4.

 姿は見えなかった。ただ、声だけが後ろから響く。
 『シャリー』 と。
 とても遠くから聞こえてくる小さな声で、距離が邪魔をしてはっきり聞こえない。擦れてしまいそうなほどの僅かな響きだった。しかしシャルロットは振り返った。例えどれだけ遠くても、どれだけ音が小さくても、シャルロットがこの声を聞き逃したり間違えたりすることはない。
 彼の声だ、ヴォルフ――
 振り返るとそこは闇で、視界に入るものは何もない。星も月もない夜のようだ。自分が立っている地面さえ、暗闇以外に何もない不可思議な空間だった。シャルロットは心臓が高鳴るのを感じて、胸元を押さえる。理由は暗闇ではなく、この先に、ヴォルフがいるかもしれないという漠然とした予感からだ。
 会いたい、彼の顔が見たい――
 そんな思いから、シャルロットは声のした方へ走り出した。暗闇を恐れる理性はなく、ただ失った自分の半身を取り戻そうとするように、本能のまま求めもがきながら。そのまま走り続けると本当に闇の先にヴォルフが現れた。しかし後姿だ。
 遠く浮かぶ彼の後姿に、シャルロットは手を伸ばそうとした。すると、彼が振り返る。
息を呑んだ。
 しかし何故か彼の顔は暗闇の霧に包まれたまま、見えない。
「ヴォルフ……」
 声に出して名前を呼ぶと、ちらりと、ほんの少しだけ漆黒の瞳がひとつ、のぞいた。そしてゆっくりと彼の輪郭が浮かんでくる。
 見えたのは顔の右半分だけで、もう半分はまだ霧が晴れないまま。
 悲しそうに沈んだ片目で、シャルロットを見つめる。
 どうして、とシャルロットが問おうとすると、ヴォルフの姿は静かに、まるで闇に溶けるように消えていった。

 

 目が覚めて夢だったと気が付いても、シャルロットはそのヴォルフの片瞳にとりつかれたまま、それを忘れられず重い足取りで仕事場へ向かった。朝になったというのに空は厚い雲が太陽を遮ったままで、肌寒く、身体の芯がぴりりと痛むような北風が吹く。
 まだ人通りの少ない街道で、シャルロットは高く空を見上げた。すると空から、白い、小さな花びらのような結晶が降ってきた。
(雪……)
 それが、この年初めての雪だった。

「街の東の先にあった屋敷を覚えているかい? たいした構えの、中々豪華な建物だよ。ずっと手付かずだったんだが、最近誰かが買い取ったらしい」
 マティアスは、シャルロット達の仕事場に入ってくるなりそう言った。
 この場違いな侵入者に対して老婆は大して気も留めず、挨拶されると少し上機嫌そうに咽を鳴らすだけだ。シャルロット以外にもう一人幼いお針子がいて、彼女は少し恥ずかしそうに頬を染めていた。
「そうなの? 知らなかったわ。こんな小さな街なのに、珍しい人もいるのね」
「僕らのようにね」
 こうしてマティアスが仕事中のシャルロットを訪れるのは、今に始まった事ではない。
 仕事の合間を見ては、時に数分、時に小一時間、ここに顔見世にやってくる。
 普段は、何人もの小作人を抱える農場主である父について仕事をしているマティアスだ。マティアス自身は次男だが、長兄とそれほど歳は変わらない。都市志向の兄に比べ素朴な感のあるマティアスだが、それがかえって仕事に向いているのか、そう遠くない将来、幾ばくかの土地を父から受け継ぐだろうと言われている。
 もちろんこれは、マティアス本人の口から出た言葉ではない。
 彼はこういった、自身をたたえる種類の話は滅多にしないのだ。ただの街の噂である。
「寒冬になりそうだ。色々と薪やら、準備が忙しくてね」
 そう言うとマティアスは、一度は脱いだ帽子をまた被りなおした。
 薪の用意などマティアスの身分なら全て小作人にやらせてもよいのだが、この人好きのする男は、時々自らも斧を振るうのだという。今もまさにそんな格好だ。シャルロットはそれが可笑しくて小さく笑った。
「大変そうね。何か、私に手伝えることがあるかしら?」
「ほらきた、我等がシャルロット! 君は妙なところで逞しいことを言う!」
 針の手を止めたシャルロットに、マティアスが声を上げた。しかしその表情はとても穏やかで、優しい微笑を覗かせている。
「いや――シャルロット。君が苦労しなければならないことはないよ」
 マティアスはまた、入ってきた扉から出て行こうとしていた。名残惜しそうに、仕事椅子に座ったままのシャルロットの顔を見る。
 何か言葉を続けたそうに、僅かに口を開いたまま。
 見つめ合った2人の間で、一瞬、時が止まったような気がした。くすぐったい何かがシャルロットの胸をくすぐる。
 理由は分かっている、マティアスが何を言いたいのかも。
 雪だ。
 この朝、赤い街に今年初めての雪が降ったのだ。今も淡くはあるが、降り続けている。
 シャルロットはマティアスを見つめたまま、彼には見えていないであろう手元に、きゅっと力を入れて拳を握った。
 緊張がその場に伝わったのか、もう一人の幼いお針子は困ったような顔をして辺りを見回した。老婆がそれを察して溜息を吐き、仕方なさそうに首を左右に振る。そして言った。
「お前たち、話なら外でするんだね。シャルロット、昼までには帰るんだよ」

 

