3.

 淡い光――朝日が、窓から差込む。
 シャルロットはまるで、深い海の底から誰かの手に導かれて、引き上げられるように、ゆっくりと目を覚ました。
 4階建ての建物の最上階、屋根裏と呼べる小さな部屋。
 ここが今のシャルロットにとって、家と呼べる唯一の場所だった。同じようにお針子、裕福な家の召使いなどをしている子女が隣接する似たような部屋を住まいとしている。床は小さく、天井も低い。せめては、と清潔にしているお陰で悲惨な雰囲気はなかったが、しかし、貧しい佇まいには変わりなかった。
(夢、を……ヴォルフの夢を、また)
 シャルロットはシーツを片手で胸元へたぐり寄せ、上半身を起こした。
 鼓動が、耳が痛くなるくらい早まっているのを感じて、肩で息を繰り返す。胸に、重い石が圧し掛かっているような苦しさがあった。
 額には汗がうっすらと滲んでいて、シャルロットの絹のような黒髪が、幾つか張り付いた。
 ――普通の娘なら、ここで泣くのだろうか。
 シャルロットはそんなことを、まだはっきりしない頭の中で考えた。失った恋人の夢を見て飛び起きる朝。市井(しせい)の娘なら大声で涙しても不思議ではない。しかし、シャルロットがヴォルフを想うとき、それがいつであっても、涙が出るということはあまりなかった。
 代わりに支え切れないほど胸が重くなる。
 そしてその重みはいつも、心の奥、最後の最後、魂の底辺のあたりを根城として、どっしりと落ち着いて離れなくなる。
 あの瞳、髪。低い声。
 最初にシャルロットの瞳を捕らえた、美しい彼の姿。そして後(のち)に、もっと強くシャルロットを惹き込ませた、彼の美しい心。永遠の愛だと信じたそれは、ヴォルフがシャルロットの前から消えたことで、終わったかに思えた。しかし違う。あれは確かに永遠の愛だったのだ。その証拠に、この胸には今もまだ彼が居る。
 しかし――
(マティアス……)
 しかし心は正直だった。もう救いと温もりを求めている。
 ヴォルフの、既に2年になろうとする不在は、シャルロットの心に空洞を生んだ。そのぽっかりと空いた穴を優しさと愛情で埋めてくれたのが、他でもない、マティアスだ。
 もし彼が居なかったら。そんな事は考えるのも恐ろしい。
 マティアスはあらゆる意味で、ヴォルフと正反対の男だった。恵まれた生い立ち、外交的な性格、素直な愛情表現……。
 もしヴォルフより先にマティアスに出逢っていたなら、多分に、シャルロットはマティアスの愛を無条件で受け入れていただろう。それほどシャルロットにとってマティアスは、心を許せる存在でもあった。
(ヴォルフ、貴方はもう帰って来ないの?)
 2年は長い。長い恋人の不在。
 シャルロットのような年頃の娘にとっては、特に。
 シャルロットの両親が亡くなったのは3年前の冬だ。半年ほどは何とか彼らの遺産で食いつないでいたが、それも大した額ではない。厳しい税の取立てなどもあり、すぐに生活は立ち行かなくなった。手先が器用で針仕事が得意だったお陰で、今の婆やがそんなシャルロットを雇い入れたのだ。
ヴォルフとシャルロットが出逢ったのは、正にそんな矢先。
 しかしそれから数ヵ月後の冬、ヴォルフは突然行方不明になり、そのまま現在に至る。マティアスを含むフューラー家が赤い街に来たのは、それとほとんど同時だった。
(ヴォルフ)
 あの頃、森を、2人で駆けた。
 ヴォルフは寡黙な男だったから、多くを語ることはなかった――しかしその美しい漆黒の瞳がシャルロットを映すとき、必ず、際限のない深い愛情がそこに切ないほど溢れていて、シャルロットはそれで満足したのだ。言葉など無くとも。
 ヴォルフは孤児で、出生ははっきりしなかった。
 ただ余りに美しいその造形から、高級娼婦が産み落として捨てたのだろうとか、そんな噂が幾つかあった程度だ。苗字もない。いや、名前がないのか。ヴォルフはヴォルフで、そう呼ばれる以外の名を持たなかった。
 美しい、孤高の、野生の狼を思わせた男。
 だから何時(いつ)からか、誰かが彼をそう呼び始めたのだろう。
 彼に肩を抱かれ、時折、小高い森の丘から赤い街を見下ろした。
『シャリー』
 ヴォルフはシャルロットをこう呼んだ。
 シャリー……これほど美しい響きの言葉が他にあるだろうか。ヴォルフがこうシャルロットを呼ぶとき、まるで、神聖な祈りを捧げられているような、永遠の愛を誓われているような、どうしようもなく愛しい気持ちになった。
 ヴォルフは幾つか、比較的裕福な家の門番や、馬の飼育をしながら暮らしていた。経済的に豊かだとはとてもいえなかったが、酒も嗜まず、質素に時をやり過していたので、堅実と言えただろう。
 そしてこの静かな、狼のような男は、滑らかな漆黒の髪と瞳、しなやかな肢体と長身を持ち、いつでも見る者の感嘆を誘った。寡黙だが美しい男として、赤い街では長く名が通っていたようだ。
 シャルロットがヴォルフの存在をそれまで知らなかったのは、両親の元からほとんど離れた事がなかったからだ。例によってヴォルフはほとんど話さなかったので確かではないが、何度か、シャルロットの両親の元で働いたこともあったらしい。
 出逢った瞬間に惹き込まれ、まるで生まれる前から一心同体であったかのように求め合った。
 それが、何を間違ったのだろう?
 婆やの言うようにヴォルフはどこかで、例えば森の奥で、突然獣に襲われ亡くなったのだろうか。それとも何処かへ行ってしまったのだろうか。
(2年……)
 諦めるときが来たのだろうか……この冬、シャルロットが失うものとは、この愛なのだろうか。

