7.

 それから赤い街はヴォルフの話題で持ちきりになった。
 突然改装された大きな豪邸、顔の傷、謎の2年間……ただ見栄が美しいことだけで知られていた無口な孤児の男が、今や赤い街の中心といってもいい存在となったのだ。小さな集落に、この種の話題が広まるのはすぐだった。
「一体何をしてきたのかね。あれは娼婦の子だよ、まともな方法で身を立てられる筈がない」
 しかし感嘆が上がったのは一瞬だけで、街の者たちはすぐヴォルフに白い目を向け始めた。嫉妬もその理由の内であっただろう。ヴォルフ自身が人前に出ず、沈黙を押し通していたのも原因の一つかもしれない。
 とにかく赤い街の外れにぽつりと建つヴォルフの邸宅は、美しくも孤独で、まるでヴォルフ自身を体現しているようでもあった。

 ――あれから二日が経った。
 シャルロットはヴォルフの豪邸を後にしてから、彼に会っていない。
 街に出るとシャルロットは嫌でも人々の噂を耳にした。いつの間にか、ヴォルフがあの新しい館の主人だということが知れ渡っている。そしてその噂とは、大抵はあまり快くないものなのだ。
 孤児だった男。
 それ以前にも、ヴォルフは街の人間の間ではあまり良くない印象が少なからずあったらしかった。ヴォルフは静寂を愛したから、孤独であることが多く、街の人間とも必要最低限以上は交わらなかったし、友と呼べる者もいない。その無口さが、彼は唖なのだろうとか、頭が弱いのではないかなどという心無い醜聞をよく生んだのだ。
 ヴォルフ自身は、そんな噂を気にすることはなかった。シャルロットも同様だ。
 ――そして多分、今も。

 

 揺れる心を映すように、手元があやふやになる。
 今朝仕事をし始めた時から、いつかやってしまうのではないかと予想していたことが現実になった。
「痛……っ」
 つ、と指先から溢れる赤い血。
 最初は小さな点のみだった赤は、すぐに広がり、指から滴り落ちていく。そして不運なことに、作業中だった布は白い。慌てて手を引いたときにはもう遅く、白い布にシャルロットの赤い血の跡が点として残っていた。
「何をやっているんだい、シャルロット!」
 老婆が声を上げた。
 裁縫していた布を傍の机に放り出して、シャルロットの左手を掴んで引き寄せてみる。
「少し考えごとをしていたの。ごめんなさい」
「そんな事は言われなくても分かっているよ。一昨日からずっとそんな調子だ」
 怪我は大したことがないと分かると、今度は老婆は白い布の方に目を向けた。小さな赤い染みがまっさらな生地に浮かんでいる。たった一点であるというのに、それが妙に強く目を引く。
「すぐに外の水桶で洗ってきな。寒いだろうけど我慢おし」
 と言った老婆に、シャルロットは逆らわなかった。
 汚してしまった布を掴んで、怪我をした指を唇で軽くしゃぶりながら外へ出ていく。戸を開くと途端に風が吹き付けてきて、容赦なく顔に当たった。
 シャルロットはまず玄関の横に置かれていた水桶をの蓋を開け、そこに手を入れて、怪我をした箇所を撫でた。針でかすってしまっただけのようで、出血はすぐに止まり、痛みも治まった。
 血が止まったのを見ると、シャルロットは次に布の、赤い染みが付いてしまった部分を水で濡らして、こすった。いくら付いたばかりとはいえ、血の跡はそうすぐには消えない。こすったり、絞ったりを何回か繰り返してやっと、目立たない程度に染みを落とすことができた。
「……ふぅ」
 シャルロットは布を広げて確認をしてみた。もう目立ちはしないが……よく見れば気付く者もいるだろうか。
 白い布に浮いた、赤い染み。
(……嫌だ)
 その時、シャルロットはあることに気が付いて息を呑んだ。
 まるでこれが、シャルロットの心の中を映しているように思えたのだ。
 純粋だったマティアスへの思い――白。ヴォルフへの未練がなかった訳ではないが、マティアスを愛しく思う気持ちに偽りはなかったし、結婚が決まってからは彼を未来の夫として深く愛していた。
 そこに再び現れた、ヴォルフ――赤。
 たった一時だけの再会だったというのに。
 たった一滴だけだというのに、白を汚して全てを支配する。
 そして、どれだけ洗い落とそうとしても、完全には消えきらないこの強い色。
 シャルロットはいたずらに鼓動がはやるのを感じて、もう一度だけ布を洗って絞りなおすと、急いで水桶に蓋を戻して立ち上がった。

