9.

「それで、構わないね……?」
 マティアスはシャルロットの顔をのぞき込み、そう、確認するように聞いてきた。
 その声は優しく、口調は気遣いに満ちていたが、シャルロットの心臓はそれに反して、ありえないほど強く脈打ち始めるのだった。
 来週の週末。
 ――そう、はっきり境界線を引かれてはじめて、シャルロットは急速に現実を理解していった。自分とマティアスは結婚する。そこに他人の入り込む余地はない、と。
 シャルロットは、彼がシャルロットに全てを捧げてくれるのと同じように、彼に全てを捧げるようになり、二人が夫婦となった暁には、ヴォルフにさえ許したことのなかった肌を、彼に許すことになるのだろう。
 ぼんやりとしていた結婚の二文字が、突然、生き生きと色や形を持ち、シャルロットの目の前に立ち塞がってくるようだった。
「あ……の」
「どうしたんだい?」
「い、いいえ、なんだか急で……驚いてしまって」
 自分の手が小刻みに震えているのに、シャルロットは気が付いた。
「――そんなに急だったかな」
 マティアスもそれに気付いたのだろうか、そう言って、シャルロットを安心させるための笑顔を見せた。しかしそれも、鋭いトゲのように、ちくりとシャルロットの胸に刺さるのだった。
 いけない。
 これは、いけないこと。
「大丈夫、よ」
 シャルロットは言いながら、両手を組んでぎゅっと握っていた。
「大丈夫……ええ、それがいいわ。早くにしたいと頼んだのは私だもの。晴れるといいわ、ね」
 窓からのぞく空模様は、冬を感じさせる灰色だった。この季節、この地で、晴天というものはあまり与れない。晴れたらいいという言葉は、精々、雨に降られなければいいという程度の意味であった。
 北風が外の木々をゆらし、鬱陶しい音を立てる。――ざわざわ、と。
 シャルロットは独り言のように繰り返した。
「早く……早く、に」
 すると、その時、マティアスの片手が伸びてきて、きつく握られたシャルロットの両手に重ねられる。
「シャルロット」
 普段より低く抑えられたマティアスの声。
 シャルロットはすぐに彼を見つめ返した。優しいアーモンド形の彼の瞳は、シャルロットの黒目がちなそれを捉えながら、僅かに揺らめいている。
 そう、
「マティアス……」
 ヴォルフの帰還に動揺しているのは、シャルロット一人ではないのだ。

 

