さな扉の前で立ち往生したあと、エヴァの心は諦めに傾いていた。
 もし何か必要になれば、彼の方から下階に降りてくるはず……。もしかしたら本当に疲れきっていて、まだ眠っているのかも。それを起こすのは気の毒だわ……。
 悩んでいる間にも、夕方の空はだんだんと薄暗くなってきて、淡い紫色のような物悲しい色が廊下の窓から差し込んでくる。
 もう家の明かりをともさなくてはならない時間だ。
 そう、都合のいい言い訳ができたことで、エヴァの心は少しだけ軽くなった。手にしていたタオルと石鹸を扉の前の床にきちんと整えて置くと、できるだけ足音を立てないでそのまま下階へ戻ろうとした──その時。
 エヴァが扉に背を向けた瞬間、まるでそれを待っていたように、内側からかちりと音を立てて扉が動いた。
 エヴァは弾かれたように振り返って、扉を見上げた。
 中から出てきたのは、白いシャツに軍服のズボンという出で立ちのアナトールだった。目の前に立ったアナトールは、外で対峙した時よりさらに背が高く感じられて、エヴァは反射的に背をそって顔を上げた。
 浅黒く日焼けした端正な顔が、真剣な眼差しでエヴァを見下ろしている。
 その視線には間違いなく男性的な色気があって、たいていの女性なら魅力を感じるものだろうに、エヴァは一瞬、このまま彼に飲み込まれてしまうのではないかというような気がして、立ちすくんだ。
 そのくらい、彼の瞳には力があった。なにかを吸い込んでしまいそうな力が。
「なにか用事でも?」
 と言った彼の口調は、その強い視線とは裏腹に穏やかなものだった。「俺の勘が間違っていなければ、君はずっとここに立って入る機会をうかがっていた。俺も、いつ君が入ってくるのだろうかと待っていた。清潔なタオルと石鹸を持って、ね」
 エヴァは赤面して、床に置いたタオルを急いで拾い、アナトールの胸に押し付けた。
「あなたを起こしてしまうんじゃないかと思ったの」
「無用の心配だよ」
 アナトールはタオルを受け取ったが、視線はエヴァから一寸たりとも動かさない。そして、どこか投げやりな、皮肉を含んだ口調で続けた。
「最後に、人のいる気配が近づいてきても眠り続けていられたのは、ずいぶん前のことだから」
 エヴァの心はすぐに痛んだ。アナトールのために。彼は戦争の話をしているのだ。あの無慈悲な世界で、彼に安らかな眠りなど許されなかったということを。
「あの……気が利かなくてごめんなさい。でも、ほかに必要な物があったら言ってちょうだい。お湯も必要ならすぐに用意できるわ」
「そうしてもらえると助かる。それから、謝る必要はないよ」
「え、ええ……」
 たったこれだけの短い会話しかしていないにもかかわらず、エヴァの心臓は何十マイルも走り続けた後のようにバクバクと音を立てた。
 このまま彼の前に立っていたのでは、すぐに醜態を演じてしまいそうだ。気を失うとか、あせって要りもしないことを喋ってしまったりとか。後者の方が怪しい。
 落ち着くため大きく息を吸ったエヴァは、少し不自然なくらいの早さでくるりとアナトールに背を向けると、早足で廊下を歩き出した。
 いや、歩き出そうとした。
「待ってくれ」
 アナトールの腕が、エヴァの手首をつかんで止めた。それほど強い力ではなかったはずなのに、エヴァは、自分の意志に反して、彼の引力に引き寄せられるように振り向いた。すぐ目の前にアナトールの真摯な瞳がある。
 こんな瞳を見たことがある気がする、とエヴァは一瞬、思い浮かべた。
 狼だ。
 冬になる少し前、毎年、エリオット牧場の周辺に現れてはこちらをじっとうかがっている、鋭い瞳の狼たち。こちらから何かを欲しがっているのに、それを口に出したりはしない。ただ静かに、乾いた切望をもって、じっとこちらを見つめている瞳。あれだ。
 瞳以外にも、アナトールには気高い狼を彷彿とさせる雰囲気があった。
「なに……かしら」
 と、わずかに震える声でエヴァは尋ねた。
 アナトールはといえば、怯えたような態度をとったエヴァに、少なからず傷ついたような顔を見せた。一瞬ではあったが、彼の漆黒の瞳がかげりを帯びて、ほんの少し細められる。
「もし」アナトールは今までより低い声で、ゆっくり話しはじめた。「俺の態度や物言いが粗野に感じたら、言ってくれないか。まだよく分からないんだ……その、加減が」
 エヴァは目を瞬いて、アナトールの台詞を反芻した。「加減?」
 アナトールは少しだけ肩をすくめて、仕方なさそうに説明を続けた。
「まだ、普通の生活に戻れるだけの準備ができているか分からない。もちろん、いきなり芝に隠れたり穴を掘り出したりはしないつもりだ。ただ、かなり長い間、荒っぽい言葉遣いしか聞いてこなかったんで」
 ここまで言って、アナトールはエヴァの反応をうかがうようにわずかに首を傾げた。
 なぜか、エヴァはその仕草にドキリとして、ほんのりと頬を染めた。
「……君たち姉妹を怖がらせてしまうような物言いをするかもしれない」
 エヴァは一瞬だけ彼の言葉の意味を考え込んで黙ったが──すぐに思い当たると、まっすぐアナトールに向き合って、ほがらかな笑顔さえ浮かべて見せた。
「ご心配なく、アナトール・ワイズ。これでも私たちは女二人で牧場を切り盛りしてきたのよ。軍隊のようにとまではいわなくても、牧場経営は男の世界なの。荒っぽい言葉遣いや態度には慣れたものよ。私も、ヴィヴィアンも」
 アナトールは、納得していいのかどうか決めかねるように、少しだけ片眉をつり上げてみせた。そんな仕草もまた、どうしようもなくエヴァの鼓動を早めさせるものだった。