 布を洗い終え、シャルロットが扉の中に戻ろうとした時、急に後ろから声が掛かった。
「おはよう、シャルロット」
 心地いい青年の声。温かい口調。
 シャルロットが振り返ると、正面のボタンを外した外套姿のマティアスが立ってこちらを向いていた。外套の中にまとっているのは、白いシャツに焦げ茶のズボン。靴は野良仕事用のもののようで、いくらか粗野な格好であるのに、全体を見るとなぜか上品な印象になる。
「マティアス……嫌だわ、いつからいたの?」
「たった今通りかかったところだよ。中に入って挨拶をしようと思っていたら、君が水桶の前にうずくまっていたわけだ」
「少し布を汚してしまったの。中に入るかしら?」
「いや、急ぎの仕事があるんだ。君を一目でも見たかっただけで、もう叶ったから」
 マティアスはそう言って、優しげに微笑んだ。
 アーモンドのような柔和な曲線を描いて細められるマティアスの瞳は、冷えていたシャルロットの心をほんのりと温める。
 ――マティアス。あぁ……
 愛しいのだ。確かにシャルロットはマティアスを愛している。
 何より二人は婚約した。
 彼はもうヴォルフのことを知っているだろう。知っていたとしても、マティアス自らがシャルロットに問い質すことはない。それがマティアスの、マティアスだけが持つ、特別な優しさであり――シャルロットが彼に惹かれ始めたのも、まさその優しさだったのだ。
 シャルロットは洗ったばかりの布を強く手のひらに握り締めた。
 心の中では沢山の想いが交差して、不安定に揺れてばかりいる。しかし一つだけ確かなことがある。ヴォルフの事は、忘れなければならない。
「マティアス、実は……私達の結婚のことなのだけど……」
 シャルロットがそう切り出すと、マティアスの表情が硬くなるのが、シャルロットに真っ直ぐに伝わってきた。
 やはり、彼は知っているのだろう。
 シャルロットはゆっくりと言葉を続けた。
「アルベルト様の……貴方のお父様の仰ることも、もっともだと思うの」
「父の?」
「そう。結婚は春まで待とうって……でも、本当に待つ必要があるのかしらって、急にそんな風に思えてきたの」
 マティアスはそれを聞いて、一瞬、拍子抜けしたような、憑き物が取れたような、妙な顔をした。そして、夢ではないのかと確かめているような表情で、まじまじとシャルロットを見つめる。
「……本当に?」
「え、ええ……可笑しいかしら」
「いや。可笑しいということは……」
 と、まで言って、マティアスは急に短い笑い声を噴き出した。
 そして今度こそ晴れやかに表情を崩し、太陽の様な笑顔を見せるマティアスに、シャルロットは少し気恥ずかしささえ感じて、頬を赤く染めた。
「本当かい? その、結婚を早めてもいいという意味だと思っていいのかな?」
「そうよ……その、笑わないで!」
「まさか、笑ってなどいないよ。いや……ハハハ!」
「マティアスっ」
 シャルロットは両手をぴんと下に伸ばして抗議の声を上げる。逆にマティアスはますます楽しそうに……いや、幸せそうに、笑い続けた。
 そこに丁度、街の者が一人傍を通った。
 マティアスも流石に声を抑えて、通行人をやり過す。やがてその者が通りすぎるとまた、今度はいくらか小さな声で笑った。シャルロットはむくれる。
「ごめん、ごめんよ。怒らないで。可愛いシャルロット」
 拗ねて、上目遣いでマティアスを見てくるシャルロットに、穏やかな貴族の次男坊は優しく声をかけ、片手を彼女の頬にあてた。
「嬉しかったんだ。だからつい。君は本当に可愛い……君を妻に出来る僕は、この世で最も恵まれた男だ」
「マティアス……」
 ――シャルロットはマティアスを見つめ直し、頬に触れていた手を取ると、囁いた。
「待ち切れないの。私を貴方の妻にして……早く」
 私を捕まえていて。強く。

 

 『ヴォルフ』
 マティアスが知っていたのはその名前と噂だけだ。
 ――それは今も変わらない。マティアスはまだヴォルフと対面したことがなかった。
 ただ出逢ったばかりの頃、シャルロットに聞いた話の数々と、多少赤い街の人間から漏れてくる噂とで、曖昧な人物像がぼんやりと頭の中にあっただけだ。しかし今まで、マティアスの中でヴォルフは死んだ人間だった。
 ヴォルフは冬の森で行方不明になったという。
 雪に埋もれる東欧の冬の森は、決して安全な場所ではなく、そこで『行方不明になった』 というのは空しい慰めの表現に過ぎないと思っていた。死んだのだ。きっと皮肉にもその名が示すとおり、狼に襲われ、命を落としたのだ……。
 マティアスには不思議と、ヴォルフがシャルロットを捨てどこかへ逃げたという可能性は、ほとんど信じていなかった。
 美しいシャルロット。
 気丈でいながらも繊細で、針子に身を落としながらも、気品は失わない。強さと優しさ、そして情熱を現す大きな黒い瞳は、男として生まれた者なら誰でも惹かれ、一度見つめられれば、二度と忘れる事は出来ないだろう。そんな彼女を得て、逃げ出す理由など何処にあるのだ、と。

 マティアスが最初に、赤い街の東の外れ、新しく改装された邸宅の主人の話を聞いたのは、召使いの女からだった。
「あれは孤児だった男です。数年前にふらりと消えたのですけど、見栄えは美しくても少し恐ろしい雰囲気の男でして……」
 孤児。数年前に消えた。美しい。
 あまりにも符号が合致して、マティアスは背筋が凍るのを感じた。女に問い質すと、確かにその孤児だった男の名前は、ヴォルフであると言う。

(シャルロット……君は)
 シャルロットの瞳の中に、想いが揺れているのを、マティアスは見逃さなかった。
 しかし――
『私を貴方の妻にして……早く』
 それでも、どんな葛藤が君の心の中であろうとも――君が僕を選んでくれたというのなら。僕は君を放さないだろう。
 たとえこの手足をもがれようとも。

 

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