 次の日。
 シャルロットが仕事場に入るなり、工房の奥にいた婆やが、神妙な面持ちでこちらを凝視していた。
 ――まるで憑(つ)かれたような形相である。そうでなければ、何かひどく思い詰めている顔だった。皺だらけの老婆の顔はいつも表情を読みづらかったが、彼女のにごった 瞳だけは、よく主張をするのだ。
「どうしたの、婆や?」
 シャルロットは荷物を机の上に置いて、工房の奥へ入っていった。
 すると、老婆は椅子から立ち上がる。腰が曲がっているため、立ち上がっても高さはあまり変わらないのだけれど。
「奴が、来たよ」
 老婆は唐突に言った。
「え?」
「まだ日も上がっていない明け方にね、ここへ来て、お前さんの結婚について聞くんだ。今朝のことさ」
 そう言って、老婆は、窓の方へのろのろと歩いていった。もう午前の光が差し込んでいて、窓辺に辿り着いた老婆の白髪を淡く照らしだしている。
 老婆はそっとカーテンに手を伸ばして、外の様子を見ていた。
「……奴……」
「言わなくても分かるだろうよ、あの"狼" さ」
「婆や!」
「お前さんがはっきりしないからだよ! お前さんの迷いは奴にも伝わるんだ。だから来るんだよ。だから……あんな風に……」
 シャルロットを振り返った老婆は、ひどい顔色をしていた。もとから青白かったものが、興奮のせいでさらに青白さを増して、まるで土の中から蘇った死人のような色になっている。
 びくりとしたシャルロットは、つい、返すべき言葉を見失っていた。
 普段はまったく声を荒げることもなく、蝋人形のように表情を崩さない飄々とした老婆を――ヴォルフという一人の来訪者が、たったそれだけのことが、豹変させたのだ。
 老婆の手はわなわなと震えてさえいた。
「奴は、凍えついたような紫の顔色をしていたよ……それでいて瞳だけは赤くぎらついていて、まるでこの世の者ではなかった。朝から立派な黒の外套を羽織って、ここの扉を、壊さんばかりに叩きくさってね……」
 そう言って、老婆は扉の方を恨めしそうに見やった。
「そうして無理に中へ入ってきたかと思うと、挨拶もなしに詰め寄ってきた……そして聞くんだ、お前さんが週末に結婚するというのは本当か、と」
「…………」
「私はね、週末かどうかは知らないが、近いうちにそうなるのは確かだと言ってやったよ」
 狭い工房に、しばしの重い沈黙が流れた。
 老婆はその先を語ろうとしなかったし、シャルロットも、聞くことが出来なかった。話の続きを――シャルロットは恐れた。
 牧師に了解をもらってあるとマティアスが言っていたから、それがヴォルフの耳に入ったのだとしても、不思議ではない。ここで、マティアスにでも、シャルロットにでもなく、この老婆に真相を確かめに来るというのも、彼らしかった。それは決して、彼が臆病だからとか、狡猾だからという意味ではなく、彼独特の野生的な勘のようなものからくる行動なのだ。
 シャルロットは彼を知っている。
 ヴォルフを。知りすぎている、だから、怖い。
「あれは嫌な男だね」
 老婆はぽつりと言った。
 ――何を意味しているのか、シャルロットにも何となく分かっている。
 ヴォルフのことを老婆と同じように思う街人が多い理由も、シャルロットは何となく分かっていた。この小さい集落で生きていく為に必要なものが、ヴォルフにはひどく欠けているのだ。妥協、というものが。彼はこれが出来ない。
 高潔すぎる、と言い換えることもできるだろうか。
「……婆やが、怪我するようなことは、何もなかったのよね?」
 ありえないことではあるが、シャルロットは念のため、老婆に聞いた。老婆はまだ興奮気味の荒い鼻息と共に、「まさか」 と短く答えると、首を振り振り、長い溜息を洩らしながら言った。
「言っただろう、あれは"狼" さ。無駄な狩りはしない」
 シャルロットは無言でそれを聞いていた。
「けど、必要とあれば――飢えていれば、容赦なく獲物を狩るんだ。生き延びるためなら、奴はそれが出来るんだよ」

 その日、それからどんな仕事をしたのか、シャルロットはあまり覚えていない。
 空虚で、シャルロットが針を動かしていたというよりは、針がシャルロットを動かしていたというような感じだった。ただそれが慣れた作業だったから、無事に終わらすことが出来ただけだ。
 時々外から物音が聞こえると、シャルロットは訳もなく怯えた。
 強い風が吹き付けて窓枠を震わせると、無性に怖くなって、背筋をぴんと伸ばして周囲を見回した。
(今日も――)
 狭い工房の中では、淡い光を頼りにしながら、老婆ともう一人のお針子が黙々と仕事をしている。
 こんな"日常" が、ひどく遠い。
(今日も、彼は来るのかしら。私を追って)
 思考はあまりに頼りなく、何の答えも与えてくれなかったし、想像は臆病で、シャルロットを怖がらせるだけだった。
 そう――シャルロットは生まれて初めて、ヴォルフに恐怖を感じていたのだった。
 ただしその恐怖は、人々が推測するようなものではなく、これからヴォルフを傷付けることで、自分も傷付くのだという……ひどく間接的な痛みに対する恐怖だった。彼の痛みは、シャルロットの痛みになる。
 今感じている恐怖も、もしかしたらヴォルフのそれが、シャルロットに乗り移っているものかもしれなかった。
 ――それでもやはり、シャルロットはマティアスを裏切れない。
 マティアスへの愛も、形は違えど、間違いなく本物なのだ。

 