 ああ。
 エヴァは、アナトールのことを知っているつもりでいた。
 繰り返される手紙のやりとりの中で、二人は幾度となくお互いのことを語った。
 彼がどんな人であるのか、どんな考え方をするのか。よく覚えてさえいなかった容姿でさえ、まるで実際にすぐそばで観察してきたかのように、明快なイメージを描くことができた。なんと愚かだったんだろう。
 実際に見るアナトールは、エヴァの想像の中の男性とはまるで違う。
 彼からは、干し草のような、乾いた大地の香りがする。瞳の色は濃い茶色で、深く煎ったコーヒー豆のようだった。光の加減で漆黒にも見えるし、やはり濃い茶色に戻って見えることもある。
 彼の声は低くて、落ち着いていたが、どこかざらついた荒っぽさがある。
 こんなふうに彼を目の前にして、やっと、エヴァは彼のことを本当はなにも知らないんだということを理解していった。夢と現実。空想は、実際のところとは少し違った。
 実際のアナトールは、手紙の中の彼よりもずっと若い感じがする。そして、男っぽい。
 エヴァは、痛いくらい高まる鼓動を落ち着かせたくて、ぎゅっと手を結んだ。
 ──だって、彼はヴィヴィアンのものなのに。
 少なくとも今はまだ、アナトールは手紙のやりとりの相手はヴィヴィアンだと信じている、はず。自分はただの想い人の妹なのだ。
 そうでなくてはならない。

 しばらく考えるように黙ったあと、アナトールは片手を腰に当てて小さく頭を振った。
「じゃあ、そういうことにしようか。俺は出来るだけ人間らしく振る舞うように努力しよう。君たちは、俺のことは猟犬かなにかだと思っていてくれればいいから」
 そう言ったアナトールの声には、わずかながらも楽しげな響きがあった。
 なぜか急に嬉しくなって、エヴァは微笑みながら答えた。
「でもね、エリオット家で犬ほど大事にされるものはないのよ、アナトール・ワイズ。わたしもヴィヴィアンも大好きなの。でも、馬が嫌がることがあるから大きいのは飼えなくて。街に一匹、私たちが面倒を見ている犬がいるんだけど、その子も大きすぎて牧場では飼えなかったの。名前は……」
「グレイ・パウダー。灰色の粉をふりかけられたような色をした、大型犬の雑種」
 と、アナトールが即答したので、エヴァはつい、声を出して笑ってしまった。
 そうだ。
 彼は少なくないことを知っている。エヴァが彼に書いたのだから。他にも沢山の話を、互いに手紙の中で踊らせた。あの言葉やあの話の数々が、暗くて苦労続きだった戦争中のエヴァの心をどれだけ潤したか。
 しかしエヴァとアナトールは今、その喜びを分かち合うことはできない。エヴァはうつむいて床を見つめながら、小さな声で呟くように言った。
「ヴィヴィアンが……姉が、あなたに教えたのね?」
 ひどい嘘をついているような気がして、エヴァは後ろめたい気分を味わった。
 どうしても、今、まっすぐアナトールを見ることができない。どれだけ悪気がなかったといっても、エヴァは別人の名義で彼に手紙を送り続け……戦争帰りの彼に、大陸を横断させるような旅をさせてしまったのだ。
 彼は誠実な人柄だから──少なくとも、手紙の中ではそうだったし、彼を目の前にした今もその思いは変わらない──4年間も手紙の中でお互いを励まし合った相手を、そう簡単に見放したりはできないのだ。
 そう、
「君の姉上は、少なからず後悔していたようだけどね」
「ち、違うの! 姉を誤解しないで……彼女は、その、少し戸惑っているだけなの。4年間も経つと、いろいろ変わるでしょう? 手紙と現実の違いにたじろいでいるのよ」
 慌てて言い訳じみたこと口走りながら、エヴァは顔を上げた。
 すぐに真剣な顔をしたアナトールの瞳にとらえられて、エヴァは少なからず狼狽した。
 まるで彼の視線には人を惑わす魔法があるようだ。それは、これから彼に嘘をつかなくてはならないエヴァには大きな障害だった。
「ヴィヴィアンは確かにあんなことを言ったけど、本当はあなたとの手紙のやり取りをとても大切にしていたわ。お願いだから、誤解しないで」
 誤解、という言葉の持つ意味を、エヴァは重く感じた。
 しかし、今ここでエヴァが真実を話したら、多分アナトールはこのままエリオット牧場を去ってしまうだろう……。『ねぇ、実は手紙を書いていたのはこのわたしなの。わたしがヴィヴィアンのふりをしていたのよ。彼女はつい数日前までなにも知らなくて、あなたのこともほとんど覚えてもいなかったわ』? 間違いなく、彼とはもう二度と会えまい。
 恐る恐る、エヴァはアナトールの反応を待った。
 しばらくの間、彼の反応は無反応という反応だった。ただ、今朝、牧場でそうだったように、じっとエヴァのことを見つめている。
「そういうことに、しておこうか」
 結局、アナトールは落ち着いた平淡な声でそう答えた。
 その口調からして、エヴァの言ったことを完全には信用していないのは、明らかだったけれど。  

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