 

 その日の夕方――街道で。
「嫌だわ、マティアス、これは婆やのお気に入りの色。失くしたりしたら、酷いお小言をもらう羽目になるの」
「僕がやったと言えばいいよ。幸い、どうしてか知らないけど、あの老婆は僕に寛容だ」
 シャルロットが運んでいた糸の玉を一つ、マティアスはふざけながら手に取って、宙に投げては掴んで、もう一度投げては掴んで、という遊びの様なことを繰り返していた。
 しかしシャルロットがもう一度「駄目よ」 と声を上げると、マティアスは穏やかに笑って、それをシャルロットの腕に掛けてある手篭に戻した。
「子供のような事をするのね?」
 シャルロットは片眉を僅かに上げて、叱るようにそう言った。しかし瞳は優しい輝きを持っている。マティアスは肩をすくめた。
「愛する女性の前では、どんな男も童心に戻ってしまう。これはもう仕方がない。諦めてもらうしかないな、シャルロット」
 マティアスはそう言うと、ふと無意識に空を見上げた。ちょうど風向きが変わったようで、髪が柔らかく揺れる。
 シャルロットは穏やかに、しかし少し切ない風な笑顔をマティアスに返した。
 ――空は灰色だ。冬の色。
 今はまだ時折青空の見える時間があるが、もう一月もすればこの灰色が空を埋め尽くして、それが春まで続くのだろう。厳しい季節だ。貧しい者は、本当に凍え死ぬことさえある時期。
 マティアスは足を止めると、シャルロットに向き合った。
「シャルロット――何度もこれを言う無礼を許して欲しい。僕は君を愛している」
「どうしたの? マティアス、急にそんな……」
 いつもと違う。シャルロットは敏感にそれを感じた。
 マティアスはシャルロットの両手を取ると、彼女の瞳を真剣な表情で覗き込む。
 お互いを見つめる瞳が、揺れた。
「マティアス」
「急ぐつもりはなかった。けれど君に1人の冬を過ごさせるのは、もう僕には出来ない」
「それ……は、」
「君はあの男を待ってる。けれどもう2年になる――長すぎるだろう、シャルロット。現実を見てくれ。君は来年には20になる。僕は24に」
「…………」
 シャルロットの手を握るマティアスの腕に、力が入った。
「冬は厳しい……シャルロット。もし僕が嫌いでないのなら、この冬が来る前に僕を受け入れて欲しい。一生を掛けて君を守ることを誓おう」
 シャルロットは、僅かに足が震えるのを感じた。
 情熱的な愛の言葉。マティアスはそれを心から言ってくれている。
「私は……貴方が好きよ、マティアス」
 シャルロットは言った。
「でも、と続くのだろう。しかし止めてくれ。思い出はもう充分だ、これから2人で……共に、未来を築かせてはくれないか」
 2人は見つめ合った。
 しかしシャルロットの瞳に戸惑いがあるのを見て、マティアスは視線を落とし、しばらく彼女の白い手を見つめた。
細い指だ。これがまたも1人の冬を越せるようには思えない。
 マティアスは決心したように、再び顔を上げると、シャルロットを強く見据えた。
「最初の雪――この冬、最初の雪が降るまでに」
 まるで歌うように穏やかな声で、マティアスは続けた。
「それまでにあの男が現れなかったら、僕と結婚して欲しい。僕は君の中にある思い出も、君自身と同じように愛する。僕を、君を守る盾にさせてくれないか」

 

 ヴォルフ、私の愛しい半身、美しい夜の光。
 マティアス、私の未来への希望、温かい太陽。

 

 シャルロットは息を呑み、そして、マティアスの言葉に頷いた。
 そしてその年、赤い街に最初の雪が降ったのは、それから一月後のことだった。

 

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