 しかしその夕方の仕事帰り、シャルロットを呼び止めたのは、ヴォルフではなくマティアスの方だった。
「家まで送るよ」
 そう言って現れた茶色の髪の好青年は、いつも通りの優しい笑顔でシャルロットを迎え、普段と変わらない明るい調子で一日の出来事を語りながら、短い帰路の共を務めてくれた。
 シャルロットも努めて明るく振舞おうとしたが、あまり成功はしない。
 時々、会話の途中でうわの空になるシャルロットを、しかし、マティアスは全く咎(とが)めなかったし、ますます気を使って面白可笑しい話をしようとしてくれるのだった。
 そうして建物の前まで辿り着いたとき、シャルロットは足を止めて隣のマティアスを見上げた。
「――マティアス?」
 マティアスも足を止める。
「うん?」
 灰色の空の下、赤レンガの建物が、妙にくすんで見えた。街人が数人、せわしく通りを行きかう。
 ――ヴォルフは何処にいるのだろう。
 マティアスを目の前にしているというのに、シャルロットは心の奥でそればかりを思っていた。彼は何処にいるのだろう。私達を、今、見ているのだろうか。
(駄目よ……駄目なの。終わらせなくちゃいけない)
 向き合った二人は、しばし、扉の前で見つめ合いはじめた。
 マティアスも何かを恐れているのだろうか――今日の彼は、シャルロットに触れない。
「送ってくれてありがとう、マティアス。楽しかったわ」
「それならよかった。まぁ、妻となる女性を守るのも、夫となる者の務めだよ」
「そうね」
 ふふ、と小さな笑い声を洩らしながら、シャルロットは答えた。
 こんな僅かなシャルロットの一喜一憂にも、マティアスは気を使っていてくれている。安心したように目元を緩めると、優しく微笑むマティアス。
 こんな時ばかりは、シャルロットの中のヴォルフも、ふっと軽くなるのだ。
「明日も……明日も迎えに来てくれるかしら? ううん、明日だけではなくて、結婚する日までずっと」
 そう、シャルロットが願い出ると、マティアスは何のためらいも疑問も挟まず、即座にうなづいて見せた。
「分かった。必要なら夜も見張ろう。もちろん、君の部屋には入らないようにするから」
「それは少し大袈裟よ? マティアス」
「いいや、この1週間だけだ。結婚したら、僕達は一緒に住むんだから、それまでは」
 マティアスは真っ直ぐにシャルロットを見据えている。
 それは、もしかしたら、シャルロットが初めて見た、マティアスの厳しい表情だったのかもしれない。小さく緊張が弾けるのを感じて、シャルロットはきゅっと唇を結んだ。この穏やかな青年もまた、時に"狼" になることが出来るのだ――。愛する者を守るためなら。
「夜は……無理はしないで」
「無理じゃないよ。僕は、僕の安眠のために君を守るんだから」
 マティアスはそう答えた。

  それから結婚までの1週間、マティアスは昼と夜と、文字通り、シャルロットの盾となって彼女を警護していた。
 夜はシャルロットの部屋の扉の前に椅子を置き、そこで眠るという徹底振りだ。しかし予想に反して、この期間、ヴォルフが彼ら2人の前に現れることはなかった。
(どうして……)
 しかし、その沈黙こそが――真の狼の、狩りの前兆なのだと。
 2人共が感じていた。
 それを口にすることは、出来なかったけれど。

 

 濃い赤レンガで固められた暖炉に、めらめらと揺らめく炎を見つめる、一つの漆黒の瞳があった。
 人はそれを、美しい、と表現することができるだろう。
 それほど端正な顔を、彼は持っていた。精悍な、長く引いた眉と、その下に深く彫られた目元、程好くせり出した頬骨、口元から顎にかけての整った造形……。しかし彼の片目は、醜く、恐ろしい傷跡で潰されている。
 彼は、赤く揺らめく炎を通じ、覚めながらの夢を見ていた。
 幸せだったころ。
 彼女の声、彼女の瞳、彼女の首筋、彼女の唇、彼女の微笑み……。その全てが、彼の傍にあったころ。
「シャリー……」
 うなるような低い声が、シャルロットの名を呼んだ。
 それは真夜中だった。マティアスとシャルロットの、結婚前夜のことだった。

 

Back/Index/Next

Material by The Inspiration Gallery
inserted by FC2 system