 吐く息が、湯気のように白く舞って、消える。
 消えてもまた次の息が同じように空気を白く飾って、それは、終わりのない連鎖のようだ。
「冷えるね」
 マティアスは言った。
「ええ……」
 答えながら、シャルロットははやる鼓動を落ち着かせたくて、深く息を吸った。そうしないと胸が焼けてしまいそうな気がしたのだ。外はこんなに寒いというのに、人の身体とは可笑しくできている。
 マティアスが何を言いたいのか、何を言えないでいるのか、シャルロットにはもちろん分かっていた。
 約束の初雪だ。
 一度は了解した約束。しかし、たとえシャルロットがそれを反故にしたとしても、マティアスは責めない。だからこそ彼はこうして、自ら話を切り出さないのだ。もしこのままシャルロットが黙っていれば、マティアスは何も言わずそれを受け入れてくれるだろう。少し残念そうな顔をしながら。そして明日になればまた、以前と変わらずシャルロットに接してくれる。
 こんなに温かい男性がいるだろうか。
 否――
 たった一人、いたけれど、彼はもう夢の中以外には現れないのだ。
「マティアス……私達、約束したわね?」
「…………」
 マティアスは何も言わず、ただ息を呑んでシャルロットの言葉を待っている。
 そんな彼の緊張の顔は、まるで父親に怒られるのを覚悟した子供のようだ。可愛らしくて、そして、愛しくて、シャルロットは場違いに噴き出してしまいたい衝動に駆られた。
しかし静かに言う。
 ……そう、愛しいのだ。それは嘘ではない。
「今年最初の雪が降るまでに、彼が現れなかったら、って。これは雪ね」
「そうだね」
「貴方は私の中の思い出も、愛してくれると言ったわ。私を守る盾になろう、って……」
「そうだ……」
 シャルロットが一歩マティアスの傍に進むと、彼はその手を彼女の腰に掛けた。
「言葉に偽りは一片もない。本当にそう思っている。シャルロット」
 確かな声で、マティアスは言った。
 シャルロットは足元に視線を落とす。
「昨夜……あの人の夢を見たの。飛び起きて、苦しくなって、気が付くの。彼はもうここには居ないんだってこと。とても辛い気分で……でも、朝になると貴方に会える」
 視線を上に戻して、シャルロットはマティアスの瞳を覗いた。そして続ける。
「貴方は私の太陽だわ。闇から引き上げてくれる」
「――もう忘れるんだ、シャルロット。闇など誰も必要としない。奴がまだ忘れられないというのなら、僕が忘れさせよう。君が一人で戦うことはない。2人で忘れていけばいいんだ」
 シャルロットの腰にあったマティアスの手が、気が付くと頬に触れていた。
 お互いの決心を胸に、2人は見つめ合う。
「答えを。シャルロット、僕に、君の隣に寄り添う権利をくれ――」
 マティアスの言葉に、シャルロットは小さく頷いた。
 マティアスの瞳が開かれる。
「私にも、貴方と生きていく権利を……」
「シャルロット!」
「頂戴……きゃあっ!」
 シャルロットが言い切らないうちに、マティアスはシャルロットの腰を抱えると、彼女を勢いよく宙に浮かべた。そしてクルクルと回る。
「何てことだ! 君を一目見た瞬間から夢見たことが叶ったんだ!」
「ま、待って、もうっ、マティアス!」
「こんな幸せはない。ああ、僕のシャルロット――っと、こう呼んでもいいかい? 『僕の』 シャルロット!」
「何でもいいから、降ろして頂戴っ。身体がばらばらになってしまいそうよ!」
 それは勢いのよいスピンに、シャルロットは音を上げて降参した。
 マティアスは大人しくシャルロットを地面に戻したが、興奮冷めやらず、だ。
「悪かった、シャルロット。しかし本当にいいんだね? 君の肯定の返事を貰えたのなら、僕はもう引き返せないよ」
「いい、というだけではないわ。そうして欲しいの――忘れなくてはいけないと、やっと気が付いたの。そして私は貴方の事が好きだわ。誰よりも」
「分かってる。2人で乗り切ろう、新しい明日を築くんだ。後悔はさせない」
 まだ息が上がったまま、興奮を隠そうともせず、マティアスは真剣な表情で言った。
 シャルロットも言葉無くそれに頷く。

 そうだ、時は来たのだ。どれだけ思い出の中のヴォルフが愛しくても、彼はもう戻らない。人は過去を生きる事など出来ないのだ――。
 マティアスとシャルロットの2人は額を寄せ合い、誓い合うように、こくこくと何度もうなづき合った。
 次の日から2人は、正式な婚約者同士として街で発表された。もちろん小さな集落だ。正式といってもただ、裏であった噂が表に出たというだけのもの。しかし2人にとってはそれで充分だった。
 結婚は春に決まった。
 冬の式はあまり歓迎されないし、シャルロット自身も冬は好きになれない。春、草花が芽吹く明るい季節に結ばれようと、2人の婚約者同士は約束をして、その時を待つことになった。

 

 ヴォルフは静かに森から『赤い街』 を見下ろした。
 変わらない――質素だが調和の取れた美しい赤レンガのこの街に、2年程度の歳月など、たいした変化を与えなかったのだ。
 しかし自分は変わった。
 その身分も、立場も、そして姿も――
 唯一つ変わらないのは、シャルロットへの飽くなき想いだけだ。岩のように重く硬い、頑強なこの想いだけは、たとえ千年の月日が流れても変わらない。

 

 幕は開けた。
 物語は今始まる――

 

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